102 放課後の人拐い(前)
幼馴染みの三人と一人の皇女は、午後の講義を終えて音楽棟を歩いていた。
読譜学の講義は一学年でも受けられる数少ない必修専科とあって、音楽科のものは全員、これを受ける。
他の専科は、最終的に必要な単位を修めてさえいれば、自分で好きに選んで講義メニューを組み立てられる。
ただ、どうしても最初は必修の一般共通科目が主体となる。ゆえに一学年が音楽棟に足を踏み入れられる機会は、基本的に午後の二時間だけ。
クリーム色の壁、きれいに磨かれた白っぽい石の床。学院指定の靴は、踵が低く靴裏に消音機能のある素材を使っているため、大勢の人間が行き交う割に、学院内には粛々とした雰囲気が漂う。
* * *
「良かったな、レイン。いきなり苦手なやつじゃなくて」
どこか、人の悪そうな笑顔で親友を肘で突っつくグラン。かなり嬉しそうだ。
顕著に歩みを邪魔されているものの、栗色の髪の少年にさほど怒った様子は見られない。
珍しく、ふ、と小さく笑んで赤髪の親友を見返す。
「そんな風に言えるのは今だけです、グラン。…いきなり初見でも良かったんですよ?今日の僕に、死角はありませんでしたからね」
どこか、勝ち誇った視線を流すレイン。いつもより自信満々な様子が年相応に見えて、何となく微笑ましい。
「あー、そういやお前、ずっと下読みしてたもんな、教科書。……でもそれ、『初見』として有りなの?」
「……」
残念。黙り込んでしまった。
気の毒になったエウルナリアは、おっとりと会話への途中参加を試みる。
「まぁまぁ。読譜力を伸ばす上での最大の強みは、楽譜を見るだけで音を頭に浮かべて、“曲”を正確にイメージ出来ることにあるから……
それをすぐ表現に――初見演奏まで繋げられるかどうかは、適性もあるけど、ほぼ本人の努力次第だよ。ね?」
「……」
「……」
しん、と新たな沈黙。
心配になって、ちら、と覗き込むと、二人とも同じく「――思うところはある。けど言うまい」といった表情だった。顔まで逸らされた。
「?」
混乱を深めるエウルナリア。
嘆息しつつ、見かねて皇女が加わった。
「……ばかね、追い打ちかけてどうすんのよ。『持てる者は持たざる者を理解できない』の、典型よね。貴女って…」
「え……それは、すみません…?」
「疑問型で謝ってんじゃないわよ」
言葉はきついけれど、そこに確かに笑みが含まれているのを感じ取った少女は、何だか嬉しくなって、ゆるゆると花が綻ぶように微笑んだ。
その様子に傍らの少年二人も苦笑しつつ、いつの間にか柔らかな表情に戻っている。
和やかな一行が、二階から一階へ降りようとした―――一瞬の、会話の空白。
パタパタパタ……
ガチャっ!
突然、見計らったようなタイミングで賑やかに扉の一つが開き、妙に明るい声が廊下に響き渡った。
「やあサーラ、久しぶり!…と、初めまして?サーラのお友達!通りかかるの、待ってたよ!」
唖然と立ち止まる一行。
そんな中、銀髪の皇女だけが素晴らしい反応速度で振り返り、キッと眦もきつく、堂々と声の主と向き合った。
左手を腰に当て、右手の人差し指を思いきり相手に突き付けている。
皇女は、すうぅ……と、息を吸い込んだ。
「シュナ……!『久しぶり』じゃあないわよ!あんた、講義も粗方すっぽかして、何処行ってんのよ!!」
なかなかの声量を披露する皇女以外の、面々は――相手の姿に目を丸くした。これは…
エウルナリアは、す、と一歩下がって淑女の臣下の礼をとる。左右、斜め後ろの二人の少年達も、それぞれの礼をとった。
見目麗しい少女と少年らの、息の合ったうつくしい一連の所作――それはまるで、皇宮の一角であるかのごとき典雅さだ。
礼を受けた少年は、銀の皇女を綺麗に無視して鷹揚に頷く。
「いいよ、頭をあげて。普通にしてね。サーラから話は聞いてる。
君がエウルナリアかな……アルムの娘の?」
名指しで呼ばれ、黒髪がぴくりと動いた。
ゆっくりと、控えめに返答する。
「はい、第三皇子シュナーゼン殿下……初めてお目にかかります。…あの……どのような『話』でお聞きになりました?」
そっと、頭を上げたエウルナリアはじっと皇子を見つめた――似ている。さすが双子と言うべきか。
癖のない銀髪は背の中ほどで切り揃えられ、前髪は長め。量が多いせいだろうか、実に適当に斜め下で括られた一房が、胸の前に垂れている。
瞳はゼノサーラと同じく澄んだ紅。
今は、好奇心に輝いて星紅玉のようた。銀色の睫毛が頬に淡い影を落としている。……性格なのだろうか。弟であるかれの方が、目元の印象に独特な茶目っ気がある。
悪戯っ子だが憎めない、そんな雰囲気だ。
「よし」
「……はい?」
双子の片割れ、シュナーゼンがふいに、にっこりと笑った。本能的に「これは、逃げないといけない」。そう悟ってしまう類いの、いわゆる真っ白なのに“黒い”笑み―――……距離を取ろうとした。が、遅かった。
「おいで。あ、ごめんね。彼女、借りるよ」
ぱしっ、と黒髪の少女の細い手首を掴んだ皇子は、意外な力強さで華奢な身体ごと引っ張る。
たたらを踏んだ少女のもう片方の手を素早くとると、フワッ……と額がくっつくほど間近に顔を寄せて、鋭く「走って」と囁いた。
「!……えっ……でも、殿下…?!」
慌てて走らざるを得ない強引さだった。
まろびつつ、エウルナリアは手を引かれるまま、懸命に階段を昇って更に走り――
ぱたん!
三階の、どこかの空き教室に入れられた。
――……客観的には、連れ去られたという。




