ハンムラビ法典のように
こちらの世界で言うなら――
言うまでも無くその大元は田単であろう。
この計略で名を馳せる“かの”楽毅を退けたのである。
ちなみに日本では「倶利伽羅峠の戦い」が有名だが、恐らくは創作。
では、ルシャートの計はどうか?
牛の扱い方は、ほぼほぼ田単のものと同じであろう。
最大の違いは、相手が知恵の足りないモンスターである事。
そして部隊指揮官がいないという事。
当然、その違いを十分に把握しての計が練られている――
騎士団が左右に分かれ、そこにあるのは置き去りにされた投石機。それによって、さらに歪となった“大暴走”。
まとまっている事で持っていた衝突力が軽減させられてしまう。
“大暴走”相手では、その内、投石機も粉微塵にされてしまう事になるだろうが、とにかく衝突力に翳りが見えた。
そして、騎士団がスルーした事によってモンスター達の前にあるのは、ただ闇があるばかり。
先行するモンスターの速度が緩められる。
いくら闇の中での行動に慣れているとは言っても、まったく警戒をしないというわけでは無い。
むしろその逆。
闇に親しいものであるからこそ、警戒は本能に近い。
結果として、その場所に“モンスター溜まり”が出来上がってしまう。
いや“溜まり”という表現は適切では無い。
謂わばリガーリン平野が、突然出血したようなものだ。
その場所でモンスターの群れが広がりつつあるが、その勢いが完全に失われたわけでは無い。
それは予測できる現象だった。
たとえ、どれほどその状況が人類によって都合が良くても。
モンスター達に不利な状況であっても。
そう。
待機させていた“牛”を放つのに、まったくうってつけで効率的な状況が今出来上がりつつあるのだ。
それもこれもディベータがあることによって膠着していた戦術の選択に自由を取り戻したこと。
そして主導権を握ったこと。
ムラタのアイデアが加わったはいえ、こういった戦場を構築し、戦術を選択したルシャートの将器は、一種異様と言えるだろう。
――“報償”というシステムがあり、「魔法」というわかりやすい力を行使する方法がある。
とかく、力押しになりがちなこの世界において、戦術の力を信じ、そしてそれを扱う事も出来るのだ。
戦略に関しては未だ未知数であるが、ムラタの繰り出したアイデアを軍事的に再構成したことで、そのセンスも窺うことが出来る。
こういった素養を獲得したのは、ルシャートが「女性」であったことも大きいのだろう。
暴力を行使するという集団の中では、男女差は時折致命的になる。
「魔法」というものがあったとしても、ルシャートは他を圧倒するほどの力量の持ち主では無い。
彼女が「団長」であるのは、偏にその将器によってである。
将としての統率力、指導力。
そして作戦立案の能力。
さらには自分の身を律する、普段の行い。
それは正に、近衛騎士団団長に相応しい。
だからこそ彼女は騎士達に推戴されて「団長」であるのだ。
……と考える事も出来る。
ムラタが元いた世界ならば。
ムラタはそこに違和感を当然感じているのだろう。
だが、それをわざわざ口に出したりはしない。
ただ彼女の存在が、この世界の歪さを現していると“確信”して。
□
そのルシャートの将器によってデザインされた戦場。
そして「火牛の計」に類似した戦術がいよいよ放たれる。
“モンスター溜まり”に対して、左前方から約45度の角度で牛たちを突撃させる。
その尾には燃えさかる松明。
これらの作業を行うのは、領兵たちだ。
地元の農家より徴収して戦に使う。
その代償は金銭によって、購われる事になるだろう。
それが十分なものになるかは、それこそ誰にも保証は出来ない。
しかし“大暴走”に対して、何ら協力しなければ、全てを失うことになる。
自分だけが――そういう態度をとれば、人の世界から爪弾きにされる。
それらの恐怖が、同調圧力となって農家に牛を提出させた。
そこに力を貸したのが“ベガ”ことアシュリーであることは言うまでも無いだろう。
彼女は王家とも縁があり、その上でメオイネ領の富農であるテーネ家の令嬢でもあるのだ。
その立場、知名度、そして美貌。
その全てが、計画の助けとなった。
そして今も、領兵達は“ベガ”の期待に応えるために、暗闇の中で作業を続ける。
戦場の華々しさは無い――それだけに危険は少ないが――地味な作業を黙々と、
元の「火牛の計」にあるような、角に剣を結わえ付ける作業が無い分いささかマシと言えばマシなのだろう。
ルシャートが欲したのは、牛の暴走によって生じる衝突力。
そこまでの殺傷能力は必要としなかった。
その代わりに欲したのはタイミングだ。
絶好のタイミングで、牛を突入させる――そのために必要な仕組みは「魔法」よって満たされる。
「魔法」で連絡を取り、ルシャートからの指示が領兵に伝えられた。
そこに何の遺漏も無い。
だからこそ必然的に――この企みは最大限の効果を発揮することとなった。
□
“大暴走”に決して劣ることの無い地響きが、夜の闇の中に響き渡る。
その音は、火の粉をまき散らす松明と共にやって来る。
果たしてそんな光景が、モンスター達の目にはどんな風に映ったのだろうか?
