31 静かな始まり
異界者激闘編
この部屋に存在するのは、清浄な空気のみだ。
部屋と言うよりは、巨大な空間と呼ぶのが正しいのかもしれない。
天井が高く、何より、家具や調度品と言った物がほとんどないのだ。
唯一目を惹くのは、部屋の北面にある女神ミルフディアの等身大の神像である。
ミルフディアは右手に槍、左手に縦長の盾をもち、ゆるやかな長衣をまとっている。白亜の像であるために、特徴の一つである「すべてを見通す金色に輝く瞳」に、黄金は灯っていない。
知恵や芸術、あるいは戦の女神としてよく知られているが、先を見通す神、という一面も持っていた。
この部屋の主、先読みの巫女と呼ばれるマリー・ヴァン・ボルポロスが信仰するのに、ふさわしい神であるのかもしれない。
部屋に招かれたキリハラ・ナギサは、そう思った。
キリハラ・ナギサは、鋭い輝きを放つ大きな瞳が何より目を惹く少女だ。ショートのやや赤みを帯びた、明るい鳶色の髪をしている。
体重を感じさせない隙のない動きから、彼女に武道の心得があることが察せられた。
「おはよう、ナギサ」
「おはようございます。マリー様」
やわらかい微笑みを浮かべるマリーは、女のナギサの目から見ても、見惚れる美しさと清らかさがあった。
「ナギサ、また、冒険者の町へと出かけると聞きましたが、本当ですか?」
「はい。調子にのっている魔族を蹴散らしてやろうと思っています」
「最近、魔族の出現の頻度があがり、危険だと聞きます」
「だから行くのです」
「私は、あなたの身を案じています」
「マリー様の気持ちはわかっています。でも、魔族を許すわけにはいかない。マリー様ならわかっていただけるでしょう」
ナギサという少女の身の上は特殊だ。
異界者の父とヒューマンの母を持っていた。
異界者の父は、余所者という目で見られることが多く、その家族も同じ扱いを受けた。両親が存命中はまだ良かった。だが、彼女の両親はナギサが十歳の時に、魔族に殺されてしまう。
ナギサの味方は誰もいなくなった。
冒険者の町であったことも、大きく不利に働いた。抜け目のない彼らは、子供という弱者であろうとも、容赦をしなかったのだ。
子供であったナギサに対して、公平な売買を行う大人などおらず、両親の残した少々の蓄えも、あっという間に彼女の懐から消えてしまった。
そのままであったなら、ナギサは遠からず両親のもとへ旅立っていたに違いない。
そんな彼女を救ったのが、マリーである。
マリーは、ナギサの両親のことを知っていたらしい。その死を知り、急ぎ冒険者の町に迎えをよこして、十歳の少女を保護したのだ。
ナギサが、マリーに保護されるまで、三日間である。
その三日という短い月日が、彼女から人を信じる心を奪ってしまった。
マリーに保護された時も、ナギサは始め、マリーに対してさえ心を開くことがなかった。
ある事実を知って、態度を軟化させたのである。
マリーも、父親を魔族によって失い、母も亡くしていたのだ。
同じ境遇にあるという事実の共有が、幼いナギサにとって、マリーは味方であるという判断の基準となったのだった。
それから、ナギサはマリーのもとで成長していくことになる。勉学にも励んだが、何よりも熱中したのは、戦闘訓練である。
魔族を根絶やしにすること、それが、十歳の少女が心に誓ったものだった。
あれから七年が過ぎた。
ナギサは、もう、無力な子供ではない。
「今回、あなたを送ることがどうしても嫌なのです」
「マリー様は、毎回そう言っています」
「そうね」
「大丈夫です。魔族だろうと冒険者だろうと、蹴散らしてきますから」
「冒険者は違うでしょう。いや、不届きな冒険者は蹴散らしてもかまいません」
「マリー様がそんなこと言ってはダメです」
姉妹のように二人は笑った。
「でも、ナギサ。今回は約束してください。十日以内に帰ると」
「十日? そんなの行って、すぐ帰ってこないといけません。約束できません」
「約束して」
「でも」
「約束して」
「そんなこと言われても」
「約束して」
マリーの深い眼差しに見つめられ、ナギサは白旗をあげた。
「わかりました。今回だけは、すぐに戻ってきます」
「ありがとう、ナギサ」
「はいはい。どうせ、マリー様にはかないません」
