105 歌の時間
エウルナリアは長い廊下を歩きながら、規則正しく等間隔に並ぶ大きな窓にちら、と目を向ける。立ち止まり、そこから空を見上げた。
――青い。
夏が近いわりに、よく晴れている。
最近、困ったことがあるとすぐ、空を見ている気がする。
「全員、揃っちゃったんだね…」
愛らしい呟きは誰の耳に届くこともなく、学舎のクリーム色の壁に消えた。
過日、シュナーゼン皇子によって引き起こされた“エウルナリア連れ去り事件”は、何とか当日中に解決されたものの、別の問題を発生させた。
彼女の婚約者の選定に関する案件である。
『構わないよ、答えは急がない。歌長が言うように、貴女自身の心が伴わないと意味がないからね』
――あの日、微妙な雰囲気になった一同を総括するように、穏やかに笑みさえ浮かべつつ、持論を述べたのはアルユシッド皇子だった。
かれの言葉には、妙に説得力がある。
さすが、次代の聖教会の長と目される人物というべきか――それでも音楽が好きで、学院は迷わず通うと決めたらしい。
入学前に、聖職者の業である「医療術」は、最低限の水準まで修めているのだという。
『我が兄ながら、いやになるわ。だって、これでピアノまで巧いのよ?!』
とは、ゼノサーラ皇女の言。
その時ぴくり、と反応したレインの姿が、なぜかエウルナリアの胸裡に残った。
(ユシッド様のピアノは、まだ聴く機会がないけど……レインのピアノも凄いのに。焦ること、ないと思うんだけどな…)
空の青さと、少女の視線の青が重なる。
白雲が散見する快晴。
芒洋と眺めつつ――ハッと気づき、さらりとした生地のスカートを翻し、歩を進めた。
初夏の薄い制服は、心持ち、軽い。
* * *
「悩んでる声ね。めずらしい」
「サーラ様…そうですか?」
「また。さっさと敬称、取りなさいよ」
「……ふふ、わかりました。サーラ」
銀細工の姫君――ゼノサーラ皇女は、言い方はきついが心根が優しい。エウルナリアは、両手で開いた大きな楽譜を閉じ、一旦、胸に抱えた。
六月に入って始まった、それぞれの専科の講義。レインはピアノ、グランはトランペット。おそらくシュナーゼン皇子は打楽器――それぞれの専科に分かれ、受講する機会が増えた。
ゆえにエウルナリアは、ゼノサーラと過ごすことが多い。
今は女声合唱。一学年で声楽を選んだ少女は、計二十八名。その誰もが将来の歌姫を目指す声の持ち主ということもあり、みんな上手い。講義は滞りなく進んでいる。
合唱で重要なのがパート分け。
女声の場合は高音のソプラノ、中高音のメゾ・ソプラノ、低音のアルトに分類される。更に細分化されることもあるが、基本はこれ。
それぞれの持ち味があり、どのパートも歌えば楽しい。あとは、どの音域が一番当人の声質に合っているか。
ちなみにエウルナリアはソプラノ。ゼノサーラはアルトになった。席に着いての譜読みは終わったので、次は壇上へ。パート別に並ばねばならない。
講師の女性が時計をちらりと見た。
――時間だ。
「では、サーラ。暫しのお別れですね。私がいないからと、寂しがらないでくださいね?」
黒髪の少女が、青い目を茶目っ気たっぷりに傍らの皇女へと向ける。
皇女も負けじと、フンと軽く鼻を鳴らして紅玉色の視線を流した。
「冗談。貴女がいないほうが、音が引っ張られなくていいわ。私の低音だって捨てたもんじゃないのよ。大人しく聴いとくのね!」
びし!と指まで指しての宣戦布告。
つんつんしてて可愛らしいなぁ…と、エウルナリアは目を細め、頬を緩める。意表を突く笑顔に、たじろぐゼノサーラ。
「仰る通りかもしれませんね。では、お互い聴き合って……楽しみましょう?」
にっこりと笑んでから踵をゆるりと返し、壇上へ向かうエウルナリア。
残されたゼノサーラの頬が、少し赤いことには気づいていない。「あぁもうっ!性質わるい……っ」という呟きは聞こえたが、気にしなかった。
……幼い頃から、一人で歌ってきたせいだろうか?
黒髪の少女は、みずからが抱えた憂いも忘れさせてくれる程に、幾人もの声が何層にも重なり、“歌”を増幅させて響かせるような――この合唱の時間を、ひどく気に入っている。
ブクマが…なななんと、100に、なりました!驚きました。ありがとうございます!
別件ではありますが、交流のある方からいただいたバトンのご指名により、活動報告でレインが喋っています。よろしければ、画面下へスクロールして「マイページ」からご覧ください。




