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楽士伯の姫君は、歌わずにいられない  作者: 汐の音
十四歳篇 学院での日々

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100 主従の穏やかな休息日

 翌日は、小雨が降った。

 閉められた窓の向こう、見はるかす限り明るい曇天から、細く銀色の糸が垂れている。


 ――そろそろ春も終わりか。

 晴れていれば庭をそぞろ歩こうと思っていた令嬢は、「残念」と一言呟き、再び飴色の机と向きあう。


 机の上には、数冊の教科書とノート。

 今、開いているのは地理のそれ。レガートを囲む四つの国の(いず)れかについて二頁以上レポートするという、ざっくりとした簡単なものだ。


 総じて、学院からの課題は質量ともに驚くほど(ぬる)い。

 サアァァァー…という涼やかな雨音をどこか遠くに遮断し、カリカリカリ……と、ペン先が紙を引っ掻くような音だけが、しばらく部屋に響く。



 やがてコンコン、と扉が鳴った。


「どうぞ」


 カチャ、と軽く扉が開いたのち、ゆっくりパタン、と閉まる音。


「ただいま戻りました」


「うん、ありがとう」


 言葉を交わす間も、令嬢が後ろ――扉の方向――を振り向くことはない。来室者も、それきり何も喋らない。


 数分後。

 ようやく令嬢は、ふぅーー…と、溜めていた息を細く吐き切ってペンを置いた。黒っぽい青(ブルーブラック)のインクの色が、まだ、つやつやと光っている。「乾くまで放置だな」と独り()つ。


「終わりましたか?……あぁ、たくさん書かれたんですね。《西の善良国》アルトナですか」


 椅子に座る令嬢の手元に、影が落ちた。右側に(かし)いだ拍子だろうか、さらりと栗色の髪が垂れる。

 令嬢――エウルナリアは、視界の端に映った艶やかなそれを、やんわりと指に絡めとった。


「えぇ、そう。北は皇妃様の生国(しょうこく)だし、南はジュード様が治めるセフュラ。東は大森林を挟んでの草原地帯で……西は、アルトナの向こうはずっと内戦状態だもの。

 東に小競り合いが多いのは、もう常態化してるから。今、警戒するなら西でしょう?」


 話しながらも、手は止めない。

 真っ直ぐな髪は、少し濡れている。それでも触る。


 くすり、と笑う気配が、手の中の一房(ひとふさ)を通して指に伝わった。

 主が遊びやすいよう、更に身体を近づけてくれるらしい。もう一歩の距離を詰め、ペンのすぐ横、右側に節のめだつ長い指の手が、そっと置かれる。

 ――ふわり、と雨の匂いが漂った。


「エルゥ様が書いた()()は、明らかに地理の宿題を越えてますけど……そうですね。ここ五年ほど、西からの招聘がないとか」


 やや低い涼しげな声を聴きながら、ちらっと横目で確認すると、インクは乾いていた。


 エウルナリアはノートを閉じて端に寄せ、空いたスペースに左腕で枕をつくると、頭をぽすん、と乗せて右を向く。


 伸ばした右腕の延長線上、栗色の髪が揺れている。

 それを、くるりと巻いてスルッと解く――その繰り返しを楽しんでいる。

 その姿は、育ちの良い猫が寛ぎきって、ぼんやりと遊ぶさまに似ていた。


「仕方ないよ。皇国楽士団は、無償では動かないもの。アルトナは今、国境守備や難民対策で火の車……国庫に余裕はないでしょう。

 かと言って、呼んでいただけないと介入も難しいし………ん?レイン?」


「はい?」


「……なんで、レインまで私の髪で遊んでるの?」


 気がつくと、従者の少年の左手が、エウルナリアの黒髪をゆっくりと()いていた。

 ――おかしい。撫でられてるな、とは思ったけど……


 レインは主の問いかけに、口の端をほんの少し上げる。目は、自分の左手から離さない。


「なんでと言われましても……これなら、お互い様でしょう?それに僕は、目の前の隙をわざわざ(のが)したりしません」


 にこにこ、にこにことレインが灰色の瞳を和ませている。


 エウルナリアは、何となく居たたまれなくなって―――眉をひそめ、半眼で「もう!」とちいさく叫ぶと、勢いよく身体を起こした。


 かれの髪も手放す。するん、と離れた感触を惜しむように、戻した右手を膝の上で軽く握った。


「はい、放したよ」


「もういいんですか?…残念」


 レインも、名残惜しそうに左手を柔らかな毛先まで梳いて―――途中で一巻きすると、ごく自然な仕草で顔を寄せ、口づけた。


 目の前で為された大胆な行為に、黒髪の主は青い目を見開き、大いに慌てる。先ほどまでのぼんやりが一転、瞬時に真っ赤になった。


「レイン!何してるの」


 従者の少年は、やたらと長い睫毛を伏せたまま、まだ左手に閉じ込めた髪に唇を寄せている。そのまま灰色の視線だけ上げて、ぴたりと少女を見据えた。


「何って――くちづ」

「だめ!やっぱり言わないで!」


 被せた。皆まで言わせると、おそらくもっと恥ずかしい。長年の経験でその辺は熟知している少女の、精一杯の反撃である。


 それが奏功したのか―――呆気ないほど、するりと黒髪は解放された。


 色々と楽しい思いをしたレインは、顔を背け、左手で口許を覆って背を震わせている。「くっ……ふ、ふふ…っ……」と、抑えきれぬほどの笑いの衝動。どうやら戦っているらしい。


 エウルナリアの顔は、まだ赤い。


「笑えばいいんだわ。…意地悪レイン」



 ふいっと横を向いた先は、飴色の机が面した硝子窓。

 休息日のやさしい小雨は、若い主従を見守るように――或いは、ささやかに隠すように。

 静かに銀紗(ぎんさ)の幕を張っている。


なんとなく、ただ、主従がじゃれるだけの話になってしまいました。100話だったのに……!

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