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ド田舎侯爵家の裏庭植物記録  作者: 石井はっ花


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1 浴室での出会い

 午後の二つ鐘が鳴り響いた。

 遠乗りから帰宅したばかりのエンゲルブレクト=グランフェルト侯爵のために、さんさんと陽が入る浴室で湯を張っていたのはビルギッタ=テグノールだ。

 湯は完ぺきといっていいほどの量を、張れた。

 あとは、石鹸や香料などの備品を揃え、エンゲルブレクトを呼び出してもらうだけだ。

 その時──。

(──なにこれ……。すごいめまいする……)

 ビルギッタは、立っていられず浴槽に手をかけた。


 と。

 

 突如、猫脚のバスタブにせっかく張ったお湯がはじけるように、水しぶきを上げた。


『なんだよ! これ! 風呂かよ! ……てか、──どこだよ。ここ……』


 誰だ? 彼は──

 

 ビルギッタは混乱して、叫ぶにいいだけ叫んだ。

 ──乗馬服にも似ているが、薄汚れて。ぼさぼさ頭にもお湯をしとどにかぶっている。


 落下直後のお湯を頭からかぶったビルギッタは、今もまだ大声で助けを呼んでいる。

 廊下の方から、数人の声と足音が近づいてくる。


『ああ、誰だか知りませんけど。そんなに叫ばないで』

 風采の上がらない見ず知らずの男が、わけのわからない言葉を言いながら近づいてくるのだ。

 これは叫ばずにはいられないだろう。

 

「どうしたの! ビルギッタ」

 一番先に浴室に入ってきて目を丸くしたのは、お湯はりの作業を一緒にしていたメイドのエイネ=グラブランドソンとマンナニーナ=ミンッキネンの二人と従者を務めるシュッティル=セーデルルンド、そして、ヨーン=フォーシュルンドの四人だ。


 見たこともない、おかしな格好をした男が仲間であるメイドを襲っているように見えた。


「お前! なにしてる!」

 動いたのは、シュッティルだ。泣き叫ぶビルギッタを抑え込もうとしている見るからに怪しい男を、ヨーンとともに取り押さえた。

『わ! 暴れないから! 乱暴にしないで!』

「こいつ、なに言ってんだ?」

 おっとり刀で現れたペンッティ=ルシッカが、首を傾げた。

「ルシッカさん! こいつ、何なんですか。どこから入ったんだ? エンゲルブレクト様の浴室まで入ってくるなんて」


『ていうか、何なんですか。これ、ドッキリならやめてくれよ』

「おい! 暴れないからってそのままにしちゃだめだ。縄、持ってこい」

 ペンッティが、てきぱきと指示を出す。


「ビルギッタ。怪我はない?」

 マンナニーナは、用意してあったタオルを濡れたままのビルギッタにかけてやった。

 叫ぶのをやめたビルギッタは、状況を説明しようとしたが、声がうまく出てこない。驚きがひどいと、震えが走り、声にならないものだ。

「ビルギッタさん、何があったんですか? 彼は、誰なんです?」

 何もわからないビルギッタは、ただ首を横に振るばかりだ。


『君たち、ほんとに、やめてくれよ! 痛い!』

 男は、何語なのかわからない言葉で、ずっと話している。


「なんの騒ぎだ?」

 少し、遠乗りの疲れが出ている顔が、影を生んでその影すら美しい。

 この館の主、エンゲルブレクト=グランフェルト侯爵が、家令ミカル=グラブランドソンと執事ヨエル=ハタッカを引き連れて現れた。

 濡れそぼった男は、そのエンゲルブレクトの容姿を見て、目を丸くした。


 そこにいたのは、生きた彫像であった。

 流れるようなつややかな金の髪、どこまでも透き通る空の青の瞳、形の良い唇、高い鼻は完璧な位置に落ち着いている。

 おそらくは、190㎝はあるだろう。

 イケメンと呼ぶには言葉が軽すぎる。

 そこらへんの学がない男には、このエンゲルブレクトの姿を形容する言葉をそれほど持ち合わせていなかった。

『これは、美形だわ。美形が過ぎる……』


「ミカル。彼は、何を言ってるんだ? わかるか?」

 ミカルと呼ばれた去年、家令になったばかりの男が答える。

「いいえ。存じ上げません……。ですが、敵意はないようです……」

「ふむ」

 衣服が濡れたままの男は、ロープで手首と足首を拘束され、床に座らされている。

 床も、先ほどのお湯が撒かれたせいでびしゃびしゃだ。

 

『あんたが、誰でもいいけど、縄、解いてくれよ。食い込んで痛えんだよ』


 男は、うすうす言葉が通じていないことに、気づいたようだったが、それでもどうやら要求はやめなかった。

 

