1,アンコール
――生い茂る豊かな緑と、色とりどりの花々。湧き出る澄んだ水にこれでもかと実る農作物。人々の間には笑顔がひしめき合い、和気藹々と舞い踊り、歌が聞こえ、幸せな日々を過ごす。そんな未来が遠くない、しかし未だ誰もそんなことは知らず。舞台上で一人の男と彼の楽団が、幾千もの観客から総立ちで拍手を送られる、そんなお話――。
◆ ◆ ◆
拍手が、まだ耳に残っている。
万雷、という言葉がこれほどしっくりくる瞬間を、私は生涯で何度経験できただろうか。
大学を卒業してから50年近くの指揮者人生の中で、私は数えきれないステージに立ってきた。若い頃は無名の楽団を率いて場末のホールを転々とし、罵声にも似た酷評を浴びたこともある。だが、そこで諦めなかった。譜面の奥にある作曲家の意図を、一音一音掘り起こすように読み解き、団員たちと何十時間もかけて音を作り上げていく作業を、私は誰よりも愛していた。
やがて国内外問わず、ありとあらゆる指揮者コンクールに出た私は幸運にも結果を残し、段々と名の知れた楽団を任されるようになった。世界中のホールからも声がかかるようになった。それでも私は、最後まで「完璧な合奏」という理想を追い続けた。個々の技術がどれだけ高くても、それだけでは足りない。呼吸を、間を、感情の機微を、寸分違わず束ね上げたときにだけ生まれるあの空間――それを私は生涯かけて追い求めていた。
そして今夜、たった今。長年連れ添ったオーケストラとの最終公演を終えたばかりだった。
世界屈指の名門コンサートホール。最後の一音が空気に溶けて消えた後の、あの数秒間の静寂。それから弾けるように広がっていく拍手の波。オーケストラの面々が立ち上がり、客席のあちこちから歓声が上がる。
最高の演奏だった。会心の出来と言っても過言ではない。万感の思いでコンサートマスターと握手を交わし、花束を受け取り、ようやく肩の荷が下りた。
私はその音の中で深く一礼し、袖に下がった。
だというのに、何故か胸の奥が妙に重かった。長年の無理が今日まで溜まりに溜まっていたのだろう。楽屋に戻る通路の途中、視界がふっと白く霞んで、体が言うことを聞かなくなった。膝から崩れ落ちる感覚を、私はどこか他人事のように眺めていた。
駆け寄ってくる誰かの声。遠ざかっていく意識。
――ああ、悪くない人生だった。音楽と共にあり、音楽で終わる人生。指揮者冥利に尽きるじゃないか。
そう思えたことだけが、せめてもの救いだったのかもしれない。
欲を言うならば、来世もまた、音楽と共にあらんことを。
◆ ◆ ◆
次に「意識」というものを自覚したとき、私は月明りの入る薄暗い部屋のベッドの上で膝を抱えていた。
最初は状況が何1つ飲み込めなかった。指の先が、やけに細い。声を出そうとすると、喉の奥から出てくるのは、聞き覚えのない幼い子供のかすれた声だった。
――どういうことだ。死後の世界……?いや、それにしては「輪郭」がはっきりしているな……。
しかし、混乱していたのは最初の数日だけだったように思う。人間というのは案外どんな状況にも慣れてしまう生き物らしい。私はすぐに、理解というよりは諦めに近い形でそれを受け入れた。どうやら私は「向こう」で死を迎え、そしてどこか見知らぬ場所に前世の知識を有した状態で、新しい体を得たらしい――と。
「なるほどなぁ。まぁいいか!せっかく若くなれたんだ。もう一度くらい、一からやってやろうじゃないか!」
誰に言うでもなく、私はそう呟いていた。声変わり前の頼りない声が、静かな部屋に小さく響いた。
しかし、折角若く生まれ直したのだ。前世では地位や名誉、立場に縛られて出来なかったあんなことやこんなことも……グヘヘ。
体だけでなく、心も若返ったのか……。後々判明したことは、齢70過ぎのおじいさんから16歳の青年【タクト】へと転生したということ。
どうやら元の体の持ち主は病弱で、まともな食生活を送ってこなかったこともありヒッソリと眠りながら突然死していたところに、魂だけが異界から召喚されて自分が入り込んだらしい。
そこら辺は感覚的なもので、前世の記憶とこのタクトの体の記憶が混在していた。
ただ、魂が強化されたことにより病弱体質は改善され、むしろ健康的……いや、若い血潮が溢れんばかりの超健康体へと変化していた。
――なぜそんなことに気が付いたかって?だって、ほら。前世だったら朝起きても、何も反応しなかったブツが……ねぇ。それは見事な反り返りを見せたんですから。
えぇ、ひとしきり喜びましたとも。
◆ ◆ ◆
育った場所は、お世辞にも恵まれた環境とは言えなかった。
