101 わが道とは、孤高なるもの
「おはようグラン。寝坊?」
「あぁ…おはよ、エルゥ……うん。そんなとこ」
あふ、と大きな口を開けて申し訳程度に右手で隠し、グランは大型の猫科のように、豪快な欠伸をひとつ溢した。
常より緊張感を欠いた、きつめの目尻には、うっすらと涙が滲んでいる。
それでも先ず、場の状況把握に努めてしまうのは騎士見習い時代に染み付いた癖なのだろう。教室全体に、ざっと視線を巡らせている。
――大きな若い獅子が、ぼうっと周囲を睥睨しているようで、見ていて面白い。
エウルナリアは、ふんわりと微笑んだ。
「不真面目だねぇ、何してたの?」
「内緒……でもないか。ちょっと一昨日から特注が入ってさ。二日間、楽器工房で夜明かしした。で、今朝納品終えたとこ」
赤髪の少年は、夜色の瞳の光を和らげて、悪戯っぽく、にっと口の端をあげた。
――相変わらずかれは、楽器商である自家の職人達のところへと入り浸っているらしい。
エウルナリアも「やんちゃだねぇ」と、つられたように控えめに、澄んだ笑い声をあげた。
休息日の翌朝。
今は、二時限目が始まる前の休み時間。
一時間丸々遅刻したグランは、エウルナリアの右隣の椅子をぞんざいに引くと、悠々と着席した。
とんがり屋根の東塔の一階、半円の大教室は生徒達の元気なざわめきに満ちている。
入学してそろそろ二ヶ月経つこともあり、皆、それぞれに気の合うもの同士でグループや派閥が出来ている。
その中にあって、最後列の左端を占める一角――エウルナリア達の定席は、孤高とも言えた。
……誰も、近寄らない。
視線を感じないわけではない。むしろ、休み時間はそれとなく、いつも注意を向けられている。
グランとレインが他愛もない事でじゃれ合っていても、エウルナリアとロゼルが至近距離で幸せそうに会話を楽しんでいても、何故か注目を集める。
たまに、息を呑む気配や溜め息まで聞こえる時がある。
(まぁ……入学式のときの、グランとレインは怖かったものね。それに今は――)
かたん、とエウルナリアの左隣の椅子が鳴った。
「ちょっと。仮にも自国の皇女を前にして、その態度ってどうなの」
――今日も、銀の皇女殿下は喧嘩っぱやい。
椅子を少しずらして右に身体を傾けると、遅刻した挙げ句みずからに挨拶もしない男爵令息に、さっそく噛みついた。
グランは面倒くさそうに、がりがりと後頭部を掻いている。
「ちっ…めんどくせぇな………はいはい。おはよ、皇女様」
(!グラン、今、舌打ちした……心の声出てる。おまけに棒読み!どうしよう。わからなくもないけど)
「この……っ、赤毛の青二才!」
忽ち激昂する左のゼノサーラ。
もはや聞いてもいない右のグラン。
真ん中で途方に暮れるエウルナリア。
三者三様だが……
(あ、これ。……何かで読んだ。確か『前門の虎、後門の狼』だ……この場合の虎は、グランよね)
古い慣用句を内心で諳じた黒髪の少女は、遠い目になり、静かに現実逃避した。
……が、混迷の一途を辿る一団に対し、冷静に「ふぅ…」と溜め息をつける猛者がいた。――ロゼルだ。
「…殿下。グランが赤毛で青二才なのは確かだが、場所を弁えてくれ。
最初にレインからも言われたろう?相応の振る舞いをしろ、と。もうお忘れか?」
つめたい口調。
ちらり、と流した深緑の視線。
手元は図書の塔で借りたという、歴代首席卒院生の作品図録という徹底ぶり。
彼女は、どこから見てもキーラ画伯家の跡取り息子だ。
「う……わかったわよ。大人しくしとけぱ、いいんでしょ」
渋々、立ち上がりかけていたゼノサーラが再び着席する。エウルナリアは、ほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、ロゼル」
「いや?どういたしまして。
……そうそう、殿下。次にこんなことがあれば、もうエルゥの隣には座らせない。わかった?」
「ぐっ…わ、わかってるわよ……!」
いつの間に、そういう関係になったのだろう…?疑問に思ったが、エウルナリアは賢明にも、特に何も問わなかった。
なお、レインはこの騒ぎの最中いっさい動じることもなく、窓際で午後の読譜学――かれが最も苦手とする、初見を含む講義――の教科書をぺらり、と捲り。
我関せず、と下読みしていた。




