第一話 放課後、僕らは胃袋の中にいた
その日の放課後は、いつもと何も変わらないはずだった。
窓の外では、夕日が校舎の向こうに沈みかけている。
教室には、部活動へ向かう生徒たちの声や、帰り支度をする音が残っていた。
「ユウマ、まだ帰らないのか?」
机に突っ伏していた俺に、前の席のタクマが声をかけてきた。
「帰るよ。あと五分だけ」
「それ、さっきも聞いたぞ」
「今度こそ本当だ」
「お前の今度こそは信用できないんだよな」
そんなことを言いながら、タクマは鞄を肩にかけた。
俺は端末の画面を確認する。
時刻は午後四時半を少し過ぎたところだった。
特に予定はない。家に帰って、夕飯を食べて、宿題を適当に片づける。いつも通りの放課後だ。
「ユウマくん、帰らないの?」
声をかけてきたのは、同じクラスのアオイだった。
「もう帰るところ」
「さっきもそう言ってたよね」
「……聞いてたのか」
「聞こえてたよ」
アオイは呆れたように笑った。
そのときだった。
校舎が、わずかに揺れた。
「地震?」
ケントがつぶやく。
けれど、揺れはすぐに収まった。
窓の外を見ていた男子が、突然声を上げる。
「おい……あれ、何だ?」
その声に、教室にいた全員が窓の方を向いた。
最初は、遠くに黒い煙が上がっているのかと思った。
だが、違った。
建物の向こう側に、何か巨大なものが立っていた。
黒く、異様に長い四肢。岩のように盛り上がった背中。身体のあちこちから伸びる、太い角のような突起。
その姿は、獣に似ていた。
ただし、俺たちが知っているどんな動物とも違う。
大きさがおかしい。
ビルの屋上を軽々と越えるほどの巨体が、ゆっくりと街を見下ろしていた。
「……怪獣?」
「そんなわけあるかよ」
「じゃあ、何なんだよ!」
誰も答えられなかった。
次の瞬間、巨大な獣が一歩踏み出した。
地面が揺れた。
少し遅れて、遠くの建物が崩れ落ちる音が響く。
窓ガラスが震え、教室の照明が一瞬だけ消えた。
「逃げろ!」
誰かの叫び声をきっかけに、教室の中が一気に騒がしくなった。
机が倒れ、椅子が床を滑る。
俺も鞄をつかんで立ち上がった。
「ユウマ! 早く!」
「分かってる!」
廊下へ飛び出す。
階段には、逃げようとする生徒たちが押し寄せていた。
誘導する大人の声が聞こえる。
館内放送も流れていたが、音が割れていて、何を言っているのかよく分からない。
大半の生徒や先生たちは押し寄せるようにして下の階へと避難していき、慌てて押し出された俺たち四人が、ちょうど階段の最後尾に取り残された格好になった。
そのとき、窓の外から再び大きな音がした。
振り返る。
巨大な獣が、こちらを向いていた。
いや、正確にはこちらを見ているのかどうかも分からない。
ただ、その顔にある巨大な口が、ゆっくりと開いていく。
「……嘘だろ」
口の奥に、赤黒い光が見えた。
次の瞬間、獣の頭が大きく動いた。
校舎の一部が、まるごと影に覆われる。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
俺は近くにいたアオイの腕をつかみ、床に身を伏せた。
だが、間に合わなかった。
轟音。
視界が真っ白になる。
他の生徒たちが降り切った直後の校舎の端が、俺たち四人を巻き込んで丸ごと持ち上がるような感覚がした。
壁も、床も、天井も、すべてが遠ざかっていく。
そして――。
俺の意識は、そこで途切れた。
◇
最初に感じたのは、湿気だった。
次に、ひどい臭い。
「……うっ」
俺は顔をしかめながら目を開けた。
暗い。
けれど、完全な暗闇ではなかった。
周囲の壁が、赤黒くぼんやりと光っている。
その壁は、ゆっくりと動いていた。
まるで、生き物の身体の内側のように。
「ここ……どこだ?」
身体を起こそうとして、手のひらが何かに触れた。
ぬるりとした感触。
「うわっ!」
慌てて手を引っ込める。
床には薄い液体が広がっていた。水のように見えるが、妙に粘り気がある。
ポケットに手を伸ばすが、感触がない。落下の衝撃のどこかで落としたらしい。俺のスマホは見当たらなかった。
「ユウマくん!」
聞き覚えのある声がした。
顔を向けると、少し離れた場所にアオイが座り込んでいた。
「大丈夫か?」
「うん……たぶん。ここ、どこなの?」
「俺にも分からない」
周囲を見回す。
少し離れたところに、タクマやケントたちも倒れていた。
「おーい! 誰かいるか!」
タクマの声が響く。
「いる! こっちだ!」
俺が返事をすると、二人がこちらへ集まってきた。
幸い、見たところ大きな怪我をしている人はいないようだった。
「全員……無事だな」
「ねえ、他の人たちは……?」
「下の階へ逃げてたし、みんなは無事に外へ出られたと思いたいな……」
「そうね……残ったのは私たちだけだったものね」