「そんなこと言わないで」
「可愛く言ってもダメです」
本当は、すぐに戻ってくるなど不満だったが、マリーのやわらかな笑顔を見て、ナギサはまあ、今回くらいはいいかと思いなおした。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「はい。でも、そんなに心配しなくても本当に大丈夫ですから」
ナギサは部屋を出る前に、もう一度、小さくお辞儀をして、その場を後にした。
わずかに時間をおいて、別の扉が開く。
現れたのは一〇代後半の若者である。
立花公一郎、異界者だ。
二枚目に分類される顔立ちではあるが、美形と言うほどのものではない。しかし、彼は非常にもてた。
彼より、整った顔立ちをした男は多くいる。それでも、彼の方が女性に人気があるのだ。
完璧ではない、どこか隙のある顔立ち、甘い瞳の輝き、あるいは、野性味のある口元などが、女性たちの心に訴える何かがあるのかもしれない。
「俺が知っているのとは、まったく態度が違うね。彼女」
「そうですか? あの子は、素直な子ですよ」
「素直な子ねえ。口が悪くて、すぐに手が飛んでくるタイプだと思うけど」
「コウイチロウの方に原因があるのではないですか?」
「あまやかしすぎでしょ、その発言は」
「あの子に、ついて行ってくれませんか?」
「お断り。正直俺を必要とするとは思えないな。彼女、強いよ」
――それに、俺はあんたを守ると決めている。あんただけを。
心の中で、立花は続けた。
なぜかはわからない。
立花は、一目見た時からマリーに心を奪われた。
正直信じられなかった。自分が一人の女を好きになるなど。
確かに容姿は優れている。
これまで立花が見てきた誰よりも美しい。
透けるような金髪に、静謐をたたえた緑の瞳、すっと通った鼻筋の下にある紅唇は、ふっくらとして果実のようにあまい。
華奢な身体つきだが、貧相ではない。
ただ、どこか超然としており、人を受け入れない空気がある。「聖」という一字が、彼女にはもっともふさわしいだろう。
さらに、性格は度がつくほどの堅物だ。
恋愛などというものは、世界に存在していないのではないか、と彼女の傍にいると思わされる。
この点、恋愛にのめりこむのではなく楽しみたい彼には、まったく相性の合わないタイプだ。
遊びがないからである。
しかも、彼女は本物のお姫様だった。何しろ、この国のトップであるボルポロス公の孫なのだ。
なぜ、こんな女に惚れてしまったのか。
わからない。
だが、そのわからないことが楽しくもある。
「何か嫌な予感がするのです」
「それは、先読みの巫女としての言葉?」
立花は茶化して言った。
「そうです」
冷や水を浴びせるように、マリーの言葉は、室内に響いた。
そして、彼女の言葉は、現実のものとなる。
ヤマトは騎獣に乗って、空を飛んでいた。
彼女の前には、蒼一角馬に乗った坂棟と、隣で自力飛行をしているハルがいた。
三人で行動していることに、不満はない。
ただし、行先には、不満があった。
坂棟はヤマトに対して、ダーリュのギーセンラルバを倒せば、道場破りというものに連れていってやると言っていたのだ。
「時間がない。道場破りはできないから、修行の旅に変更しよう。ついてこい」
完璧に約束を破っている。
何とか坂棟に嫌がらせができないかとヤマトは考えていたが、難しかった。何しろ、王は、同じところにほとんどいないのである。
接触すること自体が難しい人なのだ。
「冒険者たちのセリアンスロープに対する扱いは、かなりひどいらしい。たとえ、怒りがわいても、手を出したりするなよ」
「なぜ、怒りがわくのですか?」
ハルが言う。
「ホントに、なぜ、怒りがわくんです?」
ヤマトも不思議だったので訊ねた。
「これは安心していいのか? それとも危ぶむべきか?」
ヤマトは、坂棟が何を言いたいのかわからなかったので、口を閉ざしていた。
ハルも何も言わない。
再び、坂棟が口を開いた。
「まずは、魔族退治で名をあげて、上へのつながりをつくるとしようか」
眼下に巨大な町が見えてきた。
中央に丘があり、そこに巨大な建物がたっている。それ以外は、ラバルに似ていないこともない。
「城塞都市ミルフディート。ボルポロス公国の首都だな――たぶん」