雲は出ているか?
開場前の浴場に佇むロデリックの脳裏に浮かぶのはムラタの言葉。
彼は言った。
――「まるで東館みたいだなぁ」
と。
□
準備が完了した浴場を見るロデリックは、感慨深そうな表情を浮かべていた。
今ではここも随分と物が持ち込まれ、さらに整理もされたが、最初は空虚そのものだったのだから。
何しろまず、壁がない。
ムラタがそう言い出したときは正気を疑った。
さらに入場無料と言い出したときには、完全に泥船に乗ってしまったと絶望に囚われた。
しかし詳しく話を聞いてみると、やはりムラタの深謀に舌を巻いてしまう。
今、ロデリックが佇んでいる場所は正確に言うと、浴場では無い。
謂わば浴場の前室とも言うべき空間だ。
実際の浴場に繋がる脱衣場に入る時に、入場料を払うことになる。
脱衣場は男女別にしなければならず、当然警備のために人を配置しなければならないので、考えてみれば、脱衣場前で徴収した方が手間が省けるのは間違いない。
では、この空間は何か? と言うと、ムラタに言わせれば「客寄せ」のために設計された物で、手を掛けてきた「サマートライアングル」の舞台もここに設置されることとなった。
当然のことながら、ロデリックはその計画に疑問を感じたものだが、順々に説明されると、ここでもムラタの深謀に気付かされる。
基本的には、直接的に女性が金を稼ぐ形にしてしまうと、まだ時期尚早だろう、と。
では、どうやって稼ぐのか?
その疑問に対してムラタが提示したのは「宣伝」だ。
これはまだ成功するかどうかはわからないが、主な業務を「宣伝」だと考えると、ロデリックにも見えてくる物がある。
ロデリックの考えではここは「談話室」だ。
決して高価な物では無いが、整えられたのは沢山のテーブルと椅子。
これだけでも人は集まってくるだろうが、この空間には出店すらある。
食べ物は言うに及ばず、様々なアクセサリ、服を売る店まで用意されている。
この辺りは会長の伝手だ。
ますます肥え行くのに比例して、付き合いはますます広くなっている様だ。
この辺り、他の商会の代表者も噛んでいる様だが……
とにかく、そういった環境を整えられ、ひどく居心地の良い空間が出来上がっている。
つまりはここは王都の「談話室」を目指して設計されたのではないか?
ロデリックはそのように捉えたのだ。
もちろん、それによって発生する危険性もある。
だがムラタは簡単に肩をすくめた。
「不満の声ぐらい、勝手に言わしておけば良いんですよ。別にこっちに害は無い。逆にここに密偵放つだけで情報拾い放題になるかもしれませんし能率的です。それに――」
それ以上はムラタは口にしなかった。
ロデリックは、そこでムラタが口を噤んだこともヒントだと考える。
さらには「宣伝」という目的。
それを重ねて考えれば、自ずから答えは出る。
ムラタはこの「談話室」での話題をコントロールして、自らの都合の良い様に王都を操るつもりだ、と。
ムラタはそれを王宮――つまりは王家のために成すつもりだが、運営は基本的に「レイオン商会」にまかせようとしている。
つまりは「商売」についても、このコントロール法を使うことを許可したも同然だ。
相変わらず看板代わりのギンガレー伯は、いまいちわかっていない様だが、さすがにロデリックは間違えない。
その「宣伝」の限界についても。
ムラタの暴力があれば何もかもを無に帰することも簡単だろう。
だからこそ、節制を心がけねばならないが――
ロデリックはため息をついた。
今更、調子に乗れるはずがない。
確かに、ここが殺風景であった頃は、ムラタを疑うことが多かった。
何しろ、この空間にあったのは、天井を支える柱だけ。
その天井も随分高く、恐らく3階ほどは吹き抜け構造。
ムラタはその天井を見上げながら「雲の発生は抑えなければな」と、意味不明な事を口走る。
この空間には壁がない――浴場前の広場に面した部分半分ほどだが――わけだが、ここを確認したときにも「ここがシャッター前……疑似シャッターは……ないか」と、謎の言葉を呟き続けた。
この空間の目玉になる舞台の建設を見上げていた時も「西館あまり知らないんだよなぁ。そもそも舞台があるのかどうか……」とこちらもまた以下同文。
何やらぼやき続けていたが、完成した状態から逆算してみると、どうやらムラタの脳裏には完成図がキチンと出来上がっていたことがわかる。
ムラタはその完成図との差異について、何やら文句をつけていたのだろう。
……未だに「雲」についてはよくわからないが。
