それぞれの仕事、それぞれの限界
王都、アンジェリンの部屋――
以前と比べれば散らかっているようだが、それは単純に出入りする人間が増えたことによって物が増えただけだ。
部屋の主たるアンジェリンは、それこそ紙とペンがあれば満足。
その他、生活に関わるあれこれは“カリン”の手配によって片付けられているので、無頓着さに磨きがかかっている。
それでも「車輪会」の主催――名義上の要素はあるとしても――として、知り合いも増えてはいるのだ。
では、その中核となるアンジェリンが紡ぐ物語と言えば――
時は午後3時。
“アスハム”は終始難しい表情で、アンジェリンの新作に目を通していた。
「……アンジェリンさん」
原稿に目を通しながら、アスハムは口を開く。
「はい?」
「……昼ご飯は食べたか? いや、今日の昼ご飯に限らず、キチンと食事を摂っているのか? 会う度に痩せて行っているような気もするな。1度神官に診て貰うべきだな。貴女、自分の身体おかしくても気付かないだろう。いや、無視してそのまま忘れてしまっていると言った方が正確かな」
「あ、貴方みたいにおかしな眼鏡を掛けている人に、言われたくはありません」
何回目かの会合の時、ようやくアンジェリンは指摘することが出来たのだ。
そのサングラスはおかしな物体であると。
これは“異邦人”である事を隠すために、ムラタが深く考えずに掛けたものであったが、逆にアンジェリンの注意を引いたらしい。
逆に裸眼の状態であれば、その内流される可能性が高かっただろう。
これはムラタ、千慮一失――いや、一失などでは済まないからこの四字熟語は相応しくない。
「兄さん、だからこうして先生にはガレットを今!」
芝居がかった仕草で、カリンが主張する。
「最愛の妹よ。食事は適当な時間に摂れば良いというものでは無い。規則正しい生活。これが肝心なのだ。時にはアンジェリンさんの執筆の手を止めてでも食事をさせる。それが本当のお世話というものだ。それに加えて、ガレットで包んでいる物はなんだ? チーズでは無いのか? というかチーズしか包んでないではないか。それは美味だろう。だが、美味しいだけではやがて身体を壊す。それに糖分……甘さも必要だ。ガレットにはフルーツを包むなどして、他に煮込み料理とかそういったものを用意しなければならない」
原稿を繰りながら、アスハムの口は止まらない。
「さらに新鮮な野菜――」
「兄さん! わかった! わかりました!」
流石にカリンがそれを留めた。
「確かに先生は、お世話させていただいている身で文句を言うのもおかしな話だけど、本当にこちらの言うことを聞かなくて。兄さんが言ったようなことは私も気を付けてはいるのよ。でも、先生があの素晴らしい物語を作ろうとされているのを、私が横から邪魔するなんて出来ると思う? それに加えて最近は来客の相手もあって時間は貴重なのよ!」
そして意趣返しのように、長広舌でムラタに言い返す。
着慣れないことが、端から見てもよくわかるぐらいにクリーム色のドレスをバタバタと翻しながら。
この兄妹喧嘩によって、完全に蚊帳の外に追いやられたアンジェリン。
のほほんとチーズ入りガレットに取り組んでいた。
最近、王都ではチーズが流行っていることは、流石にアンジェリンも知っている。
やはり、ある程度の情報収集は大事だという心得は獲得したらしい。
そのためにサングラスの違和感については、すっかり忘れてしまっていた。
元々、何とかアスハムに言い返そうとしただけの言及であったが。
「……アンジェリンさん」
「はい」
ほとんど手づかみの勢いではあったが、何とかフォークを使ってガレットを食べ進めていたアンジェリンはアスハムに返事をする。
気のせいか以前よりも、がさつになっている様にも見える。
……これが1人暮らしというものなのかもしれない。
「これははもう、俺が文句を言える出来ではない」
「は?」
相変わらずしかめっ面の――サングラス越しでもわかる程の――アスハムであったが、どうやら褒めているらしい。
その表情があまりに不釣り合いであったから、アンジェリンをして咄嗟に言葉の意味をはかり損ねた。
「兄さん、問題ないって事?」
「そう言っている」
流石にカリンからフォローが飛んだ。
「じゃあ何でそんな顔なのよ?」
「俺には面白く無いからだ」
「え? じゃあ……」