あるいはモンスター達をして、怪物と見紛う光景だったのかも知れない。
だが放たれた牛たちはモンスター達からの評価には一切構わない――当たり前の話だが。
牛たちもまた、ひたすら“松明”というわかりやすい恐怖から逃れるために、走り続ける。
視界はどちらにしてもただ闇が有る限り。
そして、聞こえてくるのは仲間たちの切羽詰まった嘶き。
出来る事はただ走ることだけだ。
だからこその暴走。
計画された大暴走だ。
そして今――
“大暴走”と“大暴走”が衝突する。
□
空中に、身体の小さなモンスター達が吹き飛ばされた。
ゴブリンやコボルト達がその主たるところだろう。
そういった小さき者達にとっては正に災難としか言い様が無い。
リンカル領目指して“大暴走”が進むのなら、運が良ければおこぼれに預かる可能性もあった。
だが、長々とメオイネ領まで走らされた。
空腹を癒やすことも許されない。
同胞達は次々と倒れていった。
その挙げ句の果てが、牛に吹き飛ばされるという末路。
悲惨の一言に尽きる。
その断末魔さえも、牛たちが奏でる地響きによってかき消された。
そして大半のモンスター達は、夜空の星を見ることも無く、ただただ牛の蹄に蹂躙され、悲鳴を上げる暇もなくその命を散らした。
そして、混乱はここからさらに拡大する。
牛たちの群れは当たり前に紡錘型なのであるから。
モンスターの群れに差し込まれた錐の先のように。
食い込んで、穴を広げ、侵略してゆく。
それは牛たちの意図するところでは無い。
ただただ、牛たちは恐怖から逃れるために突き進んでいるだけ。
ただそれがモンスター達の“大暴走”を「結果として」蹂躙しているだけなのだ。
闇の中で、ただただ響く地響き。
そして衝突音。
発したものと同じように、細切れになった悲鳴が時折聞こえてくるのが皮肉と言えば皮肉だろうか?
だが、それだけで十分にモンスター達の悲惨な運命を想像することが出来る。
それを裏付けるのは漂ってくる、血の臭いによってなのか。
あるいは、待ち受ける“死”を前にして、いよいよ速度の緩んだ“大暴走”のせいなのか。
それでも自殺湖に突撃した、かつての“大暴走”のように、死を構成する牛たちの群れへと、モンスター達は突撃してゆく。
だが。それを止めることが出来ない。
だからこその“大暴走”。
そして人類はそんなモンスター達に同情することは無い。
これは生存を賭けた戦いなのだから。
一歩間違えれば、逆に人類にこそ悲惨な運命が待ち受けることとなる。
容赦はしない。
情けを掛けるなどという、そんな驕り高ぶった真似はしない。
だからこそ、ルシャートの命令通りに例の筒状の矢を放ち、動きの遅いモンスター達の血を噴出させ、さらにモンスター達を煽る。
牛の“大暴走”へ無謀な突撃を敢行させるために。
だがそれは――
(前哨戦の終わりか)
ルシャートは思う。
この作戦だけで全てが終わるわけが無い――終わろうはずが無い。
“大暴走”を、長大な縦深陣と考え、そして戦力の逐次投入を行っていると推測するなら、強力なモンスターとの戦いはこれより始まることになる。
謂わば、今はただ雑魚達の掃除が終わっただけ。
ここから先は、モンスター達と人類の間に力と力のせめぎ合いが始まる。
いくら策を尽くしても、最終的は力によってケリを付ける必要があるのだ。
ルシャートはそれを十分に弁えている。
だから策を凝らして力の温存に努めた。
そして、その成果はあった。雑魚相手に、無駄に力を消耗する事は無かったのだから。
これで十分な体勢で“大暴走”の本番との戦いに臨むことが出来る。
さらに、陣を二つに分けたことによってモンスターを包囲することも出来た。
「全軍! これより“本番”に移行する! 各自、死力を尽くせ!!」
「「「「「「オオオオオオオオゥゥ!!!」」」」」」」
ルシャートの号令に騎士達が、そして冒険者達が応じた。
士気は十分。
「火牛の計」の成功が、士気を昂ぶらせたのだ。
それもまたルシャートの計算通り。
「魔法を放て! 槍を構えよ! 剣を掲げるのだ!!」
ルシャートはさらに号令を上げる。
夜の闇を切り裂き、月に届けとばかりの朗々たる大音声だ。
そして自らも剣を掲げる。
剣は魔法の光を照り返し、ルシャートの鎧を闇の中で際立たせた。
そして部下達が自分の声を待っていることをしっかりと確認したところで、ルシャートの右腕が振られる。
待ちに待った、その言葉と共に。
「全軍、進めーーーー!!」




