104 放課後の人拐い(後)
銀色の皇子自身には、少女をやんわりと拘束しつつも、どこまでも邪気がない。
「決まってない、か。そうだね。でも、僕は決めたよ。君の――」
かれが、決めたという言葉を続けようとした、その時。
ココン!
エウルナリアの背で、素早く扉が鳴らされた。
「!」
(よかった、逃げられる!)
黒髪の少女は不本意だったが、勢いを付けて、みずからシュナーゼンの胸に飛び込んだ。体当たりに近い。
予想外の行動に、思わずバランスを崩した皇子は、彼女の両手を捕まえたまま「わぁ!」と一、二歩後ろへ下がる。
(今だ)
すかさず、エウルナリアは肺いっぱいに息を吸い、後ろを向いて全力で叫んだ。
「お願い…!開けてください、助けて!!」
「え」
ちょうど、扉が開くほどの空間が確保されているのを見て、「しまった」と言わんばかりの皇子だったが――ちゃっかり左腕を少女の背に回して、ついでとばかりに抱き寄せた。エウルナリアの小柄な体躯が、皇子の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
「殿下!何なさって…」
「いや、名残惜しいから」
「~~~……もう!何考えてるんですかッッ!」
…カチャッ
ようやく、ドアノブが開く音がした。
「――――こら」
少し、間があったろうか。
しかし直ぐ、状況を察したのだろう。つかつかつか、と歩み寄ったその人物は長身だった。
すっと二人に近づくと、ゴッ!…という音とともに、シュナーゼンの頭に拳骨を落とす。
「―――~…っ痛ぅッ!!」
たまらず、奔放な皇子殿下は撃沈した。
エウルナリアは、目を丸くする。仮にも、皇子なんだけど…と仰ぎ見ると、印象は違うが見知った人物が、そこに居た。
「!…」
驚きもここまで重なると、もう何でも来いという心境になる。少女はいちど瞑目すると、「ふぅ…」と深く息を吐き、意識を切り替えた。
――これ以上、みっともないところは見せられない。
「…ありがとうございます」
「どういたしまして。すまないね、うちの愚弟が」
どこかで聞いたことのある言い回しに、黒髪の少女はつい眉尻を下げて、くすりと微笑った。
今は申し訳なさそうな形の、凛々しい眉。柘榴石の優しげな瞳。驚くほどの美貌なのに、威圧感が全くないという稀有なひと。
……髪は、今日は柔らかな白銀。
「こちらでは、髪は染めていらっしゃらないんですね、ユシッド様――いえ、アルユシッド殿下。お久しぶりです」
状況は相応しくないかもしれないが、けじめとしてエウルナリアは臣下の礼をとった。
対するアルユシッドも、今日は頷きを返すのみで礼はしない。穏やかに微笑んで「久しぶりです。どうぞ、楽にして」と、皇子然として振る舞う。
昨年の星祭りにサングリード聖教会で出会った少年は、もう、すっかり青年となっていた。
アルユシッド・フィン・レガート。
この国の、第二皇子である。
* * *
二人の皇子と連れ立って音楽棟を歩く。
既に下校時刻は過ぎている。拐われてから、ずいぶんと時間が経ってしまった。
ちらり、とエウルナリアは隣を歩く長身のアルユシッドを見上げる。
「あの…殿下は、なぜこちらに?」
「妹に泣きつかれたんだよ。『エウルナリアを助けて』って。あんなに切羽詰まったあの子の顔は、初めて見た。
……神出鬼没な我が愚弟と違って、私はたいてい研究室――この棟の、四階にいるからね。
貴女を連れて雲隠れしたシュナよりは、見つけやすかったんだろう」
思い出したのか、アルユシッドは右手を口許に当てて、くすくすと笑っている。
たちまち漂う日溜まりのような空気。
――なんだか落ちつくな、と少女はつられて笑んだ。
「皇女様には、お礼申し上げないといけませんね…私の友人達にも、謝らないと。階下に居ます?」
「いるよ。待ってもらってる。守護騎士君たちの狼狽ぶりは、さっきまでの貴女にはきつかったろうからね。『待て』が出来る、良い子達だ……ね、シュナ?」
話を振られた第三皇子は、ぴくりと反応した。「そうですね」と、心のこもらぬ答えを返す。
拗ねたような物言いは、かれを年齢より幼く見せた。
「…僕から言わせてもらえば、兄上だって『待て』を自分に課しちゃうお利口さんです。
笑っちゃいますよ。兄上だってアルムから聞いてるんでしょう?エウルナリアの――」
ぴた、とアルユシッドの歩みが止まった。
怒気はない。
しかし、目を逸らせなかった。
「この話は、そこまで。選ぶのはお前じゃない。彼女だと歌長も言っていただろう。いいね?」
弟へ流される、暗い紅の視線に染まるように、周囲に緊張感が漂う。先程までとは、まるで違う人物のようだった。
弟皇子も少しの逡巡のあと――渋々と頷く。
それは、驚くほど双子のゼノサーラとよく似ていた。
アルユシッドは、ふっと瞳の光を和らげると隣のエウルナリアに目を向ける。打って変わって、柔らかく語りかけた。
「今回は、うちの弟妹が本当に迷惑をかけたみたいだし……みんな『殿下』じゃ、ややこしいでしょう?私達のことは愛称で呼んで。ユシッド、サーラ、シュナと」
「は……はい。わかりました」
一階へ降りる手前で、愛称の許しとともに差し出された左手が、エスコートのためだと気づくのに、エウルナリアは数秒を要した。




