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10 欠けた準備




 ――夢だ。


 ――これは夢だ。


 と、思いながらも、彼は夢の中を彷徨う。



「おまえの気持ちはわかるけど、これはしかたのないことなんだ」


「しかたないって、何が? ブルラーグ様のお嫁になるのは私だって、決まっていたもの!」


 一三歳となった妹は、ブルラーグがビラ(北のセリアンスロープ)の長の娘と婚約したことを許さなかった。

 二人が婚約をしてから、まださして時は過ぎていない。


「私はブルラーグ様と絶対に結婚するから! 絶対に、あいつとブルラーグ様の結婚は認めないから!」


 家から飛び出した妹に、彼はため息をついた。

 連日行われる兄妹喧嘩である。

 年上の異性に対する大きな憧れと強い恋心が、妹の胸を満たしている。

 今はダメでも、時間が経てばいずれ気持ちの整理ができるだろう、と彼は考えていた。


 それに両種族間の中は、決して良好とは言えない流れになっていた。

 妹の望みも可能性がないわけではない。

 だが、不確定な未来へむやみに期待を抱かせるわけにはいかない。また、両種族の中が悪くなることを喜ぶような言動をとらせるわけにもいかなかった。


 だから彼は、妹には何も伝えていない。

 その日も、いつものように見送っただけだった。


 当たり前であるのが日常であるし、日常というのはいつまでも続く、そこにあって当たり前のものなのだ。




「なぜ、こんなことに……」


 ブルラーグの呟きを、彼は傍で聞いていた。

 眼下には、二度と動くことのない妹が転がっている。


「なぜだ? ――あの子がこんなところで足を滑らせた? 運動神経もよく、危険なことには近づかない子が? 何があった?」


 ブルラーグも動揺しているのだろう。

 思考が、口から次々ともれてしまっている。


 彼は、ブルラーグの言葉も耳に入らず、ただ、ただ、変わり果てた妹の姿を見つめていた。

 この先、笑うことも、泣くことも、怒ることもない――冷たくなった妹の姿を。


 彼の記憶にある最後の映像は、妹の小さな後姿。

 扉を開け、出ていく妹。

 夢の中で繰り返される映像。

 その先に、未来はないのに……。


 彼――ビグズは、うっすらと目を開き、苦い夢から目を覚ました。


「おまえが悪いんだ」


 ビグズの言葉、それは、親友ブルラーグに向けて放たれたものだった。




 小屋に閉じこめられた翌朝、坂棟たちに食事が用意された。

 やや濁ったスープの中に、よくわからない具がわずかに入ったものだった。

 一品のみであり、量も少ない。


 坂棟とラグルーグの二人だけが食した。


「まずい」というのが、坂棟の感想である。


 残り三人のスープは、ラグルーグが食べることになった。

 坂棟の従者たちが遠慮したわけではない。

 彼らは食べる必要がなく、また、食欲をそそる品ではなかったので、ラグルーグにゆずることにしたのだ。

 ゆずるというよりは、処分をさせた、という形だろう。


「ブルラーグという男はどうやら行方不明らしいですね。というよりも、すでに死亡扱いになっています。現在、この集落では二つの争点があり、一つは長の後継者を誰にするのか、もう一つはビラに戦をしかけるかどうか、です」


「ブルラーグが死んだ……?」


 ラグルーグが口をぽかんと開けた。


「ブルラーグはどうやら魔族討伐に一人で挑んだようですが、成功したにせよ、失敗したにせよ、未だ姿を現さないことから、死んだと判断されたようですね。捜索隊などが編成された様子はありません」