「うーん。そうだな。よし。ペンッティ。縄をほどいてやれ」

「いやいや、エンゲルブレクト様。どこの誰ともわからない男ですぞ。危険が過ぎませんか?」


 エンゲルブレクトは、ふ……と笑顔になった。

「危ない奴なら、もう、さんざんひと暴れしているだろう? タオルと何か衣服を用意してやれ。このままでは、風邪をひかせてしまう」


「な、なにをおっしゃっておいでで?」

「エンゲルブレクト様!」

「反対でございます! 取り押さえたまま、衛兵などに渡すのが筋ではないでしょうか!」


「いいんだ。彼は、暴れたり、君たちに危害を及ぼしたりしないよ。これは約束できる」

「おっしゃりようは、わかりますが……」

「うん? 君たちは、侯爵の命令じゃなきゃ、動けないのかな?」

 エンゲルブレクトは、笑顔の温度を若干下げた。

 その少し冷ややかな笑顔も、男には瞠目してしまうほどに美しく見えた。


「その男については、あとで考えるとして。すまないが、もう一度入浴の準備をしてもらえるかな」

 メイドたちが、一斉に背筋を伸ばし「かしこまりました」と急ぎ足で屋敷の裏に向かった。また一からお湯をかまどで沸かさなくてはならないからだ。


 ようやく落ち着いたビルギッタも向かおうとしたところ、エンゲルブレクトが、手を上げた。

「ああ、ビルギッタ。君は、一旦、彼と同じようにタオルを使って衣服を替えなさい。女の子が体を冷やしてはいけないからね」

「……はい! ありがとうございます!」

 美麗の侯爵は、すべての女性が魅了されてしまうような微笑みを優しく浮かべた。


ヨーンとシェッテルは、男の寸法より少し長めの衣服を見繕い、彼に渡した。

「おい、これに着替えろ」

 男は、瞬間きょとんとした。言葉の通じない人たちから、取り押さえられ、拘束を解かれたのはいいものの、今度は、着替えを渡されたのだ。

 首をかしげる事態ではあったが、とはいえ。今の衣服は下着まで水を吸って重く冷たくなっている。

『わかった、着替えればいいんだろう?』

 男は、衣服を脱ぎ下着も、恥ずかしながら脱ぎ捨て、ボタンダウンのシャツと茶色のコーデュロイのような生地の茶色のズボンに穿き替えた。

 男の足の長さには、ズボンはあっていなかったが、裾を多く折り上げることでなんとか対応した。とはいえ、下着の用意がないのが、心許なかったが。ある程度は仕方がないことだと、あきらめた。


「さて。どうしたものかね」

 男の着替えを見守っていたエンゲルブレクトが、独り言のようにつぶやいた。

「どうにも、この男には、敵意というものがないようなんだ。しかも、言葉が通じないだろう? どう、対処したものだろうね」

 そういうエンゲルブレクトの声は、どこかしら浮ついているようだ。


「どう、とは」

 ミカルは、困ったように主人を見つめる。

「いやね。さっき、誰かが言ったように、衛兵に突き出すのは簡単だ。だけど、君たちは、稀人まれびとって聞いたことがないかい?」


 家令ミカルと執事ヨエルは、お互いに顔を見合わせた。

「まれびと、でしょうか」

「うん。稀人。あ、これは、王都の噂話なんだけど、何かの拍子で、時が合ってしまった別の世界の人間が、突如として現れる。そんな話があるんだって。これって、まさに、それじゃないかな」


 エンゲルブレクトの瞳が、少年のようにきらめいている。

 それに気がついたミカルとヨエルは、顔を見合わせて、そっとため息をついた。

 このエンゲルブレクト=グランフェルトは、ほんの幼い時から、そういう不思議に魅了されていた過去があったのだ。

 長じてからは、その興味が女性へと移行したからよかったようなものの、それでも、それはそれで問題が絶えず勃発はしていたが……。それは、また、別の話だ。


「いやあ、この私にも、こんな不可思議なことが起きるなんて!」

 ああーと、家令と執事は思わず、声を上げてしまう。

「なんだよ。不満かよ」

 エンゲルブレクトは思わず、その整った顔に似合わないふくれっ面をして見せた。


「反対しても無駄だぞ。私は、彼を保護するという決定を、今、したからな!」


『あのー、すみません。お話、すみましたか? それで、ここはどこなんでしょう?』


 男が困った顔で、エンゲルブレクトに尋ねるが、依然として言葉は通じていない。

「ああ、恐れなくていいよ。君は、私たちが身柄を預かるからね」

 エンゲルブレクトは、にこやかに少し冷えてしまった男の手を握った。

 

 *

 

 男は、ヨーンに案内されて、侯爵邸の二階にある客間へと通された。

「こんなにいい部屋に通されるなんて、めったにないんだからな! エンゲルブレクト様に感謝しろよ」

 もちろん、男には、ヨーンが何を言っているのかはわからない。

 小首をかしげて、笑顔を返すだけだった。


 ヨーンが部屋から出ていった。

 男は、部屋に備え付けられているソファに身を沈めた。

 

 男の名は、古高(こたか) 柊生(しゅうせい)といった。

 三十八歳の植物学者だ。あのバスタブに落ちてくるまでは、大山に登りダイセンアシボソスゲの未踏の群生地を見つけたところだったのだ。

「ああー。せっかくの大発見が……」


 悔やんでも悔やみきれない。

 

「だとしたら、あの後、俺は落ちたのか? あの高山から?」

 登山道からも外れた場所だ。

 一応は入山届は出してはいるものの、単独行である。

 しかも、荷物といっても、これといってなかったし。

 あまつさえ、登山口までは公共交通機関などで移動をしている。

「詰んだ。もし、俺が死んでても誰もわかんねーじゃん……」

 柊生は、そのままソファに横たわった。

「俺、何してんだろ……」

 やたらと豪華な天井を見上げて、柊生は一筋、涙をこぼした。

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