我が儘公女は諦めない
いつも読みに来て下さってありがとうございますですv
元短編『我が儘公女と呼ばれた少女は一念発起しました』です。
こちらに移動しました。
「ガイにお客さんだってさ」
久しぶりに届いた元の主からの思わせぶりな手紙の内容に、頭を捻っていたところに声を掛けられた。
例え私室であろうと誰もノックなどしないで扉を開けて声を掛けていくこの国の習慣をようやくそういうものなのだと受け入れるようにはなれたものの、それでもやはり休日にゆっくりしている所にいきなり声を掛けられるのにはなかなか慣れることはできそうにない。
まぁ、根は雑にできている自分の事だから、そのうち気にしなくなるのかもしれないが。そんなことを考えている自分を余所に、
「テネシズ様が呼んでるから早くいけよー」
そう言葉を残して、同僚は名乗りもしないまますでに部屋から消えていた。
何故、自分への客がテネシズ様のところにいるのか? そう不思議に思いながらもガイ・オリオは廊下を急いだ。
この城には廊下を走るななどと窘める者などいないし、むしろゆっくりと歩いていると「暇なのか」と仕事を押し付けられるのが落ちである。
なので、ガイも走りこそしなかったものの誰にも呼び止められたりしない程度に急いでそのドアの前に立った。軽く息を整えてドアをノックすると、すぐに誰何する声が掛かり、「ガイ・オリオです」と答えると即その分厚いドアが開いた。
「ガイ!!」
扉を開けると、一直線に、自分に向かってひらひらとしたフリルとレースの塊でできたピンクの塊が突進してきた。そのまま自分の腹の部分に衝撃を感じる。
「ガイ、ガイ! 元気そうでよかった」
きゃんきゃんと小型犬が鳴くような聞き覚えのある声に、混乱する。
艶やかな黒髪とアーモンドアイを持つ、よく見知っていた我が儘で勝気な少女によく似た女性が自分を見上げていた。いや、勝気そうな瞳の輝きはそのままだ。
「……おひさしぶりでございます、イザベル様」
最後に見た時よりずっと背も伸びて美しい女性という方がずっと似合うようになっている。大嫌いだったマナーもちゃんと学ぶようになったのだろう。姿勢が良くなり、自分が捧げる紳士の礼を受ける所作が美しい。
ただし。できることなら二度と会うつもりのなかった女性のいきなりの訪問に戸惑いしかない。
国交のある高位貴族に対する暴挙の罪により貴族位を剥奪され平民に落ち国外追放された。が、その元となる罪は幼い頃のこの目の前にいる美しい女性が起こしたものをすべて押し付けられてのことなのだから。
幼かったこの少女にすべての罪があるとは思わない。それを許し続けた大人が悪いのだ。自分もその一人であるということは今のガイにも判っている。それでも、目の前に立たれて不快にならないでいられるほど物分かりがいい人間ではない。
ドカフート王国までなにをしに来たのだろう。
視線を合わせず、そのまま片膝をついて頭をさげたまま言葉を待つ。
「あのね、私…、わたしはここに、お嫁入りにきたの」
その言葉は、そこに跪いた自分以外の人間にも。テネシズ様や宰相となったリシャス・オリオ侯爵を始めとする家臣たち、そしてなによりカトリーヌ・ シュトゥルーデル姫その人に衝撃を齎した。
「…イザベル姫。そのお申し出は光栄に思うが、その席は既にその…埋まっているのだ」
とても言い難そうに、それでも、動揺はしつつもきっぱりとした口調でテネシズ様が断りの言葉を口にした。
さすがだ。俺などは頭が真っ白になりすぎて、断るという基本的なことすら頭に浮かばなかった。
更に、そっと労わるようにカトリーヌ様の腰に腕を回してそっと引き寄せる。優しく交わし合う視線に未来の王室の姿が垣間見えて、家臣たちの顔に微笑みが浮かぶ。