ふとロデリックは頭上を見上げる。
そこには、何のてらいもなく灯されている「持続光」の輝き。
殺風景でありながら、それだけにさらなる広さを感じることもできる。
さて、打ち合わせ通りギンガレー伯の挨拶は短めに終わった。
(さすがムラタ殿……)
せっかく盛り上げて来ているのに、あの髭に水を差されてはかなわない。
そのままロデリックは自分自身の気を引き締める。
壁はないが、しっかりと屹立している柱の陰が、今ロデリックが立っている場所だ。
しばらくはこの場所で入場者の様子を観察するのが、ロデリックの仕事になる。
まずは――
「絶対に走らせるな、と厳命はしていますが堪えることが出来ない愚か者は必ず出現するでしょう」
ムラタはそれを防ぐようにロデリックに命じたわけではない。
そういった人物を主催者側が把握していることが大事なのだとムラタは言う。
「そもそも、言うこと効かせるのは近衛騎士の仕事ですから」
というわけで、ムラタの警戒が功を奏したのか、取りあえず駆け込んで来るものは見あたらない。
入り口にあたる部分が、壁がないことで自動的に消失したわけだが、そのおかげもあって狭いところに一斉に人が群がってくるという現象も防ぐことが出来たらしい。
ここまで壁がないことの有用性が発揮されるとは……
改めてムラタの慧眼に舌を巻くロデリック。
それでいて、幾たびも注意を繰り返しただけあって走り出す者も――
――あ、やっぱり出現してしまうのか。
今日は当たり前に「サマートライアングル」のお披露目会でもあるわけだが、その中心となる舞台に向かって突進を開始する連中がいる。
これまたムラタの予言通りだ。
(よしよし、しっかり確認出来たぞ)
警備にあたっている「鋼の疾風」の面子とロデリックは頷き合う。
重点的に舞台周辺を警備しているので、もし混乱が発生した場合でも対処は可能だ。
もちろん走り出した連中が懲りない様なら、そのまま拘束することになるだろう。
ただ今日だけは、実力行使に出ることはない。
開場してすぐに締め付けを厳しく行うのも問題がある、という判断からだ。
かと言って、野放図に放り出すのでは無い。
舞台目当ての第一陣が落ち着いたところで、浴場目当ての老人達が入場してきた。
こちらが本命といえば本命か。
だからこそ、この方面にも対策は用意してある。
これまたムラタの発案であるのだが。
(……と、こっちも始まったな)
ロデリックの目の前で、こんな光景が繰り広げられていた。
どうしても行動がゆっくりになってしまう老人達。
もちろんドンドン追い抜かれるわけだが、そこに手を差しのばし導く者が現れる。
見た目完全にヤ○ザ。
良くいえばチンピラ。
そういった出で立ちの者“たち”が、老人に気を遣い、椅子まで案内し脱衣所前の料金所まで親切につきそう。
それに対して、戸惑いながらもそれに頭を下げ感謝の言葉を並べる老人達。
この光景を否定できる者など――あるいはムラタだけかも知れない。
だが、この光景を仕掛けたのはムラタでもあるのだ。
「上からではなくて、自然とそういうことが行われる雰囲気を作った方が、今後も色々と楽だ」
――名付けて、ラーメン店の所行。
と、これまたよくわからないことを言い出したムラタであったが、今回も狙い通りの展開になりつつある。
舞台が中央にあるため、自然と男女で分別されているところも大きい。
いや、元々広い造りであるから、人が集まってきても余裕がある事が最大の原因かもしれない。
だからこそチンピラ達の行動が目についてしまい、周囲の者たちも自然と襟を正す結果に結びついている。
(とりあえず、ここまでは順調……ということにしておこう)
問題が起きないはずは無い。
それに対して、どれだけ小さいうちに対処できるかが、肝心なところだ。
そういった心得を口を酸っぱくして言い続けていたのもムラタであった。
ロデリックは左右の視線を投げかけながら、背を預けていた柱から離れる。
今のところ、大きなトラブルは発生してない様だが、まだ油断は出来ない。
それに今は近衛騎士がいるが、ずっとそのままなわけはない。
出店の1つが、早速もたついている様だが、まだ乗り出す程では無い。
……旨そうな匂いだけはたっぷり振りまいていたからな。
と、ロデリックはもしものための対応を頭の中で整理しながら、歩を進める。
――さて次は、脱衣場、そして2種類の浴場だ。
ロデリックには、まだまだ確認しなければ場所は沢山あるのだ。