 ラトは、坂棟に向けて報告する。


「戦については、賛成派と反対派の二つの勢力があり、反対派の代表者がブルラーグ、そして、もう一方が、昨日大声をあげていたジャグという者のようです」


「あの大きなやつか?」坂棟が口を開いた。


「はい」


「トップはたいして、力を持っていないのか?」


「おそらく」


「ビラ(北のセリアンスロープ)は?」


「もうしばらく、時間をいただきたいと」


「ま、そうだろうな。短時間でよくこれだけわかったな」


 感嘆しながら、坂棟は美貌の従者を見る。


 月夜の海を思わせる青みがかった長い髪も、黒を基調した制服も洗った様子はないのに、汚れ一つなく、綺麗なものだ。


 昨日と同じように、今も姿勢ただしく正座をしている。

 この世界に正座という文化があるのだろうか、と坂棟は疑問を抱いた。


 一方で、彼の脳は情報を整理し、疑問を抽出し、盤上に駒を配置している。


「昨夜、様々な場所でべらべらと喋っておりましたので。彼らは口だけは達者なようです」


「そうか……で、皆は当然、あのうっとうしい気配に気がついているんだな」


 坂棟が顔をしかめた。


「もちろんです。お館様が最後です」


 うれしそうに、ハルが言う。

 いつ言われるのかを楽しみに待っていたのか、即座の反応だった。

 残り二人の従者の反応は、それぞれラトは微笑み、セイは小さく頷く、というものである。


「俺はともかく、ここのやつらはわかっているのか?」


「戦の準備はしているようですよ」


 意地悪くラトが笑う。

 彼は、セリアンスロープたちの準備が魔族に対してそなえたものではないということが、わかっているのだ。


「それは彼らにとって、いいように作用するのかな?」


「彼ら次第でしょう」


「三人には、ちょっと動いてもらうかもしれない」


 坂棟が考えていることは、いたって単純だ。


 セリアンスロープたちの間で、何があったのかを解明する。

 といっても、彼は警察ではなく、また当事者でもなかったので、自分が納得できればそれで良い、というスタンスである。


 さらに細かくラトから話を聞くことによって、坂棟は状況をほぼ把握した。

 未だ、情報に欠落があり、確認すべき事項はいくつかあるが、質問するべき対象には、当たりがついており、先は見えている。

 坂棟とセリアンスロープのつきあいは、それで終わるはずであった。


 しかし、ここに来て、新たな問題が生じた。

 魔族の出現である。


 魔族にセリアンスロープがどう対処するかで、坂棟は、セリアンスロープとどうつきあっていくかを決めるつもりでいる。

 彼らが魔族に対応できない弱者であるなら、保護するべきだろう、と彼は考えていた。

 これは、普通の人間の発想ではない。

 だが、彼にとっては自然な考え方なのだ。

 できるからやる、という程度のことに過ぎない。

 彼の内には強者が弱者を保護する義務感のような物があった。導き手となるという傲慢な思想が彼にはあるのだ。

 弱者が一方的になぶられる姿を、坂棟は許さない。


 セリアンスロープに対する考えは、二人の竜王の方がはっきりとしていただろう。

 彼らは、セリアンスロープを利用しようという考えを持っている。

 坂棟に対して、セリアンスロープの上に立つことを求めているような節があった。

 坂棟も、従者の見えざる要求を感じている。


 一〇〇〇人規模の人間を統治することなど、経験のない者にはできるはずがない。

 そんな非現実的な思考など、夢物語として考えること自体を恥ずかしく思うのが、常人の精神構造である。

 だが、坂棟は恥ずかしく思うことはないし、自分にできるのだろうか、という心配すらまったくしなかった。

 そういった発想自体、彼にはない。

 彼にあるのは、するかしないかの判断だけである。

 強烈すぎる自信過剰の土台が、彼の思考の基本に、当たり前のように根を張っていた。


 坂棟は、まだ決断を下していない。


 坂棟は、脳内でいくつかの駒を進め、先を読んだ。

 動く時には、いっきに終わらせる。

 それが彼のやり方である。





「捕らえたビラの者が、我らのことを裏切者と言っていたようだが」


 好戦的な空気が支配する会議の場で、長であるズイラーグが発言した。


「裏切ったのは、あいつらが先だ。そうだろう、ビグズ」


 大声で、ジャグが言う。


「裏切りかどうかなど、私は知りません、ただ、妹があいつらに殺されたことだけは間違いありません」


 ビグズの言葉に、長が沈黙した。

 彼の妹の死は、表向き事故であったとされている。


 だがビグズはその見解に納得しなかった。

 だから、二年前に独自に動いた。

 ビグズは、ジャグなどの協力のもとに死体を調べた。

 すると足をすべらせただけではつかない傷が、妹の身体にあるのを発見した。


 致命傷となったのは、崖に落ちた際にできたものかもしれない。

 だが、崖に落ちたという理由では説明のつかない傷が、妹には、はっきりと残されていたのだ。


「ブルラーグは、なぜ調べなかったんだ? あの者なら、事故でないとわからないはずがないだろうに……」


 ぽつりと言った老人の言葉は、雷に打たれたような衝撃をビグズにもたらした。


 なぜ、よく調べなかったのか?

 調べた先に、不都合なものが待っているとわかったからか?

 不都合とは、誰にとってのものなのだ?

 何を、誰を守ったのだ?


 ――あの時から、すべてが変わった。


「ビグズ、ビグズ! 何をほうけている。おまえはどう思うんだ?」


「私は、戦うべきだと思います」


 ビグズは、ブルラーグを思いださせる理知的な長の目を、しっかりと見据えた。

 場には熱気がこもっている。

 ビグズの妹がビラの人間に殺された、という噂は、この場にいる者なら一度は耳にしたことがあるはずだ。

 それを兄であるビグズが、ビラによる殺人だったと初めて断言した。


 食糧難の解消と、敵討ちという大義名分。

 戦意は膨れあがる。


 長一人で抑えることなど、とうてい不可能な状況ができあがっていた。

 長老の間では意見が割れていたが、言葉を発するのは戦を推進する者たちだけだった。

 声を上げなければ、それは意見がないのと同じである。


「わかった――」長が口を開いた。


 ズワールの長は決定を下したのである。


 ズワール(南のセリアンスロープ)たちは、戦準備を始めた。

 同族であるビラを侵略するための戦準備である。


 剣先を向けるべき本当の敵を、彼らは未だに認識していなかった。

 そして、内に捕らえた者たちが、いったいどれほどの力を有しているのかも、わかっていなかった。









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