100 主従の穏やかな休息日
翌日は、小雨が降った。
閉められた窓の向こう、見はるかす限り明るい曇天から、細く銀色の糸が垂れている。
――そろそろ春も終わりか。
晴れていれば庭をそぞろ歩こうと思っていた令嬢は、「残念」と一言呟き、再び飴色の机と向きあう。
机の上には、数冊の教科書とノート。
今、開いているのは地理のそれ。レガートを囲む四つの国の何れかについて二頁以上レポートするという、ざっくりとした簡単なものだ。
総じて、学院からの課題は質量ともに驚くほど温い。
サアァァァー…という涼やかな雨音をどこか遠くに遮断し、カリカリカリ……と、ペン先が紙を引っ掻くような音だけが、しばらく部屋に響く。
やがてコンコン、と扉が鳴った。
「どうぞ」
カチャ、と軽く扉が開いたのち、ゆっくりパタン、と閉まる音。
「ただいま戻りました」
「うん、ありがとう」
言葉を交わす間も、令嬢が後ろ――扉の方向――を振り向くことはない。来室者も、それきり何も喋らない。
数分後。
ようやく令嬢は、ふぅーー…と、溜めていた息を細く吐き切ってペンを置いた。黒っぽい青のインクの色が、まだ、つやつやと光っている。「乾くまで放置だな」と独り言つ。
「終わりましたか?……あぁ、たくさん書かれたんですね。《西の善良国》アルトナですか」
椅子に座る令嬢の手元に、影が落ちた。右側に傾いだ拍子だろうか、さらりと栗色の髪が垂れる。
令嬢――エウルナリアは、視界の端に映った艶やかなそれを、やんわりと指に絡めとった。
「えぇ、そう。北は皇妃様の生国だし、南はジュード様が治めるセフュラ。東は大森林を挟んでの草原地帯で……西は、アルトナの向こうはずっと内戦状態だもの。
東に小競り合いが多いのは、もう常態化してるから。今、警戒するなら西でしょう?」
話しながらも、手は止めない。
真っ直ぐな髪は、少し濡れている。それでも触る。
くすり、と笑う気配が、手の中の一房を通して指に伝わった。
主が遊びやすいよう、更に身体を近づけてくれるらしい。もう一歩の距離を詰め、ペンのすぐ横、右側に節のめだつ長い指の手が、そっと置かれる。
――ふわり、と雨の匂いが漂った。
「エルゥ様が書いたそれは、明らかに地理の宿題を越えてますけど……そうですね。ここ五年ほど、西からの招聘がないとか」
やや低い涼しげな声を聴きながら、ちらっと横目で確認すると、インクは乾いていた。
エウルナリアはノートを閉じて端に寄せ、空いたスペースに左腕で枕をつくると、頭をぽすん、と乗せて右を向く。
伸ばした右腕の延長線上、栗色の髪が揺れている。
それを、くるりと巻いてスルッと解く――その繰り返しを楽しんでいる。
その姿は、育ちの良い猫が寛ぎきって、ぼんやりと遊ぶさまに似ていた。
「仕方ないよ。皇国楽士団は、無償では動かないもの。アルトナは今、国境守備や難民対策で火の車……国庫に余裕はないでしょう。
かと言って、呼んでいただけないと介入も難しいし………ん?レイン?」
「はい?」
「……なんで、レインまで私の髪で遊んでるの?」
気がつくと、従者の少年の左手が、エウルナリアの黒髪をゆっくりと梳いていた。
――おかしい。撫でられてるな、とは思ったけど……
レインは主の問いかけに、口の端をほんの少し上げる。目は、自分の左手から離さない。
「なんでと言われましても……これなら、お互い様でしょう?それに僕は、目の前の隙をわざわざ逃したりしません」
にこにこ、にこにことレインが灰色の瞳を和ませている。
エウルナリアは、何となく居たたまれなくなって―――眉をひそめ、半眼で「もう!」とちいさく叫ぶと、勢いよく身体を起こした。
かれの髪も手放す。するん、と離れた感触を惜しむように、戻した右手を膝の上で軽く握った。
「はい、放したよ」
「もういいんですか?…残念」
レインも、名残惜しそうに左手を柔らかな毛先まで梳いて―――途中で一巻きすると、ごく自然な仕草で顔を寄せ、口づけた。
目の前で為された大胆な行為に、黒髪の主は青い目を見開き、大いに慌てる。先ほどまでのぼんやりが一転、瞬時に真っ赤になった。
「レイン!何してるの」
従者の少年は、やたらと長い睫毛を伏せたまま、まだ左手に閉じ込めた髪に唇を寄せている。そのまま灰色の視線だけ上げて、ぴたりと少女を見据えた。
「何って――くちづ」
「だめ!やっぱり言わないで!」
被せた。皆まで言わせると、おそらくもっと恥ずかしい。長年の経験でその辺は熟知している少女の、精一杯の反撃である。
それが奏功したのか―――呆気ないほど、するりと黒髪は解放された。
色々と楽しい思いをしたレインは、顔を背け、左手で口許を覆って背を震わせている。「くっ……ふ、ふふ…っ……」と、抑えきれぬほどの笑いの衝動。どうやら戦っているらしい。
エウルナリアの顔は、まだ赤い。
「笑えばいいんだわ。…意地悪レイン」
ふいっと横を向いた先は、飴色の机が面した硝子窓。
休息日のやさしい小雨は、若い主従を見守るように――或いは、ささやかに隠すように。
静かに銀紗の幕を張っている。
なんとなく、ただ、主従がじゃれるだけの話になってしまいました。100話だったのに……!




