11 セリアンスロープの一方的な戦い
まっさきに異様な気配を察したのは、戦の準備をしていたセリアンスロープの戦士たちである。
だが、気がついたのは彼らだけではなかった。
遅れて、老若男女問わずズワールの全員が、おそろしい何かが森の中で蠢いているのを感じた。
すべてのセリアンスロープが動きをとめる。
ズワールに意図せぬ静寂が訪れた。
無意識の領域において、緊張の水は緩やかに器を満たしていく。
遠くから音が聞こえてきた。
それはすぐに明瞭な音に変わった。
木々が倒れる音。
破壊される音。
破裂する音。
破砕する音。
音は、まっすぐにズワールに近づいてきていた。
緊張の水は器を満たす。
表面張力は破れ、ついに、器から緊張の水がいっきに溢れだした。
精神の混乱は、肉体の硬直をセリアンスロープ全員にもたらした。
そして、それは現れた。
最初に目撃したのは、セリアンスロープの老人であった。
黒い巨大なモノは、直径五メートルほどの球状の黒い物体で、全身を長い毛におおわれている。
毛の中から、おそらく四メートル以上ある腕――それは、ヒューマンの腕のような肌色をした、つるつると毛のない腕だった――が幾本も伸び、周囲にあるものを辺りかまわずつかみとっていた。
腕が何かをつかみ、毛の中にそれを収納しようとすると、黒い毛並が割れて、突然、ぱっくりと開いた口が現れた。
鋭い犬歯と大きな臼歯が、口からのぞく。
何であろうとかまわずに、犬歯が獲物を鋭利に切り刻み、上下の臼歯がごりごりとこすりあわせて咀嚼する。
ごくりと呑みこむと、まだまだ足りないと言いたげに、よだれをだらりと口からたれさせて、隠れるように毛の中に埋まった。
腕や口はいくつもあった。
地面と接している部分には、どうも恒常的に口が生えているらしく、それが通った後には、平面な地面はなく削られた跡のみが残っている。
地面にまで、この貪欲な魔族は、むしゃむしゃとかぶりついているのだ。
セリアンスロープの老人は、何もできず、呆然としたまま黒く大きな球体を見あげていた。
このまま見あげている間に、彼の命は失われる――ことにはならなかった。
大柄な影が突然現れ、老人を腕に抱え、その場から離れる。
わずかに遅れて、振りまわされた大きな腕が地面を叩きつけた。
髙く粉塵があがる。
粉塵から引き戻された魔族の手は、空気をつかんだだけであった。
ジャグが動けなかったのは、五秒ほどである。
その間セリアンスロープの誰もが、何の音も発しなかった。
ズワールを支配しているのは静寂ではなく、破壊の暴音であった。
黒い球体の暴れまわる音だけが、ズワールにこだましていたのである。
「準備ができた者から、俺につづけ! あの化け物を倒す」ジャグが怒鳴る。「ビグズ、おまえは戦士ではない者たちを逃せ。そこらにいるやつを何人か使え」
「――わかった」
ジャグは駆けだした。
三〇人ほどが反応し、彼の背中をすぐに追った。
ビグズもすぐに動きだした。
遠くに視認できる大きな黒い球体――あれは、魔族だ。
それも普通ではなく、強力な魔族だろう。
ビグズは思考をきりかえる。
とにかく今は、皆を逃すことを考えるべきだ。
彼は動きだした。
だが、その場にはまだまだ動揺のおさまらない、多くのセリアンスロープの戦士たちがいる。
「何をしている」
ジャグほどに大きな声ではないが、ジャグ以上に重みのある声が、その場に響いた。
「我々が戦わなければ、無力な子供や力のない老人たちが、あの魔族に殺されるだけだ。我々は、剣である。さあ、咆えよ!」
ズワールの長――ズイラーグは高々と雄叫びをあげた。
彼の後に一人の若きセリアンスロープが続き、そして、その場にいる戦士全員が咆えた。
長に先導されたセリアンスロープの戦士たちは、魔族に向かって進軍を開始する。
――グルァアアアア!