シュトーフェル皇国との間で正式に約定も交わし、婚約式も来週に控えた今、シュトーフェル皇国で最後の独身期間を安穏と父母と過ごすよりもこれから国母として立つこの国を少しでも早く知りたいと、ここでこの土地について勉強をすることを選ばれたカトリーヌ様を慕う臣民は多い。最初こそ大国から押し付けられた姫だと疎んじる者も多かったが、勤勉な性格と物怖じせずに自ら采配を下すカトリーヌ様はあっという間に受け入れられた。
なにより、テネシズ様との仲睦まじいお姿に、城に増えてきた女官たちも好意的だ。勿論、俺もそう思う一人である。
こんなにもお似合いのふたりの間を割こうとするなんて、やはりこの人は変わっていない、断られても怯むことなくテネシズ様を睨みつけているイザベル様をみて『この方の心根は何も変わっていないのだ』そう俺は心底がっかりしていた。
「でも、私の方が相応しいと思いますわ」
血統だけなら、そうだろう。大国シュトーフェル皇国先々代王姉殿下の血の流れを汲むとはいえ現伯爵家に生まれ、ドカフート王国へ嫁する為だけに皇室の養女に迎えられたカトリーヌ姫と、小国ながらも建国歴だけなら大陸で最も古い国の一つに数えられるザコーバ公国唯一の公女であるイザベル姫となら、どちらが正統なる血筋を持つ者かと聞かれて返答に困る者などいない。
ただし。前にも述べた通り、この国の未来の国母として相応しくあるべくその基盤を築き上げつつあるカトリーヌ様と呼ばれもしないで勝手にここまでやってきたイザベル様では、周囲に与えるイメージが違いすぎる。
「…イザベル姫、折角のお申し出ではあるが、すでにカトリーヌ様という素晴らしい姫をお迎えすることに決まっているのだ」
話はそれですべてだとテネシズ様が静かに言い切る。しかし、それでめげる様なイザベル様ではないことを知っている俺はため息を吐くしかなかった。
「では。私の方が嫁として優れていることを証明してみせますわ!」
そんな勝負を受ける必要はないと取りなすテネシズ様を横に、イザベル様の挑発を受けたのはカトリーヌ様だった。ぎっと睨み合う二人の姿は龍虎図のようで、その場にいたすべての男どもは肝を冷やした。
『『『『…怖い』』』』
たとえ、どちらを国母にお迎えするにせよ、多分ここにいる全ての男は逆らうことはないだろう。
「まずは料理対決ですわ」
男性の心を掴むにはまず胃袋からといいますもの、とイザベル様が嬉々として宣言する。しかし、受ける側のカトリーヌ様は狼狽えていた。当然だ。
深窓の貴族令嬢が、自ら厨房に立つことなどあり得ない。俺が知っている限りでも、イザベル様自身がお立ちになったことは見たことがなかった。しかし、それも7年以上も前までのことだ。今の成長したイザベル様は、そういったご趣味もしくは教養の一環として指導を受けたのかもしれない。
戸惑うカトリーヌ様に対して余裕の表情でイザベル様はハンデを上げましょう、と扇で口元を隠しながら言った。きっとその陰で自分ができることをできないと言わなくてはいけないカトリーヌ様を嘲笑しているに違いないと思わせる、そんな口調だ。
「こんなこともできないなんて。仕方がありませんね、ではここの料理人に指示を出して作らせてもよろしくてよ」
にんまりと目を眇めて言い放つ。それを受けて一瞬だけ悔し気にしたカトリーヌ様は、すぐにそれを押し隠して「貴族令嬢として厨房に立つことの方があり得ないと思いますわ。でも、いいでしょう。料理人を使ったのではあまりにも差が出てしまいますもの。私の連れてきた女官に指示を出して作らせますわ」
その言葉に、俺は一瞬目を白黒させた。それで受けるんだ、と遠い目をする。
シュトーフェル皇国からカトリーヌ様が女官として連れてきたのは准男爵家二女たるご令嬢だ。未来のこの城の女官長候補とも言われおり、シュトーフェル皇国で隠されたまま未来の皇妃候補として教育を受けていた頃からカトリーヌ様の腹心と呼ばれていたと聞き及んでいる。
