交換条件の後先
ヘルマンが感じた恐怖をただの思い込みと退けるのは……なかなか難しいだろう。
ペルニッツ子爵の表情は、それほど厳しいものだったからだ。
かと言って、ヘルマンには如何ともしようが無い。
会頭として所属しているギルドの名称までは覚えていたが、その内情を全て知っているわけではないからである。
ヘルマン自身は、さる商会出身で、このように職工ギルドともなれば完全な門外漢と言っても良いだろう。
商会勤めで、取引があるのなら自然と内情を知ることになるだろうが、会議所に勤めてしまえばそうも行かない。
ただ単に、数字に添えられた名前、というぐらいでしか認識が出来なくなってしまうからだ。
もちろん、その数字が異常であるというならば記憶に留まることになるだろうが、ヘルマンの知る限り、協賛費の額は極端に多くも無く少なくも無く。
ここ最近の浴場での動きを勘案すれば、これぐらいの増額であれば、まず異常とは考えられないだろう。
果たしてペルニッツ子爵は何を考えているのか……
「――ヘルマン。この譜面ギルドの構成員はわかるな?」
「は、はい。提出されております」
この辺りの事務仕事に抜かりは無い。
ヘルマンはそう自負しているからこそ、淀みなく答えることが出来た。
だがペルニッツ子爵が次に尋ねてきたことは、明らかに会議所の職務からは逸脱していた。
「――構成員の羽振り、でございますか?」
「そうだ。それを知りたい」
「い、いやそれは……」
そういう細かい部分まで会議所が把握するのは、不可能に近い。
物理的にも道義的にもだ。
だが貴族からの要望に“出来ない”と答えるのも……
「わかった。今すぐには不可能なのだな。それでは――」
コンコンコン!
そのノックから明らかな異常事態の発生が伝わってくる。
それをヘルマンが天の助けと感じたかどうか。
ペルニッツ子爵の続けての要望は、
「では、そち達で調べよ」
であることは間違いない。
だが、これが恣意的に行われたと知られると、各ギルドと会議所の信頼関係が損なわれてしまう可能性がある。
それで、何かしらの不正が行われていればまだましで、結果として何も出てこなければ、貴族は平気で知らぬ存ぜぬを決め込むだろう。
となれば、何とか言質を与えぬように断るのが吉というものだ。
今、響いたノックは、そのための絶好の好機にも思えるが、貴族との面会中に余人が水を差そうとすることもまた、こちらの弱みを見せることとなる。
こちらに飛びついたところで、果たして救われるのかどうか……
「ヘルマン、構わぬ。緊急の様子でもあるしな」
そんな風に迷うヘルマンに、ペルニッツ子爵が声を掛けた。
さすがにノックの主は、この応接室にペルニッツ子爵が訪れていることを知っているのであろう。
だからこそ、部屋に踏み込んでは来ない。
だが、それでもノックをして会頭を呼び出さねばならない事態が発生しているということになる。
(そちらも貴族様か……!)
ヘルマンは胸の内で呪詛を唱えた。
□
果たしてヘルマンの危惧は当たっていた。
3階で行われていたドノヴァンの講義。
今日、その講義に現れたのは圧倒的に女性が多いわけなのだが、その女性達の中に貴族家に縁のある者達が多数存在していたのである。
それが判明すれば、概ねの場合、貴族の要望が通ることになる。
だがここで、その要求が叶えられる可能性は極めて少なくなってしまった。
大きな理由は2つ。
まずはドノヴァン自身だ。
引退しているとは言え、かつては最高位でもあった魔法使いである。
貴族を相手に、簡単に尻尾を振るような生き方はしていない。
さらに、その気になれば精神系の魔法で、この場を抑えてしまうことも簡単だ。
それでもドノヴァンが堪えているのは、街中での魔法使用に躊躇いがあったことと、ムラタとの約束があるからだ。
蕎麦に負けたといても良い。
一方で会議所の職員が手をこまねいているのも、またムラタに原因がある。
通常であれば、事なかれ主義そのままに貴族の関係者の顔を立てるため、ドノヴァンを抱え込んで頭を下げさせ、何とか貴族の要望通りに事を進めようとしただろう。
だがドノヴァンは、ムラタの紹介で段取りを組んで、講義を開いて貰っている。
完全に“あの”ムラタの関係者だ。
となると、相手が貴族であるという事はまったく意味をなさない。
事なかれ主義を貫くなら、逆にドノヴァンに味方した方がマシであるかも知れないのだ。
これによって職員達が大いに迷うことになった。
そしてもう1つの理由。
貴族に縁のある女性達が要求している魔法具。
これを用意する術がまったく見当がつかない。
