第29話 忘れた道で会ったなら
初めて神殿の外に出掛けた次の日。
召喚仲間二人を見習って千歳も仕事がほしいとオルドジフに訴えてみたが、“チトセ様は学生だったんですよね? なら、勉強が仕事ということで”と言われてこの世界や神殿について勉強することになった。とはいっても、もともと色んなひとたちから話を聞いて回っていたので、教えてくれるひとが特定のひとに決まったくらいでこれまでの生活とあまり変わりはないだろう。暇を持て余すことは減りそうで、それについては大歓迎だけれど。
今日から始まった授業は教師役の神官との顔合わせだけで終わった。本格的な講義は明日かららしい。
顔見知りの神官が増えたと自負している千歳も教師役のヨラナ・フィアルカとは今日が初対面で、彼女は普段は王都の外れの小神殿に仕えているそうだ。ヨラナは上品な年配の女性で、神官の服を着ていてもいかにも貴族のご婦人といった雰囲気があるのでわざわざ来てもらっていると思うと気後れしてしまう。一般教養やこの国の歴史だけでなく礼儀作法も教えてくれるというが、厳しそうなひとではないのでそれだけは良かった。千歳は褒められて伸びるタイプだ……たぶん。
半日くらいは潰れると思っていた今日の予定がずいぶんと早く終わり、時間が空いてしまった。
仕方なく神殿内をうろちょろしているけれど、こういう日に限って千歳の相手をしてくれそうな神官は見つからない。アレシュとイーディスは二人ともお休みで今日はデートだと数日前から言っていたので、明日か明後日か会ったら話を聞こう。
(まあ、王都おすすめのデートスポットの感想を聞いても私には相手がいないんだけどね)
悲しいことに生まれてこの方恋人がいたことはない。
高校の同級生には付き合っている子もいたし、早い子は小学校の時から恋人持ちだったが、御年十七歳の千歳はこれまであまり恋愛に興味がなかった。友達からは“女子力が枯れてる”や“恋に消極的”と評され、恋バナはほぼ聞き手側。それでも似たようなタイプは他にもいたので気にならなかった。
アレシュとイーディスを見ていると羨ましいと思わなくもないけれど、千歳には恋も愛もよくわからない。いつか母のように愛したひとを嫌うことになるのではと思うと積極的に恋をしようという気にはなれないし、誰かを好きになったらどうにかして結ばれようと能力を使ってしまいそうな自覚があるだけにやっぱり恋愛なんてするのは怖い。
欲しいものが手に入るとわかっていて耐えられるほど我慢強くなく、能力を使って手にしたものに罪悪感を感じずにはいられない。千歳は自分の厄介な性格を一番よく知っている。
(……あれ?)
つらつらととりとめのないことを考えながら歩いていると見たことのない場所に辿り着いた。中庭の一角のようだが、奥まったところにあるからか他とは趣が異なる。
どんどん人気がなくなってきて、もしかして入ったらいけない場所だったかと不安になった。能力で立入禁止の場所ではないとわかっても、それだけでは不安は拭えない。綺麗な庭園だけれど、安らぎを覚えるにはここは静かすぎる。
「あっ」
引き返そうかと悩みながら歩いていたら思いがけない人物が視界に入って千歳は小さく声を上げた。
「こんにちは、お嬢さん。こんなところで会うとは君とは奇妙な縁を感じるね」
「こんにちは……えっと、お爺さん」
東屋のような小さな建物の前で足を止めていたひとが振り返って微笑むのにぎこちなく挨拶を返す。
以前ヴァルトの部屋から戻るときに出会った謎のお爺さんだ。どう呼ぼうかと迷って、そういえばヴァルトにこの老人について尋ねるのを忘れていたと気づいた。
「おや、もしかしてヴァルトは教えてくれなかったのかな?」
彼の正体についてだろうと当たりをつけて言葉を探す。すっかり忘れていたと本人に言ってしまっていいものか。
「いえ……その、まだ聞いてなくて」
「ふふ、なんだ。忘れていたのか。思ったよりうっかりさんなお嬢さんだ」
濁した返答は正確に彼に伝わって、笑われてしまう。その笑いは悪意なくこちらを馬鹿にしたものでもないけれど、恥ずかしさに頬が赤らむのを感じた。千歳が目を伏せて“すみません”と謝るとお爺さんは再びくすくすと笑う。
