陰謀がいっぱい
蒸籠に盛られ、刻み海苔が振りかけられた蕎麦。
その蕎麦に、ムラタは箸でつまんだ山葵をのせる。
その上で、今度は山葵ののった蕎麦を一つまみ。
そして山葵を濡らさないように、且つ蕎麦がたっぷりとそばつゆに浸るように調整。
そのまま蕎麦猪口を口元に寄せ――
ゾゾゾゾゾ
と、蕎麦を啜る。
「……おいらの分も残しておいてくれよ」
と情けない口調でムラタに話しかけるのは、八の字髭の老人だ。
いつぞや、アーチボルトと浴室で一緒になった人物である。
そして、この部屋の主でもある。
この部屋というには“木の洞”が店を出している区画で、この区画には安い家賃で部屋を貸している住居も多い。
ここは木造4階建ての建造物で、この部屋はその3階にあった。
そして、わかりやすくまとめてハッキリ言えば1Kの間取りだ。
ただ六畳と言うことは無く、なかなか広い。
それが救いとなっているのかどうか。
窓は割と西向きである。
もっとも部屋の主は、午後いっぱいは浴場で管を巻いているのであまり関係ないのだろう。
夕飯も外で済ましてきて、朝寝が大好き。
もう一歩踏ん張れば「小原庄助」に迫れるところであるのだが、なかなか難しいようだ。
そんな未来の「小原庄助」を目指す部屋の主の名は、ドノヴァンという。
実のところ、ドノヴァンはすぐにでも「小原庄助」的生活に浸りたいのだが、そんな事はさせないぞ、とばかりに乗り込んできたのがムラタだ。
ただただ余生を楽しみたい、経済的にも余裕のある老人に、労働を強いる悪鬼羅刹の振る舞い。
――だが、そんな悪鬼羅刹の申し出にドノヴァンは屈してしまった。
元々ムラタは、ドノヴァンが愛して止まない浴場の仕掛け人でもある。
それに加えて、何ともドノヴァンの胃袋を歓喜させる料理を持ち込みもするのだ。
その上、ムラタの提案がドノヴァンをそそるのである。
そのため浴場に行くこともままならず、今のように自室で監禁状態になってしまっているというわけだ。
窓から差し込む光はそろそろ、色合いが変化しつつある。
ムラタが持ち込んできた蕎麦に釣られて、完全に超過労働状態だ。
「大丈夫ですって。それが上手くいくようならすぐに用意できます。それはご存じでしょう?」
相変わらず遠慮無く蕎麦を啜りながら、ムラタが応じた。
ドノヴァンは、今や蕎麦中毒である。
蕎麦のためなら、殺人も辞さぬ……とは大袈裟かも知れないが、もしかしたらと、周囲の者に思わせるぐらいの状態に陥っていた。
「そのワサビの使い方今まで教えてくれなかっただろう?」
「そうでしたっけ?」
「兄ちゃんは、そうやっておいらを弄ぶねぇ」
白くなった眉を下げながらドノヴァンは、泣き言を漏らす。
ちなみにこの頃になると、蕎麦の食べ方一つで口論が絶えなくなっていた。
ムラタは、見たとおり蕎麦をどっぷりとつゆにつけて食べる。
「ちょっとしか付けないなんてのは、蕎麦屋の陰謀ですから」
と、所謂“粋”と呼ばれている食べ方を真っ向から否定している。
それなのに先ほどのような山葵の使い方を、一体どこで覚えたのか。
ちなみにそば湯も使わない。
ただひたすらつゆを蕎麦に含ませて、
ゾゾゾゾゾ
と啜りきる。
一方でドノヴァン。
これはもうムラタが紹介されたものを、素直に順番に試していった。
蕎麦猪口に、蕎麦を浸すのはほんの僅か。
何なら塩で食す。
終わった後のそば湯もしっかり堪能し、いやそれどころか冷酒でキュッと締める。
……などという“粋”の極地の「蕎麦食い」に成り果ててしまっていた。
何なら、盛られた蕎麦を食い切るのに僅か3口という有様だ。
元々の口調もあってのことだろう。
ムラタからは胸中で「江戸っ子」などと呼ばれていた。
その「江戸っ子」が果たして何をしているかというと、魔法の改“悪”である。
「江戸っ子」だという印象が先行してしまうと、違和感を抱くこと間違いないがドノヴァンはブルーとキリーの師匠なのだ。
リンカル領において、現地の冒険者ギルドの嘱託であったが浴場建設のために王都に呼び出されて、それに応じてしまったのが運の尽き。
それ以来、ムラタの依頼を度々受けることとなってしまった。
ムラタとしては、半ば世捨て人状態のドノヴァンが都合が良かったのであろう。
それに浴場を利用すれば、貸しをいくらでも作れるところも見込みがあると考えたに違いない。
ドノヴァンは最初、浴場での「サマートライアングル」の舞台を盛り上げるための手伝いを頼まれた。
――「幻影」の限定的な使い方を、新たな魔法として成立させられないか?
