第5話:旧校舎の連絡通路――順番違いのプロポーズ
【時間】 その直後(夕暮れ)
【場所】 誰もいない旧校舎の連絡通路
「ちょっと! 悠真! 痛い! 離しなさいよ!」
美咲の悲鳴のような抗議が、古い木造の渡り廊下に反響する。
足をもつれさせながらも、美咲は悠真に引かれるがままに走っていた。手首に食い込む彼の指先は驚くほど熱く、痛いくらいに強張っていて、彼の尋常ではない動揺がダイレクトに伝わってくる。
だからこそ、美咲はその手を力任せに振りほどくことができなかった。
旧校舎の連絡通路。
今は使われていない教室へと続くその場所は、夕暮れ時になると誰も寄り付かない。埃の舞う琥珀色の空間に駆け込んだところで、美咲はぐっと踏ん張り、悠真の足を止めさせた。
「待ちなさいって言ってるでしょ! まだ向こうに、返事もしてないのよ!?」
美咲が息を切らしながら叫ぶと、悠真の背中がビクッと跳ねた。
繋がれていた手首の力が、さらにぎゅっと強まる。
悠真は美咲に背を向けたまま、ギリ、と奥歯を鳴らし、低く震える声で呟いた。
「……返事、するつもりだったのか?」
「当たり前でしょ! あんなに真剣に告白してくれたんだから、ちゃんと『ごめんなさい』って断らないと失礼じゃない!」
――断る。
その決定的な一言が、血の気の引いていた悠真の耳に届いた瞬間、彼の手からふっと力が抜けた。
悠真はゆっくりと振り返った。その顔は蒼白で、自分の仕出かしたことの重大さに今さら気づいたように、情けなく歪んでいた。
「……え? 断る、つもりだったの……?」
「そうよ! 誰のせいでお返事保留にしてると思ってんのよバカ悠真!」
「…………」
美咲の怒声に、悠真は言葉を失った。
彼は深く項垂れると、両手で顔を覆い、深いため息を吐き出した。
「……ごめん」
「え?」
「勝手に割り込んで、めちゃくちゃにして、本当にごめん。……最低だよな。あいつにも、お前にも、本当に失礼なことした。言い訳のしようもない」
思わぬ素直な謝罪に、美咲の怒気のトゲがすうっと削ぎ落とされていく。
悠真は顔を覆っていた手を下ろし、美咲を見つめた。その瞳には、先ほどの狂気じみた焦燥感の代わりに、剥き出しの、痛々しいほどの情熱が宿っていた。
「……でもさ。もう、我慢できなかったんだよ」
静かな廊下に、悠真の掠れた声が染み渡る。
「お前があいつの前に立ってるのを見たら……俺以外の男の告白を聞いてるのを見たら、頭の中が真っ白になって。もし美咲を取られたら、俺、生きていけないって本気で思った」
「悠真……」
「格好悪くても、最低って軽蔑されてもいい。お前を誰にも渡したくなかった」
夕日が窓から斜めに差し込み、二人の間に長い影を落とす。
美咲は解放された自分の手首をそっと撫でながら、上目遣いに彼を見つめ、静かに問いかけた。
「……ねえ。『俺の女』って、何よ」
「……」
「私、まだあんたの告白に返事してないのに。いつからあんたの女になったわけ?」
美咲の少し意地悪な問いに、悠真は何も答えなかった。
その代わり、彼は決意を秘めた瞳で、美咲へと真っすぐに歩み寄った。
後ずさる美咲。トン、と彼女の背中が旧校舎の冷たい板壁に当たる。
逃げ場を失った美咲の顔のすぐ横に――ドンッ! と、悠真の大きな手のひらが打ち付けられた。
(ひゃっ……壁ドン……!?)
少女漫画でしか見たことのないシチュエーションに、美咲の呼吸が止まる。
覆いかぶさるように近づいた悠真の顔が、目と鼻の先にある。吐息が触れ合いそうな至近距離。悠真の瞳の中に、真っ赤になって固まる自分の顔がくっきりと映り込んでいた。
「美咲」
「な、なに……」
「俺、お前が好きだ。世界中の誰よりも、お前が好きだ」
一切の誤魔化しのない、魂の底からの告白だった。美咲の心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ね上がる。
「幼なじみのままでいいなんて、大嘘だった。ずっとお前の隣で、特別でいたかった。お前が笑うのも、泣くのも、怒るのも、全部俺の前だけでいい。誰にも、一瞬たりとも渡したくない」
壁についた悠真の指先が、緊張で小刻みに震えているのが見えた。
こんなにも必死で、こんなにも余裕のない悠真を、美咲は知らない。胸の奥が熱い涙で満たされていくような感覚の中、悠真は一度強く目を閉じ、肺腑の空気をすべて吐き出すように息を吸い込んだ。
そして。
耳の先から首筋までを真っ赤に染め上げながら、連絡通路の古い窓ガラスがビリビリと震えるほどの声で、叫んだ。
「俺と、結婚してくれ!!!!」
「…………」
しーーーーーーーーん。
木造の廊下に、悠真の肩で息をする音だけが響き渡った。
美咲は目を真ん丸に見開き、目の前の大真面目な顔をした男を、瞬きも忘れて凝視した。
「…………はい?」
「結婚、してほしい」