つまりはカトリーヌ様ほどではなくとも女官といっても貴族令嬢には変わりがない訳で、厨房に立った経験などやはり無いに違いない。
そんな、低レベルな争いの結果を審査することになるであろうテネシズ様の胃袋をこそ、心配するべきかもしれない。
「できましたわ」
カトリーヌ様が作られたのは麺だった。
スパイスたっぷりで炒められた挽肉が掛けられた幅広の茹でたて麺は熱々で、テネシズ様の前に置かれた器から立ち昇る芳しいその香りに引き寄せられ目を閉じて少しでもその香りを吸い込もうとする者も多い。
「…味見係は私だけでなく…そうだ、リシャスとガイにも頼もう」
突然の指名に、リシャス様と顔を見合わせ不審に思う。しかし、その理由は呼ばれるままに審査員として席についた途端、推測が付いた。
「「…テネシズ様」」
思わず、リシャス様と同時に情けない声を零した。その私達の恨めしそうな声にテネシズ様が目線だけで『俺だけに押し付けるな』と訴えてくるので、それ以上文句をいうのは諦める。
なにしろ、横目で見るその器の中は、血の様に真っ赤だったのだ。
「どうぞ」
急遽、追加で盛りつけられた麺が入った器が俺たちの前にも並べられた。
先ほどと同じ位、芳しい香りが器から立ち昇る。ごくりと、美味しそうだからというのではなく心を落ち着かせる為に唾を喉の奥に送り込む。
そうして、言われるままに上に乗っていた挽肉と麺を絡めて、恐る恐る口へと運んだ。
それは、想像通り、強い刺激を伴って口の中で爆発的に広がった。
「「「辛い!!!」」」
それも並大抵の辛さではない。ガッと舌と口の粘膜を刺激する激しい辛さとびりびりと刺すような辛さが混然一体となって口の中で暴れまわっていた。そこに麺の小麦の甘さが相俟る。
「「「辛い! けど、旨い!!!」」」
そう、これ以上なくその麺は旨かった。
辛さが食欲をそそるものだとは知らなかった。なにより辛さだけではなく、そこには強い旨味があった。
「これはいいな」「幾らでも食べられますね」「お替わりはできるのだろうか」
ついつい審査ということを忘れて声を上げる。
それに釣られて周りで立ってみていた者たちも食べたいと声と手を挙げだした。
「審査が終わりましたら、この城の料理人にレシピを渡しておきます。皆で一緒に食べましょうね」とカトリーヌ様がすました笑顔で伝えると、その場にいた全ての者が手を挙げて歓喜した。
「「「「「うおぉぉぉ! カトリーヌ様、万歳!!」」」」
わいわいと昼食時を待ち望む声が交わされる中、堂々とした声が響き渡った。
「では。わたくしの料理も味わっていただきますわ」
どどんと置かれた器に盛りつけられた、ショッキングピンク色をした塊は…これは……。
「…これは一体?」
恐る恐るといった態で、テネシズ様が訊ねられた。
添えられた長い柄のスプーンはデザート用のものだ。うず高く巻き上げられたピンク色のそれはもう少し色合いが違えばとても食べ物とは思えないようなナニカに見えてしまわなくもない。が、匂いが決定的に違うのでそれはないな、と安心できる。いや、あまり安心して口に運ぶことはできそうにない。ナニカとはまったく違う匂いだが、美味しそうかと言われれば血涙が滲みそうなほど、程遠いものだったからだ。
誰も手を付けようとしないそれに手を付けるのは、きっと自分に課せられた使命だろうと決死の覚悟で器に触れる。
「…冷たい」
それは雪や氷とは違う、もっと優しい冷たさを指に伝えてきた。
それにしても。寒いこの国での料理対決に、冷たいもので勝負を挑むとは…チャレンジ精神が強すぎないだろうか。
恐る恐るスプーンを差し込めば、つるりと柔らかくそこに差し込むことができる。
震え出すスプーンでひと匙掬い取って目の前まで運ぶと、嬉しそうな笑顔のイザベル様がその向こうに見えた。
(えぇい、ままよっ!)
