心の中の絶叫
貴族街であれば、それぞれの屋敷を警備する者達で自然と警戒網が敷かれることになる。
つまり貴族街において、急襲する――のはなかなか難しい。
もちろん暗殺者がひっそりと――
などという場合は話が違ってくるが、兵を動員しての急襲を行った場合、その屋敷の主が退去する時間は稼がれてしまうだろう。
元々、王都における貴族の屋敷とは、王家に対する領事館的な意味合いを持っている。
つまりは潜在的な“敵”国であるのだ。
その点は赤丸急上昇だったギンガレー伯にとっても、如何ともしがたい部分だ。
買収した住居は高級住宅ではあったが、貴族街のような警備網が出来上がっていたわけではない。
深夜、いきなり近衛騎士達の襲撃を受けた結果、警備を受け持っていたものは無条件降伏――
そもそも彼らには、伯爵と一蓮托生する理由がない。
何しろ領ならともかく、ここでギンガレー伯の住居を警備しているのは“冒険者”なのであるから。
ムラタの“冒険者不要論”が声高に喧伝されたわけでは――もちろんない。
しかし、王宮からのそういった雰囲気は感じとれるものだ。
特に冒険者稼業に身をやつしている者達は。
そういった不満を抱えた者達をギンガレー伯は、優先的に雇っていた。
どうにもムラタへの対抗心を抑えられないようだ。
それに加えて、自領との間の確執も手伝っている。
確かに浴場特需で、ギンガレー伯は領に対しても大いに面目を施したわけであるのだが、それでいきなり評価が逆転するわけではない。
ただ、ギンガレー伯への不満の声を上げることやめた、というだけの話なのだ。
ギンガレー伯が関係修復を努めるならば、やるべき事はまだまだあったはずだ。
例えばさらなる自領への利益誘導、ギンガレー領の地位向上、さらには雇用の創出――つまりは対王家を図りながら、同時に王家に阿る。
それが出来てこそ、宮中に座を獲得する意味があるわけである。
単に、自分の見栄だけで猟官されては――地元にまったく旨味がない。
しかも今の特需に関してギンガレー伯は何ら努力をしたわけではない。
それを主導したのは“ムラタ”。
ギンガレー伯が対抗心を燃やした“ムラタ”なのである。
何度でも、自らを省みる機会はあったはずだ。
それなのにギンガレー伯は、金に溺れ、名に溺れ――そしていつも通り“色”に溺れた。
だからこそ、この砂上の楼閣が出来上がる。
つつけば崩れる、脆い主従関係――いや雇用関係と言うべきか――が今、伯爵に牙を剥く。
陪臣であれば“それ”に従う理屈が無い。
だが冒険者であれば、逆らえるはずがないのだ。
――即ち“王命”には。
□
「な、何を言っておるのだ、ペルニッツ子爵。今、王都ではまったくけしからん噂があって……それは知っておろう。それに……」
――自分たちは仲間では無いか。
そんな言葉を飲み込めるほどには、ギンガレー伯の知能は低下していなかったようである。
だが、それも時間の問題だろう。
ギンガレー伯は、薄い緑色の寝具姿で今にも寝台に潜り込もうとしていたらしいことが見て取れる。
その寝台に妾が先に潜り込んでいるかは、及びもつかない事ではあるが、その寝台がギンガレー伯の体温で温められる事がないことだけは確実だろう。
何しろ“王命”が下っている。
「閣下。これは私の裁量でもう一度、申し上げてさせて貰います――“王命”です」
つまりはさっさと跪け。
ペルニッツ伯爵はそう告げているのだ。
手入れされた口髭を揺らすことなく。
ただただ幽鬼のような、座った眼差しと共に。
「な、何をお主……」
だが、ギンガレー伯はそれを受け入れる事が出来ない。
せめて、印璽付きの命令書を提示しろ、ぐらいは言い返しても良さそうなものだが、混乱から立ち直れないでいる。
――ペルニッツ子爵は自分の子飼いである。
そんな風に考えていたのだろう。
言うまでもなく、ムラタの誘導で。
それに加えて、王都で噂される自分自身の醜聞。
完全に追い詰められている状態なのだが、追い詰められている当人は、追い詰められているからこそ、その事実を客観視出来ないという皮肉がそこにあった。
「……この際、閣下は置いておきましょう。私としては戦闘になるかが問題でね」
宣言通りギンガレー伯を無視して、その傍らに侍るヨハンとキーンを警戒するのは――ハミルトンであった。
今までペルニッツ子爵の背後に控えていたわけだが、それは侯爵子弟という宮中序列に従ったわけでは無く、近衛騎士団副団長としてこの場に赴いていることを示した形だ。