貧民街の外れに建つ、小さな教会が営む慈善学校。親のない子供たちがそこに押し込まれ、最低限の読み書きと祈りの言葉だけを教わって、年頃になれば適当な奉公先へと放り出される。私もまた、そういう子供たちの一人だった。なお、同年代はほぼいない。年下の子どもたちばかりで、自分より上の子たちは既に奉公先へと出向いていた。次は自分の番のはずだが、中々奉公先が見つからず先送りにされていた。
この教会を一人で切り盛りしていたのが、老神父のセバスチャンだ。
年の頃は70に届くかどうか。腰は少し曲がり、白い髭を丁寧に整えている。声を荒げるところは一度も見たことがなかった。子供たちが悪さをしても頭ごなしに叱ることはなく、決まって同じ高さまで屈み込み、目を見てゆっくりと語りかける。それが彼のやり方だった。
「お腹は空いていないかね」「よく眠れたかい」「今日は何をして遊んだのかな」――そんな何気ない問いかけを、セバスチャンは毎日欠かさなかった。誰にも顧みられない子供たちにとって、その柔らかな眼差しがどれほどの意味を持っていたか、大人になってから振り返れば振り返るほど、私にはよく分かる。
◆ ◆ ◆
この世界について文献などから得た知識をもとに前世との比較をすると、まず大きな違いとして「魔法」の存在があるという事。お決まりのように科学的な発展は反比例し、ほぼ進んでいない。
ほとんどのことが魔法の存在によって賄われていた。
そして、私自身のアイデンティティとも言える音楽はというと……世界の根幹として機能する魔法の一部、という存在だった。前世では信じられないような、ある種のインフラ的存在。合奏をすることにより生まれる”共鳴”。そしてそれによって発動する音楽魔法は、一定のクオリティによって様々な効果を生む。それこそ、天候への干渉による農作物への影響、大地に対する豊穣の効果、人間の身体能力に対するバフ効果、疫病を退ける浄化作用等、キリがないらしい。
まぁ転生した先の生活においては、そのような音楽に触れる機会は無かったので、実際のところはいまだ未知の世界であるが。
いや――正確には、少しだけはあった。教会で毎週歌う讃美歌のようなもの。それと、礼拝堂の隅に置かれた、古いパイプオルガンのようなものが。ただ、本格的な聖歌隊がいるわけでもなく、このパイプオルガンもずいぶん長いこと調律されず、鍵盤の半分近くが沈んだまま上がってこない。ただの大きなガラクタとして扱われていたのだ。
俺は転生してから初めての礼拝の日にその存在に気付き触れた。
この体で楽器に触れた記憶は残っていなかったが、”覚えていた”。
体は何も知らないはずなのに、埃を払って鍵盤に触れた瞬間、頭の中で鳴っていた音楽と、指の動きが確かに繋がった。ぎこちなく、たどたどしく。それでも、繋がっていることだけは分かった。
前世の記憶。指揮者としての、50年近い歳月。
その全てが、この体の奥底に、まだ息づいていた。
いや、この時はっきりと目覚めたといってもいい。
◆ ◆ ◆
「――タクト、そのオルガンを触っていたのか?」
ある日、いつものように音の鳴らないオルガンに指を滑らせていたところ、後ろから声をかけてきたセバスチャン。私は少し身構えた。叱られるだろうか、と。だが彼の声には、咎める色はまるでなかった。
「すみません!勝手に……」
「いや、謝ることはない」
セバスチャンは私の隣にゆっくりと膝をつくと、鍵盤の1つを、確かめるように優しく押した。音は出ない。空気の抜けるような、乾いた音がするだけだった。
「このオルガンはな、私がここに来るずっと前から、こうして眠ったままなんだ。修理する金も、直せる職人もいない。……なあ、タクト」
私の名を、セバスチャンは慈しむように呼んだ。
「タクトは、これを直したいと思うかい?よく触っているだろう?」
「――自分で直せるかは、分かりません。……でも、やってみたいです。」
「そうか」
セバスチャンは、皺だらけの顔をふっと緩めた。
「なら、やってごらん。時間はたっぷりあるだろう。私にできることがあれば、いくらでも手伝おう」
それから丸2年、私は暇を見つけては礼拝堂でオルガンの内部と向き合い続けた。ふいごの革が裂けていること、空気の通り道の何箇所かが詰まっていること、鍵盤と音を繋ぐ機構の一部が朽ちていること。1つ1つを、拾った端材や、セバスチャンが「これしかないが」と申し訳なさそうに出してくれたわずかな予算で、少しずつ直していった。
◆ ◆ ◆
才能というものが、いつどんな形で顔を出すのか。私自身、正直なところ戸惑うことが何度もあった。
最初の兆候は、オルガンの修理そのものにあった。
前世で楽器の構造そのものに詳しかったわけではない。指揮者は演奏者ではあっても、楽器職人ではないからだ。だが、音を聴いた瞬間に「どこが、どうずれているか」が、手に取るように分かった。ふいごから漏れる空気の音の違和感、パイプの共鳴のわずかなズレ――前世で数えきれないほどのリハーサルを重ね、あらゆる楽器の音色を聴き分けてきた耳が、この体の中でもそのまま生きていたのだ。いや、むしろ強化されていた。