今更、大公家への忠義を確かめられることになるとは自分でも思わなかったが、イザベル様の信じ切った自分への笑顔を見ると、遠い昔に誓った思いが心を満たす。
──この方を、一生守っていこうと誓った筈だった。
結果。裏切られ、捨て置かれたのは自分だったが、追い縋る気持ちは皆無で、ある意味自分からも捨てたと同じだった。
器からスプーンへ、そうして自分の口の中、舌の上へと移動したピンク色の冷たいそれは、口の中の熱で溶けだし、味蕾ひとつひとつを覆っていく。
「…あまい」
それは冷たく、甘かった。”料理対決”という言葉からなんとなく塩気のあるものを想像していた俺は、頭の中が混乱していて、それ以上の感想を口にすることができなかった。
そんな、茫然とした俺の表情に勇気を奮い起こした二人も、意を決して目の前の高く渦巻かれたピンク色のそれを口に運んだ。
「「………あ、甘っ。甘すぎ…ぐはっ。み、…みずを、くれっ」」
そう。それは甘かった。途轍もなく甘かった。メチャクチャ甘かった。
脳天を突きさすほどの甘さというのがあるとしたら、これの事だと思う。
それほど、圧倒的な、甘さだった。
先ほどのカトリーヌ様の辛い麺とは違って、ただひたすら甘く、激烈に甘く、蕩けるのに歯に挟まるぬちゃっとした何かだった。
バンバンと机を叩いて「水では駄目だ。濃い紅茶、ブランデーもジャムも無しで頼む」「急げ」と頭と口と喉元を忙しなく掻き毟りながら催促している二人の横で、俺は、じぃっとそのピンク色の何かを見つめていた。
「……レインボウベリィー、クリスタルピーチ、クラウン丸蜂とスウィートタイニー蜂、二種類の結晶蜂蜜、スウィートアップル牛のしぼりたてミルク、…それと、マグ湖の畔で取れる華塩」
口の中とは言わず脳内でとぐろを巻くような暴力的な甘さの、その元となる素材を一つ一つ丹念に探り当てる。
そうして口にした素材はどれもこれも途轍もなく高価で、このピンク色の何かひと口分が一体金貨何枚分に相当するのかと考えて頭が痛くなった。
そう。これらはどれもこれも濃厚な味わいを持つ、金と同じだけの価値があるとされる素材ばかりを集め、更に濃縮して丁寧に練り上げながら凍らせるという、実に手間暇をかけた途轍もなく高価で、途轍もなくクソ不味いアイスクリームだった。
「…イザベル様の大好物を、大好物を集めて作られたのですね」
味見はしましたか? そう、半分魂が抜けかけた状態で訊ねる、つもりだった。しかし、それを口にする前に、嬉しそうなイザベル様が笑顔で頷いた。
「そうよ! アイスクリームよ。ガイも大好きだったでしょう?」
いえ、お好きだったのはイザベル様だけで俺はただ言われるままに一緒に食べてただけです、とはさすがに言えなかった。
「甘い物と甘い物を組み合わせても、人の舌は甘さを感じることができなくなるんですって。だから隠し味に塩が必要なのよ!」
ふふん、と聞いてもいない蘊蓄を嬉しそうにイザベル様は語っていた。
なるほど。それで甘さが口の中で飽和せず、すべての甘さを感知できるようになっているんですね、と妙に感心してしまった。
腕を組んで背中を反らし、少し顎を上に向けて得意そうに話すその姿は、幼い頃のイザベル様そのままで、俺はつい微笑ましくそのお姿を見てしまった。
その横ではテネシズ様とリシャス様が、何杯目かも判らない濃い紅茶をがぶ飲みしながら俺とイザベル様を胡乱な目で見つめていたようだったが、その時の俺は、何故かまったく気が付かなかった。
「次は、マナー対決よ!」
時には夫の代わりに社交を担う妻として重要な資質よね、と、うんうん肯きながらイザベル様がいう。
