48 強い者が勝つ
ウードル3世がモーリス城の陥落を知ったのは、孫であるジルドを軟禁した翌朝のことだった。
この情報は意外なところからもたらされた。彼のもう一人の孫であるマリーが情報源だったのだ。
彼女の元にいる異界者の若者が実際に目撃した情報で、確実性は高いようだった。調べると、イーゴルからの早馬はとうに来ており、その情報を握り潰したのはジルドであった。
「あの馬鹿者が」
ウードル3世は、孫に対する嘆きを止めることができなかった。
北方で魔族の大群が出現したことは間違いない。
ウードル3世が、現在すぐに動かせる戦力は三〇〇〇ほどしかなかった。そして、この兵力は南東への行軍が決定していた。
いずれ現れるであろうパルロ軍に対処するためである。
現在さらに兵を結集させているが、最大でも一万。貴族軍が二万五〇〇〇というところだろう。合わせて三万五〇〇〇である。
だが、貴族軍に関しては一万も集まれば良い方と考えるべきだ。彼らの忠誠をボルポロス公は期待していなかった。
パルロが本気になれば、数十万の兵力を数えることになるだろう。
相手にはならないが、白旗を片手に交渉するわけにはいかないのだ。戦いの意思だけは示し続けなければならない。
一人でも兵士が欲しいという時に魔族の襲来である。
大量の魔族の発生となれば公国だけの問題ではない。パルロ国も帝国も無視しできない問題である。
だが、これを交渉に利用すると、大手を振って両軍が公国内を通ることを認めざるを得なくなる。
現状では避けたい選択肢だ。
ウードル3世は、魔族の対処を北部の貴族たちに通達を送ることで、とりあえずの凌ぎとすることにした。
ボルポロス公はモーリス城での魔族の襲来について、実際の半分ほども理解していなかったので、このような対応となったのだ。
マリーからの報告はあまりに大げさな物として割り引かれ、兵士たちの報告こそを信じたのである。
一般人と兵士ならば、兵士の言葉を取るのは当然の選択だ。
ただし、兵士の情報は最新のものではなく、マリーからの報告は最新のものであった。情報の差異は、時間のずれによって生じたものだったのだが、そこにウードル3世の意識が向くことはなかった。
パルロ国と帝国への対処で、老人の頭は占められていたのである。
彼が自分の思い違いを知ることになるのは翌朝のことだ。
戦場の臭いを色濃く纏わせた早馬が宮廷を訪れた。
報告は想像を絶する内容だった。容易に信じがたいものであったが、兵士の目を見れば嘘がない事は明らかだ。
「相わかった、報告ご苦労である。魔族を撃退したモーリス城の英雄たちには、後日改めて報いよう」
ウードル3世は兵士に休息を命じた。
魔族に対する調査や新たな砦の建造は、それこそ後日のことになる。
魔族への懸案をのぞいたことで、ウードル3世はパルロ国王を交渉の場に引きずりだす方法の思案と、兵士を結集させることに全力を尽くした。
もちろん、容易なことではない。
ウードル3世へ幸運をもたらしたのは、わずかな兵を供として夕方に宮廷に参上したイーゴル団長であった。
魔族の被害と撃退、さらにセリアンスロープの叛乱に関する報告を受けた。
ウードル3世はイーゴルと団員の労をねぎらった。
だが言葉にしたのはそれだけで、報告に関して特に詳しい説明を求めたりはせず、感想を言うこともなかった。イーゴル団長の顔に失望の翳りが現れたことに気づくこともない。
その後、ウードル3世はある人物をイーゴルによって紹介された。
その男によってなされた提案はあまりに馬鹿馬鹿しいものだった。まったく現実味がない。
「イーゴル、おまえはこの者が言っていることが可能だと思っているのか?」
「この男が、私などとうてい及ばない武勇の持ち主であることは保証します」
イーゴルの目は真剣そのものだ。だが一方で、どこか投げやりの感がある。
ウードル3世はイーゴルの変化をいぶかしんだ。