「ていうか、ここ何なんだよ……」
ケントが自分のスマホを取り出し、何度も画面をタップしながら眉をひそめた。
「電波がまったく入らない……完全に圏外です。警察も消防も呼びようがないですね」
「俺のもダメだ。そもそも放課後動画観すぎて充電切れてたわ……」
タクマが真っ黒な画面の端末を掲げて脱力したように溜息をつく。
「私のもダメ……画面は点くけど、やっぱり圏外」
アオイも力なく首を振った。
ケントはそのまま壁に近づいた。
「それに……なんか、壁が動いてないか?」
その言葉に、全員が壁を見た。
赤黒い壁が、ゆっくりと膨らみ、縮んでいる。
一定の間隔で、何度も。
ドクン。
ドクン。
そのたびに、床までわずかに震えた。
「……気持ち悪いな」
「壁が呼吸してるみたい」
「いや、呼吸っていうか……」
俺は壁に近づき、そっと手を伸ばした。
「触るなよ!」
止められるより先に、指先が壁に触れた。
温かい。
そして、柔らかい。
まるで巨大な生き物の皮膚に触れているようだった。
俺はすぐに手を離した。
「何か分かった?」
「分からない。ただ……ここ、生き物の中みたいだ」
「生き物の中?」
その言葉に、全員が黙り込んだ。
冗談にしては、周囲の光景があまりにも異様だった。
天井からは太い管のようなものが何本も垂れ下がり、壁の隙間からは赤黒い液体がゆっくりと流れている。
どこからか、低い音が響いていた。
ドクン。
ドクン。
その音を聞くたびに、嫌な想像が頭に浮かぶ。
「……まさか」
俺は、倒れる直前の光景を思い出した。
街に現れた巨大な獣。
開かれた口。
そして、目の前に迫ってきた暗闇。
「俺たち……あいつに食われたんじゃないか?」
「は?」
「いや、そんなわけ……」
誰もすぐには否定できなかった。
そのとき、頭上から大きな水音がした。
全員が一斉に身構える。
壁の一部が大きく膨らみ、そこから大量の液体が流れ落ちてきた。
「逃げろ!」
俺たちは慌てて走り出した。
液体は床を伝い、さっきまで俺たちがいた場所を覆っていく。
その一部が、床に落ちていた金属片に触れた。
ジュッ。
嫌な音とともに、金属片の表面から白い煙が上がる。
「……今の、何だ?」
「金属が溶けた?」
ケントが震える声で言った。
俺は液体から距離を取りながら、周囲を見回した。
ここは、ただの洞窟ではない。
そして、普通の建物でもない。
俺たちは本当に、巨大な生き物の中にいるのかもしれない。
「とにかく、ここから離れよう」
俺はそう言った。
「どこに行くんだよ?」
「分からない。でも、ここにいたら危ない」
「じゃあ、外に出る方法を探すってこと?」
「ああ」
そう答えたものの、俺自身、何の見通しもなかった。
外に出る方法どころか、ここがどれほど広いのかさえ分からない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
俺たちは、赤黒い壁に沿って歩き始めた。
しばらく進むと、少し先に奇妙なものが見えた。
壁の一部が大きく開き、その向こうに暗い通路が続いている。
通路の奥から、湿った風が吹いてきた。
「……あそこに行くのか?」
「ほかに道がないだろ」
「せめて、もう少し普通の出口があればいいんだけどな」
「胃袋の中に普通の出口を期待するなよ」
「胃袋って決まったわけじゃないだろ!」
そんなやり取りをしながらも、誰も笑わなかった。
俺たちは、通路の前で一度立ち止まった。
背後では、赤黒い壁がまた大きく脈打っている。
ドクン。
ドクン。
まるで、俺たちの存在など気にも留めていないかのように。
その音を聞きながら、俺は思った。
もし本当に、あの巨大な獣に食べられたのだとしたら。
俺たちは今、どれほど大きな生き物の中にいるのだろう。
そして、どれほどの時間を生き延びられるのだろう。
「行こう」
俺は仲間たちに声をかけた。
誰も反対しなかった。
薄暗い通路をしばらく進むと、消化液の届かない少し小高い肉壁の凹みを見つけた。俺たちは崩れた瓦礫や教卓の破片を寄せ集め、なんとか安全そうな身を寄せる場所を作った。
極限の恐怖と疲労で、全員がもう限界だった。
連絡の手段はなく、時間の経過すら正確には計れない。けれど、体感では飲み込まれてから何時間も経っている気がする。
「……今日は、ここで休もう」
肉壁が蠢く不気味な低音を聞きながら、俺たちは互いに肩を寄せ合い、冷たい床の上で浅い眠りについた。
こうして俺たちの、奇妙な放課後が始まった。
飲み込まれたその日――激動の『1日目』が、静かに終わりを告げる。
ただし、このときの俺たちはまだ知らなかった。
この場所が、魔王と呼ばれる災厄の獣の胃袋であることも。
ここから先に、俺たちの想像を超える世界が広がっていることも。
そして、俺たちに残された時間が、決して無限ではないことも。