どう考えても、この対決種目でイザベル様がカトリーヌ様に勝てる気がしない。
というか、正直どんな内容であっても勝てそうなものを思い浮かべることはできなかった。
ただ一つ。容姿、これだけを覗いては。
カトリーヌ様がお美しくないということではない。艶やかで手入れの行き届いた豊かな薄茶色の髪も、色の薄い琥珀色の瞳も、十分人目を惹き付ける魅力がある。
美形揃いで有名なシュトーフェル皇国の皇族としては地味目なお顔立ちではあるものの小さなハート形の顔は十分整っている。
しかし。ザコーバ公国大公家特有の艶やかな黒髪はまっすぐで、何も飾らなくともその髪自体が黒曜石でできた宝冠を戴くように光り輝いている。そしてなにより特筆すべきはアーモンドアイだ。吸い込まれてしまいそうなほど美しく、神秘的な煌めきを帯びたその黒い瞳で見つめられたが最後、ひれ伏したくなるほど恋焦がれてしまう。大公家に極稀に生まれるという黒い瞳のアーモンドアイ。その歴代の持ち主の周辺には、男女問わず、そんな風に身も世もなく恋焦がれてひれ伏すもので溢れていたとされる。イザベル様はその黒いアーモンドアイの持ち主だ。
人の好みは様々というが、それでも美少女といわれてどちらを選ぶかといえばイザベル様に軍配が上がるのは必至だろう。
ただし、口を開かなければ。もしくは動かなければ。と一言付け加えなければならないが。
できればあまり大きな恥を掻かない内に、諦めて公国へ帰って欲しいと願わずにはいられなかった。
そんなことを考えている内に、マナー対決は終わっていたらしい。そして、負け勝負だと思っていたこの対決の結果は、なんと引き分けだった。
なんのことはない。カトリーヌ様もイザベル様も、まだこのドカフート王国での貴族間マナーについて詳しくない、それに尽きる。
なにしろ他人の私室をノックなしに開けるのが当然の国だ。
そして廊下を走っても誰にも咎められない国でもある。
物心がついてからずっと過ごしてきた自分の中に息づいてきたマナーと、この国のそれとの違いはなかなか埋まるものではないということだ。それがいい事かどうかは俺には判断つけかねるが。。
という訳でどちらもマイナス評価を受けたという訳だった。ははは。
「やるわね、貴女。わたくしと妻の座を争うに相応しいと認めてあげるわ」
恰好つけてもまだ一勝もあげていないイザベル様の口から言われると、切ない気分にしかならないからやめて欲しい。
俺は額に片手を当てたその陰で、そっと大きく息を吐いた。
それでも。ふと、イザベル様がカトリーヌ様に次の勝負を突きつけている場面を手の陰からそっと見守る。
「次は、音楽勝負よ! 私のピアノ演奏は、公国でソロリサイタルを行えば即チケット完売の人気ですのよ」
ふふふ、と不敵に笑う姿。そこには克て、すべてのことを周囲にいるものに押し付けてそれで善しとしていた我が儘な少女ではなく、自分の力で、それを成し遂げ認められようと頑張る女性が映っていた。
まぁ、結果が伴ってはいないのだが。
それでも、「成長されたのですね」とつい口元に笑みがのぼった。
確かに、イザベル様の演奏は聞きごたえのある素晴らしいものであった。
大公家の姫君の手習いとしては最高レベル、プロにも匹敵するほどだろう。
しかし、カトリーヌ様のピアノの弾き語りほど心に響くものはなかった。
切々と歌い上げる低音部と、朗々と伸びやかに歌う高音部と。
それは一曲でまるで人生そのものを切り取ってみているような、そんな曲だった。
選んだ曲目の違いもあるのだろう。超絶技巧曲と呼ばれる胸に迫る重苦しいほどの熱量を持った曲目を選んだイザベル様と、シュトーフェル皇国で国民に長く愛されてきた歌詞付きの民謡を選んだカトリーヌ様。