そもそもドノヴァンは販売目的で講義を開いたわけでは無い。
あくまで魔法「白黒」を伝えるためだけに、講義を開いたのだ。
そのドノヴァンに魔法具の調達について責任を持てというのも――いささか筋が違う。
実際にドノヴァンは金銭的な欲求は何も行ってはいないのだ。
会議室を使うための使用料も王宮から。
これでは非を論うわけにはいかない。
だが、講義を受けた者達がその魔法具を欲しがるのは自明の理。
となれば、あらかじめ用意しておくべきだ、と考えるのも無茶な欲求では無いだろう。
せめて2~3組用意しておけば……と恨む気持ちもあるが、現状はそんな心情をうち捨てるようにさらなる混迷を見せている。
2回目となって、狭い部屋から溢れかえらんばかりになった参加者のほとんどが、その魔法具を要求しているのだ。
しかもその人数は、3階にいる者達だけでは無い。
ギルド会議所に乗り込んできた希望者は、未だ増加し続けていたのだ。
職員が会頭に助けを呼ぶのも無理からぬ話、というわけである。
辛うじて職員達が成し得たことは、ドノヴァンと女性達が睨み合う場所を1階の玄関ホールに移動させたことだろう。
これで狭いところで騒動になる危険性を回避できたし、講義に乗り込もうとしていた女性達をひとまとめにすることも出来た。
それは確かに、お手柄なのであろうが事態の解決までにはまだ遠い。
何しろ先ほど挙げた2つの問題点に対して、何ら有効な手段では無かったからだ。
これにはヘルマンが出ていっても同じ事で、むしろ責任者が出てきたのに、何ら有効な提案も出来なかったことで怨嗟の声が上がる。
それはまたヘルマンにしても同じ事だ。
――噂に聞くムラタ絡みとは言え、不手際に過ぎないか!
と、胸中で叫び声を上げている。
その時である。
「……おのおの、お静かになされよ」
決して大きな声では無い。
むしろ小さな声だった。
だが、声が持つ身体を揺さぶるような響きが場を圧した。
声の主は黒づくめで幽鬼のような男――ペルニッツ子爵である。
全員が思わず息を呑み、女性の中には、ヒィ、と悲鳴を上げるものまでいた。
「私は警務局預かりのペルニッツ子爵である。偶々、この場に居合わせた縁で声を掛けさせて貰った。事情も説明を受けた」
相変わらず小さな声で子爵は続けた。
「拝見させていただいたところ、貴族に縁のある方々の姿も見える。私のことをご存じの方もおられるだろう。だからこそ発言させて貰う――この事案の発端はフイラシュ子爵夫人殿下の料理番である」
フイラシュ子爵夫人とは即ち、次期国王のことだ。
料理番が何のことかわからなくとも、最高権力者の名前が出された以上、貴族であっても――貴族であるからこそ――これ以上の抗命は自殺行為だ。
ましてや料理番の事を知る者となれば……これによって、魔法具を要求する者達の気勢は削がれた。
次にペルニッツ子爵はドノヴァンに頭を下げた。
「この度は失礼した。お役目上、私の不手際。収めてくだされば助かる」
実際に頭を下げながらであるので、こうなるとドノヴァンも神妙に頷くしか無い。
「この度の件、なんとかムラタ殿の耳に入るように働きかけてみよう」
「そうですかい? ……考えてみりゃあ、私は連絡方法知りませんでした」
「だろうな。忙しいお方だ」
ドノヴァンはこれで完全に収まった。
元々、熱くなっていたのは魔法具を要求いていた方なのである。
ペルニッツ子爵の視線が、そちらへと向けられた。
「おのおの方も、すぐに用意できない事情もわかっただろう。すぐには無理だ――ヘルマン」
「は、はい」
突然に名前を呼ばれたヘルマンが声を返す。
「善処せよ。まずは約束。それから担当ギルドに声を掛け、見通しを知らせよ」
「し、しかし……」
「確かに王宮からの伝達が無いようだが、これはいささか先走っているのではないか」
ペルニッツ子爵が質問とも断定とも取れる口調でそう告げると、押しかけてきていた皆がバツが悪そうな表情を浮かべる。
その機を逃さずに職員達が声を掛けると、潮目が変わったように全員が会議所から退出していった。
そしてドノヴァンも暇を告げ、ようやくのことで一段落。
会議所に静謐が復活した。
「た、助かりました子爵殿下。お見事でございます」
実際その通りなのだろう。
何ら含むところ無く、ヘルマンは子爵を賞賛した。
「……助けにはなったのだな」
幽鬼の眼差しで、ペルニッツ子爵が確認する。
「は、はい。それはもう」
「……であれば、今度は私の助けになってもらおう」
その言葉の意味がヘルマンの頭の中で、理解に至ったとき――
――その足下がグラリと揺れた。