というのが最初の依頼であった。
通常であれば、魔法に手を加える場合、より大きくより強く、がコンセプトになる。
ところがムラタの要求は、その魔法の効果を制限して、それによって使い勝手の良いものにできないか? というものであった。
この発想はドノヴァンをして、垂れ下がった眉毛を両方とも持ち上げるほどの衝撃を与える。
結果、出来上がった魔法は「平面幻影」であった。
何故、茶色なのかとドノヴァンは訝しんだが、言ってみれば名前はどうでもいいわけで、その内考えるのをやめた。
そんな事を考えている暇が無くなったと言うべきか。
ムラタは「平面幻影」の完成だけで満足したりはせず、それに用意しておいた絵を入れ替えるだけで、幻影が切り替わるように出来ないか? と続けざまの依頼。
魔法具――文様が描かれた、魔法処理された布きれ――と組み合わせることで、これも何とか成功させることが出来た。
最初の内は、双子に手伝って貰っていたが、今ではごくごく初心者――もちろん魔法使いの――でも、浴場での仕事を過不足無くこなすことが出来るようになっている。
元々、開発された魔法が危険性に乏しいものであったことからか、はたまたムラタが外部に漏れる事を非常に嫌がったためか――間違いなく後者なのだろう――「平面幻影」は普及すること無く、浴場の七不思議のような扱いになってしまって現在に至っている。
もちろんムラタのことだから、ただ隷属を命じただけでは無く、しっかりと給金も提示したのであろう。
もしかすると、家族や係累に鼻薬を嗅がせた可能性もある。
その辺りは、いつものようにぬかりなく。
冒険者ギルドから足抜けさせたことを一番の成果だと考えている可能性も否定できないが……
ともあれ提示していた給金を支払ったところで、浴場運営に何ら問題は発生することも無く、全体的にはムラタの成し得たことは“良いこと”の範疇に収まるものであったはずだ。
だからこそ、ムラタの次なる依頼にもドノヴァンも気安く応じたもであるが――どうやら、様子がおかしい。
まず第一に、次に依頼された魔法の改悪は浴場で使うものでは無いらしいこと。
なにしろ紙を大量に使うのだから。
改悪されるべき元になった魔法は「複製」。
この魔法は、とてつもなく使い勝手が悪い。
まず、熟練者で無ければ発動すら出来ないのだ。
ドノヴァンは使うことが出来るが、ここで次の問題点が立ちふさがる。
使う度に――それもただの一回だけ使うだけで――疲労困憊。
数日は寝込む時もあり、それで上手くいくのならともかく、失敗する可能性もかなり高い。
成功すれば確かに、状況を有利に運ぶことが出るかも知れない。
だが、やはり――使い勝手が悪すぎるのだ。
「……それじゃ、やってみるかい」
「お願いします」
その他人事のように答えるムラタの声に、ドノヴァンはやはり理不尽なものを感じていた。
この蕎麦……蕎麦に限らないが、ムラタが言う“壊れスキル”で作り出す様々な物。
それこそ正に「複製」なのではないかとドノヴァンは考えているのだ。
だとすれば、自分を介さなくても、よほど上手くやるのではないか。
そんな風にドノヴァンが考えてしまうのも仕方ないだろう。
もっとも、ムラタが魔法を使えないのは確からしいし、その上ムラタのやっていることは完全に「複製」以上だ。
何しろ“複製の元になる物”自体がないのだから。
それにムラタがドノヴァンに依頼してきたのは「平面幻影」を作り出した時と目的は同じだ。
自分では無く、より簡易に「複製」を使えるようにするための改“悪”。
それが目的と言うのなら、確かにムラタが「複製」以上のスキルが使えても意味はない。
そういう理屈は、綺麗に揃えてくるのだ――このムラタという男は。
ドノヴァンはため息をつきながら、魔法具である布を広げた。