機嫌を損ねなくて良かったが、そんなに笑うほどのことでもないだろう。笑い上戸なんだろうか。ヴァルトもよく笑っているので――笑いの種類は違うけれど、案外似た者同士なのかもしれない。
「では、名前も知らない者同士でお茶はいかがかな?」
千歳はこのお爺さんの名前を知らないが、彼はおそらく千歳のことを名前も含めて知っている気がする。それには言及せずに頷くと、東屋の方へと誘われた。
「誘いを受けてくれてありがとう。では、こちらに」
席に着くまでエスコートされる。このお爺さん、若い頃はさぞモテモテだったに違いない。
でも、自分の祖父のような年代のひとに椅子を引かれるのはなんだか申し訳なくて困ってしまった。
「こんな老いぼれと二人きりでお茶会なんて可愛らしいお嬢さんには面白くないかもしれないね」
「いえ、そんなことは……」
「おや。なら、私もまだまだ現役でいけるかもしれないな」
茶目っ気たっぷりなウィンクに思わず笑う。おかしなひとだ。
お茶に誘われたけれど、テーブルの上にあるのは呼び鈴のようなベル一つ。お爺さんがそれを二回鳴らすと二人分のティーセットが現れた。しかもお茶菓子まで。
突然の魔法に目を白黒させる千歳に、お爺さんがとっておきの秘密を明かすように“魔法具だよ”と教えてくれる。
どういう仕組なんだろうか。機会があったらソフィアに尋ねてみてもいいかもしれない。今度王都の魔法具店に一緒に行こうと約束していたことを思い出し、そのときにしようと心にメモしておく。
「しまった」
「どうしたんですか?」
「私はお茶を淹れるのが上手くないんだ。あまり機会もなくてね。自分で飲む分には構わないんだが、お嬢さんに淹れるとなると……」
「私が淹れましょうか?」
「お嬢さんが? 心くすぐられる申し出だが、誘っておいて淹れさせるわけにはいかない。誰か呼ぼう」
こういうところを見ると、やっぱり位の高いひとなのかなと思う。少なくとも千歳はお茶を上手く淹れられないから誰か呼ぼうなんて考えもしない。お茶なんて飲めればいいとまでは言わないが。
あと、実は千歳はお茶の淹れ方を知っている。しかもこちらで覚えたものだ。
「いえ。お茶の淹れ方は世話係にギリギリ及第点をもらってるんですけど、他のひとに飲んでもらったことなくて、良かったら感想を聞かせてください」
「ふむ、そこまで言われると断るのも悪いな。お願いしようか」
「はい」
「ふふ、今度ヴァルトに自慢してやろう」
楽しそうに呟くお爺さんを前に、ダナから教わった手順でお茶を淹れる。
銘柄によって淹れ方が多少異なるが、お爺さんに尋ねるとダナが教えてくれたものの一つだったので助かった。彼のお気に入りの茶葉らしい。すっきりとした味で千歳も好きなお茶だ。
こうして、謎のお爺さんとの不思議なお茶会が始まった。
名前も知らないのに二杯目のお茶を飲み終わる頃にはすっかり打ち解けていた。お爺さんが話上手だったからかもしれない。
話の流れで“引退した”ようなことを言っていたから元は――もしくは現在も地位ある人ではないかと察せられるが、彼に気取ったところは全然なく驚くほど親しみやすいひとだった。
己のことについて話さないようにしているお爺さんのことでわかったことが少しある。
それは、彼が敬虔なひとだということ。この国が好きだということ。派閥争いに精を出す神官たちを苦々しく思い、神と教えより権力に固執する神殿を憂いていること。
あと、先代の大神官と同年代だということ。
「ほう、そうか。君も駒遊びをするのか」
ヴァルトから駒遊びを教えてもらっているという話をすると、途端にお爺さんの瞳が輝き始める。今、謎のお爺さんの情報に駒遊び好きという一文が加わった。
「まだ習いたてで全然弱いんですけどね。もう何度もヴァルトさんにコテンパンにされてます」
「はは、それはそうだろう。私もあの子には勝てたことがない。初心者が相手でも勝ちを譲ったりはしないしなぁ」
「ヴァルトさんにも初心者だったときがあったと思うんですけど……そのときから強かったんでしょうか」
「どうだろう。ここに来たときにはすでに負けなしの状態だったからね。ヴァルトの初心者時代を知っているのなんてそれこそエルヴァスティ公――いや、もう跡を継いだんだったか。とにかく、あの子の父君くらいだろう」