たとえ違う言葉で歌われたものでも、そこに込められた喜怒哀楽は聴いている者の心にはちゃんと伝わるもので、聴いていて心地好い、判り易いという点でも選ばれ易かったのだ。
「…くっ。リサーチ不足だったわ」
拳の握りしめて悔やむイザベル様の姿に、『ピアノの事が判らない人間が相手だったから』という言葉を頭の中で当てはめる。勿論、そんなものは幻聴だ。でも、克てのイザベル様なら躊躇いなく口にしていただろう言葉だ。俺の中に住んでいるイザベラ様なら間違いなくそう言っていた筈だ。それなのに。
「…次。次は…えぇと」
勝負できることをそれ以上思いつけなくなったのだろう。憔悴した顔で思案するイザベル様を見ていられなくて、そっとその後ろに立った。
「…イザベル様、そろそろ引き際だと思われませんか」
多分、その俺の言葉に一番ほっとしたのはカトリーヌ様だろう。もしかしたらテネシズ様もかもしれない。どちらにしろ、それは俺の言葉を受け入れて欲しいイザベル様ではない。
「…嫌よ」
「イザベル様……」
そっと、その手を取り、足元に跪く。
「…どうか、ここはお引き下さい。例え、どんなにイザベル様が優秀で、ここまでの勝負において全勝していたとしても、テネシズ様がお心を変えることはありません」
そうだ。テネシズ様とカトリーヌ様の間に割り込む隙間など、誰がどうやったとしても全くないのだから。
俺の言葉にハッとして、カトリーナ様がテネシズ様の顔を見上げる。
そこに揺ぎ無い思いを見つけたカトリーヌ様のお顔が、花開くように綻ぶ。この対決が始まってからずっと硬い表情を崩さなかった姫がようやく柔らかな表情を見せたことにテネシズ様の表情もいつになく甘く崩れた。
国民としては、未来の国王と王妃が仲睦まじくある姿を寿ぐ気持ちはあるものの、独身者には目の毒でしかない。くそう。どっか行ってやれ。
「でも! でもでもでもでもっ!!」
突然叫び出したイザベル様に、そこにいた全ての人間の視線が集まる。拙い。
変わったと思ったけれど、やはり中身は我が儘娘だったイザベル様なのだ。その突然破裂した癇癪玉に、焦りすぎて対処が思いつかない。
「たとえ、テネシズ陛下が何を言ったって! どう決めたって!
ガイ兄のお嫁さんは私なんだもんっ!!」
いや~、私以外をお嫁さんにしちゃ嫌なの~!! と抱き着かれて泣き叫ばれて。
俺はそのままフリーズした。
「だから、それとなくでも伝えておいたじゃないか」
その口元に厭味な笑いを張り付けたまま、元主が紅茶の入ったカップを口へ運ぶ。
ブランデーがたっぷり入ったその紅茶は、ドカフートでは当たり前の飲み方だ。けれども他国でそれを味わえることはあまりない。
シュトーフェル皇国のある商会の会長室。そこがこの皇国の皇太子の部屋でもあることを知る者は少なくない。しかし、そこで紅茶を出して貰える存在はとても少ない。
「もっとちゃんと教えてくださいよ。判り易く」
俺はわざとらしくずずず、と出された紅茶を啜り飲んだ。
手紙にあった『その内、国元から知らせが入ると思う』だけで、この今の結果が推測できる人間はいない。そう言い切る。国元を指し示す言葉ひとつだって今更ザコーバの事だとは思いつきもしなかったほどだ。
そんな俺の剣幕に眉の間をこちらも業とらしく顰めてみせたクリスは、次の瞬間、噴き出していた。
「あぁ。それにしてもその場にいたかったものだね。どんなものだい? 逆プロポーズを受けるというのは」
くつくつと笑う綺麗な顔に、カップに残る熱い紅茶をぶっかけたらどんな反応が返ってくるだろう。そんな想像は勿論実行に移す訳にはいかなかったけれど、それでも引っ掛けてやりたいと思わずにはいられなかった。