「そんな大げさに考えるほどのことではありません。ただの模擬戦です。失礼ながら、公国の立場はすでに落ちるところまで落ちているのでしょう? たとえ失敗したところで、一人の兵士が行った行動など、すでに失点の内に入りません」
ミルフディートを訪れたばかりの男が、なぜ状況を理解しているのかが、ウードル3世は気にかかった。
だが質問することなく、自分の中で解決する。誰かがイーゴルに説明したことを傍で聞いていたのだろう、と。
「成功したとして、望みは何だ?」
「そうですね。まず、モーリス城一帯を頂きましょう。私が魔族の盾になります」
「大言を吐く。領地をもらうということは、貴族に取りたてよと言っておるのか?」
「いいえ、傭兵団として雇ってもらえれば良いです」
「まず、と言ったな。他にもあるのだな?」
「はい。傭兵団にも家族はいます。彼らの中には物を作れる者もいて、商売をさせてほしいのです」
「関税をかけるなと言いたいのか?」
「大筋として、私の望みは言ったとおりです。細かい条件については、別の者を派遣します」
「貴様、何者だ?」
「ボルポロス公国の滅びを望まない者です」
ウードル3世は目の前の怪しい男をじっと観察した。
魔族退治で大きな功をあげた、新人冒険者坂棟克臣である。
信頼すべき理由があるとすれば、イーゴルの保証のみだ。
「それで、その仮面にはどんな意味があるのだ?」
「パルロ国の兵士は、この仮面が好きなんですよ」
黒髪黒目の男は、白い仮面をしていた。
イーゴルの強い後押しもあり、ウードル3世は坂棟の行動に許可を与えた。ただし、あくまでも非公式の扱いであった。
こうして、ウルド3世と坂棟の間に密約は交わされたのだ。
この時、ボルポロス公は坂棟の力をたいして信じていなかったので、契約の履行を本気で考えてはいなかった。
いくら藁にもすがる思いであったとはいえ、いささか分別が足りなかったことを彼は後悔する。
そして、後悔の念は、弱みに付け込んだ坂棟という男に対して、負の思いを抱かせることになるのだ。
すでに、パルロ軍とボルポロス公国軍は二日間対峙していた。
帝国の軍勢も公国に向かって進軍しているという情報もある。
状況は風雲急を告げようとしている。
パルロ軍は六〇〇〇。
対する公国軍は三〇〇〇強というところだ。
公国軍は、国境近くの砦の兵をいくらか吸収しているのかもしれない。それでも、砦を留守にするわけにはいかないので、増加した兵数など高が知れていた。
八将とその副官であるオリーは、馬上から公国軍を観察している。
「よく頑張っていますね」
「頑張る? ただ立っているだけでしょう」
八将ユリア・ヴァン・ルーラスの声には不満がある。敵軍を前に戦えない赤毛の女は、獲物を目の前にして無理やり抑えつけられている猛獣同然であった。
好戦的な上官をなだめるように、オリーは提案した。
「では、戯れに一騎打ちでも所望してきましょうか?」
「私と一騎打ちをやろうという者が公国にいるのかしら?」
美貌の将軍は、腕を組み目を細める。
「それは公国にかぎらず無理というものでしょう」
「じゃあ、駄目じゃないの」
「不束ながら、私が参りましょう」
「あなた程度の実力なら公国にもいるということ?」
「さあ、自分ではけっこう強いつもりなんですけどね。他国に私の力がどう評価されているのかはわかりません。少なくとも八将のように名は鳴り響いていないと思いますよ」
――だからこそ、試してみたいんです。
オリーは上官に笑顔を向けた。
美貌の将軍は、やや顔をしかめて気持ち悪そうにしている。
他の女性には効力を発揮する彼の笑顔も、燃えるような赤毛をしたユリアには、まったく効果がなかった。
急に兵士がざわめきだした。
衆目が集中している。原因は一目瞭然だった。
一機の騎馬が公国軍からさっそうと現れ、パルロ軍の近くまで来て止まった。