ジャグは叫ぶ。
頬をかすめるように、魔族の巨大な腕がうなりをあげて横ぎっていた。
首をずらしていなければ、彼の命はすでに尽きていたことだろう。
踏みこみ、魔族との距離をなくして、ジャグは大剣を振り下ろす。
魔族の黒い毛が飛散した。
だがジャグに手応えはない。
毛のみを切りとり、本体にまで届いていないのだ。
ジャグは素早く後ろに跳んだ。
続けて、ガキンという硬い何かがかちあった音がした。
魔族の口が飛び出て、歯が重なりあったために生じたものだった。
すぐに口は、黒い毛の中に消える。
ジャグは、さらに距離をとって家の屋根に着地した。
住居の並んでいた場所は、すでに廃墟と化している。
村の一部は、すでに荒地になっていた。
ジャグの率いていた戦士たちは、早くも半数が命を落としている。
まだ戦い始めてわずかな時間しかたっていないにもかかわらず、被害は大きくなるばかりだ。
魔族の巨大な腕に、セリアンスロープの戦士は抗う術もなく捕まれ、一度捕まれば逃げることはかなわず、口に運ばれ、喰いちぎられ、咀嚼され、呑みこまれる。
家屋は破壊され、畑は削られ、セリアンスロープは腕につかまれ、あるいは、はたき落とされ、最終的にすべてが魔族の口の中におさまった。
あちこちに、噛みちぎられたセリアンスロープの戦士たちの肉体の一部――腕や足、下半身、そして、首などが散乱していた。
魔族は自ら喰い千切ったために、地面に転がったセリアンスロープの身体の一部を、長い腕を伸ばして拾いあげ、また食す。
丸呑みは絶対にしない。
一度噛千切った。
食を楽しんでいるのだ。
――あの魔族を力を合わせて滅ぼすべきだ。そうしないと、僕たちは滅びるかもしれない。
次代の長を争った男の言葉が、ジャグの脳裏を駆けぬけた。
――ただ一体の魔族が、これほど広範囲に渡って森に影響を与えるなんて、おかしい。ジャグ、君にもわかっているだろう?
「ジャグ、どうだ」
突然声をかけられ、ジャグはわずかにみじろぎした。
「……どうもこうもない」
ジャグの隣にいるのは、次の長を争った男の父であり、現在のズワールの長であるズイラーグだった。
「なるほど――」ズイラーグはわずかに目を細めた。「全員距離をとれ! 遠距離から弓で攻撃をしろ!」
ズイラーグが指示を飛ばす。
さらに彼は火を用意するように命じた。
長い毛におおわれている魔族の外観から、火に弱いのではないか、との推測を働かせたのである。
「ジャグ、どこへ行く」
「弓だけで、動きをとめられるはずがない。俺が奴を何とかくいとめる」
一歩踏みだした姿勢で止まり、ジャグは答えた。
「死ぬなよ。魔族を倒した後も、まだ戦いはある」
「魔族を倒さなければ、後はない」
言い放ち、ジャグは振り返ることなく、そのまま魔族へと突撃した。
ズイラーグは若者の背を見送る。
彼の両眼には、感情の波がかすかに揺れていたが、それ以上外に何かを表すことはなかった。
魔族は強すぎた。
報告にあった魔族の様子とは違いすぎる。
短期間で、急成長を遂げたのだろうか。
魔族に対する息子の行動は正しかったのだ。
だからこそ、強すぎる魔族に敗れ、ブルラーグは亡くなったに違いない。
過去の自らの判断を問う時間は、長であるズイラーグには許されなかった。
「早く、火を用意するんだ」
ズイラーグは急がせる。
魔族に火がきかなければ、逃げるしかないだろう。
その時彼は、決断しなければならない。
誰に未来を与え、誰の未来を奪うのかを。
全員が魔族から逃れることは、不可能である。
途切れることのない、セリアンスロープの悲鳴が不協和音を奏でている。
眼前で繰りひろげられる一方的な殺戮に、ズイラーグは拳をきつく握りしめた。