「……どうもこうも」
「でも、その場で了承したんだろう?」
逆プロポーズを、とにやにやと言われて目を閉じた。眉の間に無駄な力が入る。
「俺がうけた訳じゃないです。テネシズ陛下が…」
そう。「これを断るのは男ではないな」とテネシズ様は、俺になにも確かめずあっさりとイザベル様の言葉に「了」と肯いてしまったのだ。
何度でも言おう、俺に確かめもせずに、だ。
ずずずっ、とカップの中身を一気に飲み干した俺は、がちゃん、と高級な茶器を手荒な動作でテーブルに戻した。
「ドカフート王国が、国王陛下のひと言で勝手に臣下の一生を決めてしまわれるなど」
俺はつい心にもなく「国籍など移さねば良かった」と呟いてしまった。
それを拾われて、元の主たるこのシュトーフェル皇国の皇太子クリストファー殿下がさらりと告げた言葉に、俺は愕然とした。
「でも、この皇国にいたままでも、お前はイザベル様の婿になっただけだよ?」
「…は?」
ムコニナル? 無辜、武庫、武子ってなんだっただろう?
「前に使者を貰っていたんだ。『お前の刑期が終わったら、ザコーバ公国に戻して欲しい』って。それが無理なら、『シュトーフェル皇国から婿に取る形でもなんでもいい』支度金でもなんでも出すだったかな?」
かなり必死だったけど、お前はパメラと会って本懐を遂げたと思ったらドカフートへと向かっていたからねぇ、と、にたぁと嗤う元主に、俺は声なき絶叫を上げるのだった。
「幸せにしますね」
美しくはあるが、豪華とは言い難い花嫁衣裳を身に纏った美しい少女が笑って言う。
その指には、俺がさきほど祭壇の前で嵌めた金の指輪が輝いている。
「…それは普通、男がいう台詞では?」
自分の指にも、お揃いのそれが嵌まっているのを未だに納得しきれないまま見詰めつつ、俺は苦笑しながら呟いた。
「だって。私はガイのお嫁さんになれただけで幸せですもの。
だから、後は、ガイが幸せになるだけなのですわ」
それで幸せな夫婦になれるのです、そう言い切られて、俺は額に片手を当てて大きく息を吐いた。
「公女様として嫁に行くならもっと金持ちだってなんだって選び放題だったろうに」
そう。この国で仕事がやり易いようにと受けた男爵位のままではザコーバ公国の公女様が嫁ぐのに相応しくないだろうと、急遽陞爵を打診された俺はそれを断った。仕事で認められてならともかく嫁の身分に合わせる為だけに侯爵になどされたくなかった。だから、「男爵の嫁になるのが嫌なら諦めろ」とイザベル様に突き付けたのだった。
そうして。俺はこの善き日を迎えることになった。
「贅沢より、身分より、ガイが欲しかったのですもの」
仕方がないではありませんか? なんて。きょとんとしたまま頭をコテンと横に倒さないで欲しい。そのまま顔を見上げられて。そんなのもう、降参するしかない。
「わかりました。俺を、幸せにしてください」
細い身体を抱き上げて、俺は可愛い俺の花嫁にくちづけた。
「でもイザベル様はクリストファー様のお嫁さんになりたいんだと思っていたのですが」
「だって『シュトーフェル皇国の皇太子と結婚すればガイが褒めてくれる』ってお祖母様が」
「…なんですか、それは」
「だって。ガイ兄様に褒めて欲しかったんだもの」
「………はぁ」
諦めろ、ガイ君。キミのお姫さまはちょっと頭が足りないんやw
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『陛下だろうと~』初期構想時点では、テネシズの嫁は公女様でした(笑
でもガイ君がいいんだって。そう頭の中で騒ぐのでこの形になりましたw