任務は、ペルニッツ子爵の護衛ということになる。
「ハ、ハミルトン卿……」
それを咄嗟に判断出来ないギンガレー伯が、救いを求めるように、その名を呼んだがハミルトンは一瞥もしない。
ただ、声だけは返した。
「閣下の戦闘力は問題になりませんのでね。問題はその2人の護衛です。王命に逆らうのか否か――何ともあの男に便利使いされている気がしますが、あの男が出ると、事態があっという間に深刻化する」
薄く笑みを浮かべながらハミルトンは語る。
「……となれば私が出るのが“無難”というわけでね。あの男を除けば、多分私が一番戦える。高位の冒険者相手にしても――だから仕方がない」
ハミルトンは腰に佩いた細剣を抜刀する。
そして告げた。
「さぁ、どうする?」
と。
自分に抵抗するのかと尋ねたのだ。
途端、まずヨハンが剣を鞘ごとハミルトンに差し出す形で跪いた。
一方で、キーンは身動き出来ないでいる。
状況が掴めないのだ。
「お、お主……」
だが、ギンガレー伯は混乱の中、ヨハンが自分を見捨てた――いや見限ったことだけは察したようだ。
そんな中、ハミルトンは小さく頷いた。
「うん。君は道理がわかっているようだな。冒険者ギルドを庇護しているのは王家だからこそ、王命に逆らう事は許されない。ましてや王命に逆らうものを守るというなら、ギルドはもはや君の身柄を守ったりはしないだろう。となれば、代わりにその役目を務めるのは閣下、というわけだが、果たしていつまで“閣下”でいられるのか……」
ハミルトンがやけに親切に今の状況を解説した。
それによって、次に訪れた変化はキーンの降伏だ。
武器を差し出し、しっかりと首を差し出している。
こんな光景を見れば、創作意欲を沸き立てるご婦人がざわめいていたことだろう――その日の午前中までは。
果たして、その息吹が今も保たれているか――
だが確実なことはギンガレー伯にはもう、抗う術は何も残っていないということだ。
もはや逃亡も不可能だろう。
もう武力も威光も地位も、何もかもが失われているのだから。
「――閣下。縄目の辱めを受けさせるのも忍びない話です。それにお召し物も。せめてそれだけの猶予は差し上げます。ただその前に“王命”への忠誠を」
ペルニッツ子爵からの再度の要請。
今度、これに逆らえば誅する。
ペルニッツ子爵の昏い眼差しが、変わらずギンガレー伯を見つめ続けていた。
ギンガレー伯は、いかなる感情に因るものか全身を震わせながら、ようやくのことでその場で跪いた。
「……お、王命、謹んで承ります」
そして身体と同じように声を震わせながら。
髭を振るわせながら。
王命を受諾した。
そこで、ペルニッツ子爵は印璽を箔押しされた羊皮紙を取り出した。
「ギンガレー伯リムロック。王家への財に手を出そうと画策したこと明白なり。叛意ありと見做す。即座に王宮に出頭せよ。抗弁あれば、その折に聞く」
多分に、紋切り型で、しかも簡略化された文言であったが、その意味は正確にギンガレー伯に伝わった。
そして、頭を下げたまま、その王命をギンガレー伯が理解した瞬間、その目が見開かれた。
何しろ今までは、身に覚えのない噂が自分を理不尽な状況に追いやったに違いない――混乱の中で、そんな風に“救い”を求めていたのだ。
それなのに、今聞いたペルニッツ子爵の言葉。
あの不躾極まりない噂とはまったく違う理由で自分は拘束されるということが理解出来たのだ。
そして、その理由――王家の財に手を出す――という事ならば、身に覚えが無いわけでは無い。
ギンガレー伯の前身から脂汗が吹き出す。
なぜこんなことに?
いや、あの広まった噂は一体何なのか?
そして今、自分が王宮に拘束されたと王都に知れ渡ってしまえば――その噂を肯定してしまうようなものだ。
皮肉なことに、この状況になってようやくギンガレー伯は状況を理解した。
一瞬にして死地に陥れられた。
失地回復する術も思いつかない。
そもそも自分を取り囲む幾重もの罠――そう罠だ。
こんな事が偶然起こるわけが無い。
入念に張り巡らされた……
ギンガレー伯は、ハッとなって思わず顔を上げてしまった。
見たかったのはペルニッツ子爵ではない。
見たかったのはハミルトン。
彼が名前を呼ばなかった“あの男”の姿を思い出して。
黒髪。黒目。“異邦人”。タバコ。人を馬鹿にしたような言葉遣い。
(ムラタ――!!)
ギンガレー伯の胸中の叫びと共に、その奥歯が軋む。