そこで一旦言葉を切って、お爺さんはカップに口をつけた。しかし、すでに中は空らしく情けない顔を作って至極残念そうにカップを元の位置に戻す。
「もう一杯淹れましょうか?」
「いや、止めておこう。年寄りの長話に付き合わせて悪かったね」
お爺さんが魔法具だというベルを二回鳴らすと魔法のようにティーセットが目の前から消えた。魔法のように、というか魔法だけれど。便利なものだ。
「今度は――」
「うん?」
「今度は名前で呼びますね」
“そのときは駒遊びをヴァルトさんから借りてくるので一緒にしましょう”と千歳が次の誘いをかけると、お爺さんは嬉しそうに笑って頷いてくれた。戦盤はヴァルトから借りなくても彼が持っているものを貸してくれるらしい。お気に入りは赤い駒なんだとか。
「次に会えるのを楽しみにしてるよ。ミランによろしく、異世界人のお嬢さん」
手を振って別れる。結局、相手のことを知らないのは千歳だけだった。
◇◇◇
ヴァルトに会ったのはその翌日の夜のことだった。
「ヘルマンニ・ヴェフカラハティ。先々代の大神官だ」
“爺さんに会ったらしいな”とヴァルトの方から訊かれ、どういうひとなのかと千歳が尋ねたら簡単に教えてくれた。癖のある男からどうやって聞き出そうと考えていたところにあっさりと正体を明かされて肩透かしを食らった気になる。
「悪名高い先代大神官に隠居に追い込まれた負け犬さ。権力にしがみつくのが下手くそな情けない爺で、駒遊びの腕だけはそこそこだな。現実より戦盤での方がよほど上手く立ち回れる」
「ヴァルト様!」
淡々とこき下ろすヴァルトにユージィンの鋭い制止の声が飛んだ。
小言を聞く気分ではなかったのか、ユージィンの非難の視線にヴァルトは肩を竦めてみせる。それ以上彼が辛辣な言葉を続けることはなかった。
「嫌いなんですか?」
違うと知っていて尋ねた。
能力を使うまでもなく口調や声音、表情のすべてからヴァルトがお爺さん――ヘルマンニを嫌っていないとわかる。ひねくれた彼の口振りには親愛すら感じられたから。
「別に。ただ、たまに面倒だと思う」
「面倒?」
「爺さんは俺を大神官にしたがってるからな。相手をするのが面倒臭い。早く諦めればいいものを」
「なってあげればいいじゃないですか」
軽い気持ちで言うと心底呆れた目で見られた。ユージィンからもびっくりした気配が伝わってくる。
「お前はミラン・エスパンタリオを大神官に推すべきだろう」
「いや、誰がなった方がいいとかわかりませんし」
嘘がさらりとこぼれ出た。いや、嘘ではない。まだ千歳は誰が一番大神官に相応しいかをその能力に問うていない。だから、わからないのというのは現時点では嘘ではなかった。
「俺に向いていると?」
「………………」
大神官は神殿のトップ。エスカルラータ教という一つの宗教の一番上の地位だ。
ヴァルトがそれになるというのはあんまり想像がつかない。一番高いところでふんぞり返ってそうにも見えるのに、宗教家っぽくないからだろうか。神殿にいるくせに神とか信じてなさそうだし、教えに従う気もちっともないように思える。
黙り込んだ千歳をどう思ったのか、ヴァルトはフンと鼻を鳴らした。
「自分に大神官が務まらないとは思わない。可能か可能でないかを言えば、可能だろう。だが、俺はやりたくない」
「じゃあ、何ならやりたいんですか?」
つい口をついて出た言葉に“やってしまった”と内心顔を顰める。問うべきではないときに問うべきでないことを問うてしまった。
それでも、口から出た言葉を戻す術はなくしんと静まり返った部屋から逃げ出したい衝動に駆られる。
「とくに何も。柄にもなくあの疫病がなかったらと思ったことはあるが、詮ない話だ」
なんの感情もこもらない呟き。すべてに飽きたような瞳が千歳を捉え、その色を変えた。
「そうだな。今は――目の前にある隠し事を暴きたいと思っている」
口を開けたら悲鳴が漏れそうで咄嗟に唇を噛みしめる。今の千歳の顔は引き攣っているに違いない。
バレているかと確認して、ほとんどバレているという“正解”に頭を抱えたくなった。
――――王手はもうすぐそこ。この盤面こそまさに詰んでいる。