「随分と耳がいいんだなぁ……」
セバスチャンが感心したように言ったのは、私が「3番目のパイプの共鳴が半音低い」と指摘し、実際にその通りだったときのことだった。
もう1つの兆候は、教会の礼拝で使われる聖歌にあった。
慈善学校の子供たちは、日曜の礼拝で決まった聖歌を歌う。誰も彼もが同じ旋律をばらばらのテンポと音程で歌う中、私は自然と周囲の声の乱れを聞き分けていた。誰の声が遅れているか、誰の音程がわずかにズレているか。それを頭の中で「正しい形」に組み直すことが、まるで呼吸のように出来てしまう。
「タクト!お前が横で歌っていると、なんかわかんないけどみんなの声が揃うな!」
そう言ったのは、隣で歌っていた同じ学校の子だった。本人たちは気づいていないだろうが、私は無意識のうちに自分の声の抑揚とタイミングで、周囲を"誘導"していたのだと思う。前世で数えきれないほどの合唱団を指導してきた経験が、体に染みついていたのだろう。自身の声で、自然と指揮を執っていたのだ。まるで天使の歌声か、と錯覚するほどにまとめ上げられた時は、自分自身でもぞっとするほどの効果だった。
そして、2年の歳月を経て修理を終えたオルガンで、初めて前世のクラシック音楽を最後まで弾き通した朝。
私はそのまま、指を止めなかった。頭の中で、前世で何度も指揮してきた旋律を鳴らす。それをなぞるように、確かな意志を持って鍵盤の上で指を這わせ続けた。単なる旋律のなぞりではなく、強弱をつけ、間を作り、この小さな礼拝堂の残響までも計算に入れて。
夢中になって弾き終えたとき、礼拝堂の入り口にはセバスチャンが立っていた。やけにセバスチャンや教会内部が明るかった。
いつからそこにいたのか分からない。だが、その顔には、私が今まで見たことのない表情が浮かんでいた。驚きと、若干の畏怖、そしてそれを通り越した、静かな感動のようなもの。自分の体を何度か確認しているようなそぶりも見られる。
「……タクト。今のは、一体……お前は……」
「……頭の中でずっと鳴っていた音楽を……子供の頃から、ずっとなっていた音楽を、弾いてみました。変でしたか……?」
前世の記憶に関しては避け、なんとなくそう答えると、セバスチャンはしばらく黙り込んだ。それから優しく、しかし何かを噛みしめるような声で言った。
「そうか。……タクトには、既に何かが聞こえているのかもしれないな……もしくは……」
◆ ◆ ◆
それからしばらく経ったある日、セバスチャンは王都に用があって出かけた帰り、一枚の紙切れを持ち帰ってきた。
「タクト、これを見てごらん」
差し出されたのは、こう書かれた告知だった。
『身分・出自不問。宮廷楽団指揮者候補、緊急募集』
「王都で配られていたものでな。……タクト、君の才をここで埋もれさせ続けるわけにはいかないと思ってね。」
セバスチャンは、私の肩に節くれ立った手をそっと置いた。その手は、いつも通り温かかった。
「やってみないか、タクト。無理にとは言わない。だが、もしお前がその気になれるなら――」
「――行きます」
俺は迷わず答えていた。セバスチャンは少し驚いたように目を見開き、それから、これ以上ないくらい穏やかに微笑んだ。
「そうか。……ならば、私にできる後押しは、精一杯させてもらうよ。路銀を多くは出せないが」
「十分です、神父様。今まで、本当にありがとうございました」
「礼を言うのは早い。お前がその力を、ちゃんと世に示してからにしなさい」
セバスチャンはそう言って、いたずらっぽく笑った。俺は、その笑顔をよく覚えておこうと思った。
なんとなく、もう帰って来ない気がして、”今まで”と言ったが。それ程、知らずのうちに自分の中での音楽への渇望が膨らんでいたのだと思う。
まぁ、他への欲望も大いに膨らんでいたのも事実だが……グヘヘ。
◆ ◆ ◆
出発の朝、村の入り口までセバスチャンは見送りに来てくれた。
「タクト……」
「はい!」
「お前がどんな人間になっていくのか、私には分からない。だが、これだけは覚えておきなさい。お前の音は、人を幸せにする力を持っている。いずれ、この世界の全て……いや。いいんだ。……それを、忘れずにな。」
「――覚えておきます。きっと、世界一の音楽家になって見せます!」
俺は深く頭を下げた。それから振り返ることなく、王都へと続く道を歩き出した。
背中に、セバスチャンの視線をいつまでも感じながら。
なんせ初めてなので試行錯誤中です。お手柔らかにお願いします。
感想やリアクションいただけると継続チャンスが広がる気がしてます。えぇ。