「…………」
「……美咲?」
喉元まで緊張で詰まらせながら、必死の形相で念押ししてくる悠真。
そのあまりの真剣さと、飛び出してきた言葉の狂ったスケールに――美咲の口元が、ぷるぷると震え始めた。
「……ぷっ」
「え?」
「……あっはははははははは! ちょ、ちょっと待って! あはははははっ!!」
一度決壊した笑いのツボは、もう誰にも止められなかった。
美咲はお腹を抱えてその場に崩れ落ちそうになりながら、目尻に涙を浮かべて大爆笑した。さっきまでの張り詰めた空気が、風船に針を刺したように一瞬で弾け飛ぶ。
「あははは! おかしいでしょ! なんでプロポーズなのよ!?」
「な、なんで笑うんだよ……! 俺は真剣に――」
「普通は『付き合ってください』でしょ! なんで高校生がいきなり結婚なのよ! 順番が! 順番がおかしすぎるでしょーが!!」
「だ、だって……ずっと一緒にいたいって思ったら、付き合うとかじゃ足りない気がして……!」
「アホ! あんたは本当に、昔っからここ一番で大バカなんだから……っ!」
笑いすぎてお腹と頬の筋肉が痛くなり、美咲は壁に寄りかかりながら「ひー、ひー」と涙を拭った。
けれど。
ふと視線を上げると、目の前の悠真は、ピクリとも笑っていなかった。
「……駄目、かな」
ぽつり、と落ちたその声は、泣き出しそうなくらいに掠れていた。
美咲の笑いが、ぴたりと止まる。
見上げると、悠真は壁についていた手をだらりと下ろし、雨の日に捨てられた大型犬のような顔で美咲を見下ろしていた。
眉を八の字に寄せ、拒絶される恐怖に怯え、今にも崩れ落ちそうなほど情けなく視線を揺らしている。
さっきまで「俺の女だ!」と叫んで乱入してきた猛獣と同じ人物とは到底思えない、あまりにも脆く、無防備な姿。
その顔を見た瞬間、美咲の胸の奥で、カチリと音がして最後の鍵が外れた。
(……ああ、もう。ずるいよ)
こんな顔、反則だ。
思い返せば、悠真はいつだってそうだった。
自転車で転んで膝をすりむいた小学生の日、美咲が泣き止むまで隣でずっと下手くそな歌を歌ってくれた。
受験で不安に押しつぶされそうだった夜、何も言わずに美咲の好きなココアを玄関ノブにかけておいてくれた。
意地を張る美咲のプライドを守りながら、いつだって一番近くで、美咲が倒れそうになったらすぐに支えられる距離にいてくれた。
そんな悠真が、今、すべてのプライドをかなぐり捨てて、美咲の言葉一つに命を預けるようにして震えている。
これが、恋じゃなくて何だというのだろう。
幼なじみという温室の中で、ずっと大切に育ててきたこの感情の名前を、美咲はようやく胸の真ん中で受け止めることができた。
愛おしさが、温かい濁流となって身体中を駆け巡る。
美咲はふっと息を吐き出すと、壁から背中を離した。
「悠真」
「……ん」
怯えるように返事をした悠真の胸元へ向かって、美咲はためらうことなく、自ら一歩を踏み出した。
トンッ――!
「……っ!?」
美咲は、悠真の広い胸の中へと真っ直ぐに飛び込んだ。
ぶつかった衝撃に悠真の身体が大きく揺れる。美咲はそのまま、彼の引き締まった背中に自分の両腕を力いっぱいに回し、制服のシャツの布地をぎゅっと握りしめた。
あの日、夕暮れの教室で抱きしめられた時は、怖くて突き飛ばして逃げてしまった。
でも、今は違う。
誰に強制されたわけでもない。自分の意志で、自分の心に従って、彼を抱きしめている。
押し当てた頬から伝わってくる悠真の心臓は、あの日と同じように――いや、あの日以上に激しく、壊れそうなほどの速さで脈打っていた。
美咲は彼の胸にすっぽりと顔を埋めたまま、くぐもった、けれど甘い確信に満ちた声で囁いた。
「……本気にするよ」
頭上で、悠真が大きく息を呑む音がした。
美咲は彼のシャツをさらに強く握りしめ、悪戯っぽく笑いながら言葉を継いだ。
「結婚は……まあ、十年早いから、とりあえず保留ね。その代わり……彼女からなら、始めてあげてもいいわよ」
「……美咲」
「私を彼女にできるんだから、死ぬ気で大事にしなさいよね。……バカ悠真」
言い終えると同時に、美咲の身体がふわりと浮き上がるほどの力で、強く、強く抱きしめ返された。
悠真の両腕が、美咲の背中と後頭部を包み込む。骨がきしむほど力強いのに、その温もりは泣きたくなるほど優しかった。
「絶対、大事にする」
美咲の髪に顔を埋めた悠真の声は、少しだけ涙で濡れていた。
「一生かけて、絶対にお前を幸せにするから」
「……うん。信じてあげる」
美咲も目を閉じ、彼の胸の鼓動に耳を澄ませながら、その温かな腕の中に身を委ねた。
渡り廊下の窓から差し込む夕日は、二人を祝福するように、どこまでも温かな茜色で包み込んでいた。
放課後の教室でついた、たった一つの気まぐれな嘘。
それは今、静かな夕暮れの廊下で、世界で一番甘い「本当」へと変わっていた。