「我が名は坂棟克臣と言う。縁あって今は公国に身を寄せている。軍を率いる者に問う。いかなる理由を以て、パルロは公国との国境を侵さんとするのか! 我欲を以て武を振るうことを、私は認めない。天上の神々も決して許すことはないであろう」
黒髪で白い仮面をした男が、パルロの軍勢に臆することなく言葉を解き放った。
兵士たちが男の言葉に動揺することはなかったが、明らかに八将とその副官に対して意識を集中していた。言われたままで良いのか、言い返せ、ということだ。
「何やら好き勝手言っておりますな」
「つまり、あれは何がしたいのかしら?」
ユリアが胸へと流れる赤毛を払う。
坂棟の口上は続いていた。
「自らの行動に恥ずべきところがないのなら、剣を以て正義を証明せよ」
仮面の男は、抜き放った剣を八将とその副官へと突きつけた。
「一騎打ちがご所望らしいですね」
「あら、じゃあ、私が行きましょうか」
「いえ、大将の前にまずは副将が力を試させてもらいましょう。力のない者をあなたと戦わせるわけにはいきませんよ」
オリーは馬を進めた。
パルロ兵士が道を開ける。
八将の副官は兵士から歓声を受けながら、仮面の男の前まで馬を走らせた。
「この場を任されている八将は女性と聞いたが、見たところとても女性には見えないが」
「そりゃ、見えないだろうね、俺は男だから。それより、その仮面を取ってくれないかな。君の素顔は、パルロ国でもそれなりに興味の対象となっているんだ」
仮面の男は、オリーを無視してパルロ軍を見ている。
坂棟克臣と言う名と、白い仮面。
この二つの符号に、オリーは覚えがあった。
南部の叛乱で活躍した叛乱軍の武将である。オーダルオン城塞をわずかな手勢で攻略し、戦場では八将と互角に戦った、知勇兼備の将などという噂がまことしやかに囁かれている。
実際に、要注意人物であるとして、公式の経路で情報も入ってきていた
「八将がいながら、その部下が出てくるのか? どうやら八将と言うのは実力無く名乗れるものらしい。八将ただ一人の女性であるルーラス卿は、いかなる業を以てその地位についたのか。真に興味深い」
坂棟が声を張り上げて言う。
わかりやすい挑発である。
この手の挑発に乗るようでは、将軍の地位などつけるはずがない。だが、オリーの上官は性別の揶揄に対して、非常に防御力が低かった。
背後で怒気が膨らむのをオリーは感じた。
「君の狙いは八将のようだが、その前に私の相手をしてもらおうか。私は八将ルーラスの副官オリー。これでも、パルロ国ではそこそこ名の売れた男なんだ」
右手に剣を持つと、オリーは馬を走らせた。
仮面の男は、かまえることなく無造作に剣を持っているだけだ。手綱さえも握っていない。
よほど自信があるらしかった。
噂が事実であるとするなら、その自信もわからないでもない。
となると、オリーとしてはまともに戦うのは危険ということになる。
オリーは坂棟に剣を突きつけると見せかけて、馬の目を狙った。
まさに剣が突き刺さろうとした時、馬の首が横に触れる。坂棟の手が馬の首に触れていた。彼の仕業のようだ。
このまま一度すれ違うべきだ。
オリーは剣をそのままに馬を走らせようとしたが、彼の腕が下からの力で大きくは弾かれた。
奇妙な言い方だが、重い鈍器を下から思いきり振り下ろされたかのような衝撃だった。
剣が弾かれオリーは体勢を崩す。間髪を容れず、右脇腹に衝撃が走った。
オリーは落馬し、もんどりうって倒れる。危険な倒れ方であったが、彼は意識を手放してはいない。
追撃をおそれ、すぐに立ちあがった。
ふらつきながらも、彼は視線を投じる。視線の先にいた仮面の男は、すでにオリーを見ていなかった。
坂棟の視線はまっすぐパルロ軍に投げられている。その先にいるのは、燃えるような赤毛を持った女性である。
静まり返った兵士たちを割って、赤い髪をした美貌の女性が前へと出てきた。
