父と子
子が玄関で靴を脱いでいたら階段を駆け降りるドタドタした音が鳴った。
「秋刀斗! 父さんがいい童話を聞かせてやろう!」
学校から帰っていきなりなんだ、とちょっと引いてしまった子だったが、父の楽しそうな顔を見て笑った。「どんな話? ていうかお母さんは?」
いつもは母が迎えてくれるのに今日は父が来たということにも子は不自然を感じていた。
「母さんは今出かけてるよ。じきに帰ってくるさ。まあ、上がれ。手を洗って、うがいをして、それから父さんの部屋に来い。聞かせてやる」
子は素直に「うん!」と元気に返事した。
子は洗面台で石鹸をふわふわに泡立たせて爪の先から手首まで洗い、十秒間うがいをし、ぺっと水を吐いてダッシュで階段を駆け上り、突き当たりの父の部屋のドアを勢いよく開けた。
すると父は驚き、座っていたのにこけた。
子はそれを見て大笑いした。
それにつられて父も腰をさすりながら笑っていた。
しばらく笑いあった後、「そろそろ本題に入るか!」と父が机の上のノートの一ページを切り取ったみたいな一枚の紙を手に取った。
さっきから視界には入っていたけど、本とかじゃなくて、それ? 口にはしなかったけど子は真顔になった。
「面白い話だぞ!」その子の顔を見て父は咄嗟にそんなことを言ってしまったが、そんなに高いハードルを越える自信は正直なかった。焦るにももう遅い。
子はそのハードルに期待して澄んだ目で父を見つめて座っていたのだ。
父は一回深呼吸をして「よし」と気合を入れた。「これは『仮面の三つ人』という童話なんだ」
「カメンノミツビト?」子は首を傾げた。
「ああ」父は子の可愛らしい棒読みににやけた。「仮面って分かるか? お面のことだ。三つ人ってのは三人の人ってことだ」
そう言われると子にも意味が分かった。
「じゃあ『仮面の三つ人』の始まり始まりー!」
子は澄んだ目で父を見つめた。
父は照れるように紙に目を向けた。
――三人の男がいました。
――その男たちはみんな違う性格でした。
――一人は乱暴で力の強い大柄な男。
――一人は引っ込み思案だけど豊富な知識を持つやさしい男。
――一人は冷静で広い考え方ができる男。
――しかし一つだけ共通点がありました。それは自己中心的なところです。
「ジコチュウシンテキ?」子は首を傾げた。
「うーん」父は説明に戸惑った。
さんざん考えた末、「わがままってこと」と父は答えた。
――そして三人はある日とある森に迷いました。
「え? 何の急展開?」子は拍子抜けした。
確かに起承転結の欠片もない。
「まあ、いいじゃないか」父は顔を赤らめた。
――そこには自分たち以外の存在が感じられません。
――三人は暗い洞窟を見つけました。
「また急だね」
「ああ、そうだな……」
――森に入ったことでパニックになっていた二人は争いました。
――冷静な一人は人の悪の心を見るのを楽しもうとしましたが、
「その人、性格悪いんだね」
「……」父は複雑な気分になった。
自分が子になってほしい位置を子自身が否定したのだから。
でも父は開き直った。
性格の悪いところは物語を面白くする要素だからどうでもいいんだ、と。
――自らの善の心がそれを止めました。
――三人は覚悟を決めました。
――三人は何度もぶつかりあいながら助け合いを覚えました。
――三人は初めて力をひとつにしました。
――三人はその洞窟に入り、出ました。
――そこは森の入口でした。
――そこにはひとつの看板がありました。
――そこにはこう書かれていました。
――「勇気と力の森」
「お・し・まい」
父がそう言ってその紙を机に置くと子は口を開けたまま唖然と驚いた。
終わったの?
「全体を通して意味が分からないよ」いろんな感情を一言にまとめた言葉だった。
すると父は優しい笑みを浮かべ、大きな手を子の小さな頭に乗せ、ごしごしした。
「いいか? 今は分からなくていい。でもいつか分かるはずだ。それがどんな形で分かるのかは誰にも分からない。なんて言ったってこの話は完全じゃないんだ。色んなところを省いて抽象的な話にしている。そこを埋めるのは秋刀斗、お前の人生だ。その中で経験したこと、思ったことがそこを自由に埋めてくれるよ。それまで強く生きてくれ」そこでひとつ間を置いて父は低い声で慎重に続けた。「俺はいつかお前の前からいなくなるだろう」
「え? お父さん死んじゃうの?」
父は子の無邪気な疑問を耳にして、笑った。「死ぬとまでは言ってないけどな」
「よかった」子は無邪気に胸を撫で下ろす。
「でも、いつか俺はお前の前からいなくなるだろう。お前からどこかに行くか、時期を見計らって俺からどこかに行くかは分からない。でもな、お前ならひとりでもやっていける。そんな強い人間になってくれ。時には誰かを知らず知らずの内に傷付けたり、できればそうして欲しくはないけど意識して傷つけることもあるだろう。そして誰かを助けることもあるだろうし、もしかしたら暴君に立ち向かうことだってあるかもしれない」父は顔に付いた傷に指を差した。
「ボウクン?」
「その意味が分かるまでは、生きてろよ。強く、生きるんだ。たくさんの人に騙されて、もう生きるのが嫌だと感じることだってあるかもしれない」
父の話す言葉ひとつひとつが子には突拍子もないことに思えたが、不思議な説得力があるようで一言一句全てが胸の奥まで届いてた。
「誰かに必要とされるように、強く生きるんだ。生きてくれ。それが、俺の願いだ」
「……うん!」
「お前の前から俺がいなくなったとしても俺はずっと、お前を見守ってるからな。そして、お前が逞しく成長する姿を俺に見せてくれ」
すると、「ただいまー」と母の声が聞こえた。
「お母さんだ!」
「迎えに行ってきな」父は子の頭の手をどかして言った。
「うん!」
子は笑顔で走って部屋を出て階段を下りて行った。
明日みんなに『仮面の三つ人』を話してみよう、と未来の希望を見つめて。
「おかえりお母さん!」その元気な声と階段を駆ける音は家中に響いたまま消えようとしなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この話のあとがきなどは『人間観察家』シリーズを終えてからまとめて書かせていただきます。
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