「俺は、俺の好きな物語をアンジェリンさんに書いて貰いたいわけでは無い。というか、編集をすると決めたときから、自分の好みを押しつけるのをやめた」
アスハムは、ますます顔をしかめた。
それ以上に、声に怒りが滲んでいる。
「アンジェリンさんの向かうべき相手は、受け手であるべきだ。受け手に届ける前に、編集の好みに合わせる必要は全く無い。第一、編集個人を面白がらせても、売れるのは編集だけではないか、最愛の妹よ」
「……じゃあ、兄さんはなにをチェックしてるの?」
「明らかに思いつきで書いていて、全体で観たときおかしな部分を指摘したり、前後の状況に矛盾があるところなどを指摘してるんだ――ただ、今回は俺が指摘するような点は無い」
やっとの事で、自分の作品が褒められていると気付いたアンジェリンが胸を張った。
「でも、面白く無いんだ」
「面白く無い。俺の感覚では、ただただ状況を説明しているだけだ」
「それだけじゃ無いでしょ、先生の作品は」
カリンが反論する。
「まず褥の描写から始まって、やがてすれ違いそうになりながらも、お互いの必要性を感じ伯爵はキリーの懐にもどる――凄く……良いじゃない」
つまりは新作はそういう話ではあるのだ。
その筋に、何ら外連味はない。
ひたすらに賑わう王都の街並みと、対照的なギンガレー伯とキーンの内面を追いつづける。
取材に基づいた結果だろうが、王都内で聖地巡礼ができそうなほどに、何気ない風景が時には色彩豊かに、あるいはセピア色に活写されていた。
内需拡大政策の手先、と思えるような内容であり、事実その方向にアスハムは導いたのではあるが、確実にアスハムの要求をぶっちぎる勢いの作品をアンジェリンは仕上げてきたのである。
アスハムもそれには素直に頷いた。
「そうだ。この物語は綺麗だ。それは間違いないのだ、最愛の妹よ。だが面白く無い」
「……兄さんの言っていることがわからなくなってきたわ」
「だから俺の好みはどうでも良いのだ」
ようやく表情を緩めるアスハム。
「それにこれは、見事にアンジェリンさんの作品だ。それは間違いなくわかる、そこが重要だ」
「……まぁ、それは……」
「ではアンジェリンさん、校正と清書はこちらで行うぞ。最終確認はして貰うが、装丁で何か希望はあるか?」
数回の膝下会を経て、ここまで専門用語と製本技術が積み重なっていた。
「ああ、それなら数冊は革張りを……」
「よし。進める方向で手配しよう」
確かに執筆以外は全部やると宣言しただけあって、この辺りの仕事を厭うことはない。
そして原稿を手に、アスハムは扉へと向かった。
これから校正、清書、「白黒」の手配、製本という仕事に取りかかるのだ。
「じゃあ、兄さん。後は任せて……何?」
アスハムの手招きに応じ、カリンが近付いて行く。
「……ノラさんは?」
「ちょっと、手こずっているみたいですね。流石にそんなに都合の良い場所は……」
“兄妹”は声を潜めて、ムラタとロジーに戻っていた。
今囁き会っているのは「膝下会」の新たな会場についてだ。
当たり前の話だが、トールタ神の礼拝堂では完全に手狭になってしまっている。
何しろ、好景気に沸く王都でもっとも業績を伸ばしているのは製紙組合であるのだ。
忙しすぎて、遊ぶ暇すらないという洒落にならない現実が襲いかかっている。
バイナム杉を使うわけでは無いが、ブームに併せてギンガレー領とのパイプを太く出来たことで、何とか回っているのが現状だ。
つまりそれほどに需要が、つまりは会誌製作の熱意が溢れかえっている。
「それに、そろそろ限界ですよ」
「はい。最悪、トールタの教会ぐらいどうなっても良いんですが……」
ロジーの報告に、ムラタはさらに声を潜めた。
「――とにかく今晩、ノラさんと検討してみます。このままでは現場に苦労を掛けるだけですしね。何もかもタイミング良くとは行かないでしょうし、せめて順番に気を付けて」
「助かりますよ。上が危機感持ってくれるのとくれないとでは随分違いますから」
「こちらも助かります。これが終われば、アンジェリンさんは良い金づるになりそうですし、その可能性に期待してください」
「それは確かに」
あっさりと同意するロジーに、ムラタはサングラス越しに穿った視線を向けた。
「……ひょっとして、ロジーさん。目覚めてますか?」
それに対するロジーの返答はなく――ただ静寂がその場を支配した。