オリーは出てきてはならないと声を上げたかったが、口から出たのは血のみである。内臓をやられたのかもしれない。
どうやら斬られたのではなく、剣の腹で叩きつけられたようだと彼は今になって悟った。
「八将になるために必要な物を、貴殿に教えてしんぜよう」
八将ユリア・ヴァン・ルーラスが、常にない丁寧な口調で仮面の男に言葉をかけた。
「八将と剣を交えられること、光栄の至り」
「よくそんな嘘を言えたものね。その仮面をはぎとって、表情をとくと拝まさせてもらうわ」
両雄が剣戟をぶつからせる。
剣圧が空気を弾いた。
オリーには、この戦いの結末がわかっていた。
坂棟との攻防は一瞬であったが、実力を知るにはそれで充分だった。
次元が違う。
オリーはユリアに遠く及ばない。だが、防御に徹すればいくらかの時間を粘ることはできたし、隙をつけば傷をつけることも可能だった。
だが、坂棟に対してはいずれも期待できないだろう。
技術の問題ではないように、彼には思えた。存在が異なる。
戦いは一瞬で終わる――オリーはそう予測した。そして、強力な指揮官の敗北を目にした兵士たちは総崩れを起こすことだろう。
あまりに強すぎるが故に、八将の敗北は、一人の敗北で終わらず全体の敗北を引き起こしてしまうのだ。
パルロ軍は一敗地にまみれることになる。
もちろん、王が敗北したわけではないのでパルロ軍が再起不能を起こすことはない。それでも、パルロ軍が小国ボルポロス公国に敗北するなどあってはならない未来であった。
オリーの予測は違える。
彼は上官がすぐに敗れると考えたが、戦いはなかなか終わることなく、二人は数え切れないほど剣を重ねた。
人知を超えた速度を、兵士たちは認識できていないだろう。彼らがわかるのは、戦場を走る風圧が、剣の威力によってもたらされたものであることだけだ。
戦場で竜巻が激突している。兵士たちはそう思っているのかもしれない。
オリーは、戦いを見る資格をかろうじて有していた。
――どちらの力量を見誤った?
ユリアは彼が思う以上に化け物であったということだろうか。
オリーは二人の戦いを最も近い特等席で見続ける。
その時、坂棟が何の脈絡もなく体勢をわずかに崩した。
隙とも言えないような小さな隙である。誰も気づくことのできないものかもしれない。気がついても隙として攻撃を加えることはできないだろう。
だが、八将にとってそれは間違いなく隙であった。
ユリアの放った斬撃は、数十合を交わしてなお、これまでで最も鋭く速い一撃だった。
ついに坂棟を捉えたと思われた斬撃は、だが弾かれた。
見えない壁があるかのように、ユリアの剣が急にそれたのだ。
これが、ユリアに与えられた勝利への唯一の機会であった。彼女はそれを逃したのである。
結局二人の戦いは互角のままに終わり、両者は両陣営へと引き返した。
両軍の兵士には一騎打ちは引き分けに見えたことだろう。
戦いの後、坂棟は息切れ一つしていなかった。
八将ユリアは肩を大きく上下させており、特徴的な赤い髪も乱していた。
「あの男、絶対に許さない――」
ユリアが吐き捨てた。
手加減をされたという事実は、剣を交わした本人が何よりわかっていたのだ。
八将が手玉に取られたのである。
この事実を認識した時、オリーは坂棟克臣に大きな恐怖を抱いた。あの男を敵として、これから戦わなければならないのかもしれないのだ。
悔しさをのぞかせる上官の細い背中を彼は見送った。
あの化け物に対して悔しさを覚えることができる人間がいるということに、彼は希望を抱いた。同時に、あれに戦意を持つ八将もまた、化け物なのだという思いも抱いたのだった。
この後、両軍が動くことはなかった。
四日後、パルロ軍は退くことが決定する。
帝国もボルポロス公国との国境から軍を退いた。
パルロ国とボルポロス公国、そしてアルガイゼム帝国を交えて交渉の場がもたれることになったのだ。




