第8話 島民
* *
歌は、誰のものなのか。
前日の会議を終えてからも、その問いはヨハンの耳に残っていた。
国のものか。民族のものか。歌う者のものか。
そして、歌えなくなった者のものでもあるのか。
会議室の高い窓から、午前の光が斜めに差し込んでいた。長机の上には、昨日とほとんど同じ顔ぶれ、同じ革張りの書類鞄、同じ形に揃えられた水差しが並んでいる。
変わったのは、机の中央に積まれた資料の厚さだけだった。
各国代表に配られた文書には、オーランド諸島の人口、言語、教育制度、港湾、郵便、徴税、兵役、土地所有について、細かな数字が記されていた。
島に住む人々の大半がスウェーデン語を話すこと。
学校教育も教会の説教も、長くスウェーデン語で行われてきたこと。
しかし国際法上、島々がフィンランド領であること。
ロシア帝国から独立したばかりのフィンランドにとって、領土の保全が国家の存立そのものに関わること。
ヨハンは速記用の鉛筆を削りながら、資料の文字を目で追った。
人口。
言語。
領土。
港。
海域。
それらはどれも重要だった。
重要であるからこそ、会議の机に載せられている。
だが、昨日の夜に聞いた歌は、そのどの欄にも書かれていなかった。
議長が開会を告げた。
最初に発言を求めたのは、フィンランド代表だった。
彼はまだ若かったが、言葉を選ぶ慎重さには、独立したばかりの国家を背負う者の緊張があった。
「フィンランド政府は、島民の言語と文化を軽視しておりません」
ヨハンの鉛筆が動き始めた。
島民の言語と文化。
「むしろ我々は、島民がその伝統を保持できるよう、十分な自治を認める用意があります。教育、宗教、地方行政において、島民の希望は最大限尊重されるべきです」
穏やかな発言だった。
奪おうとしている者の言葉には聞こえない。
フィンランド代表は、手元の文書に目を落とした。
「しかしながら、島民の希望のみを理由として、国家の領土を分割する前例を作ることには、慎重でなければなりません。フィンランドは、つい先日まで大国の支配下にありました。我々の国境は、まだ地図の上に引かれただけであり、国民の心の中に定着したとは言い難いのです」
代表の声が、わずかに低くなった。
「ここで領土の一部を失えば、我々の国家は、自らの独立を守る力がないと見なされるでしょう。それはオーランドの島民だけでなく、フィンランドに暮らすすべての者を不安定にします」
ヨハンは、その言葉に偽りはないと思った。
フィンランドは、ようやく生まれた国だった。
生まれたばかりの国に、手足の一部を差し出せと言うことは容易ではない。
代表は続けた。
「我々は島民をフィンランド化しようとしているのではありません。島民の言葉を奪うつもりもありません。島民の財産を脅かすつもりもありません。我々が求めているのは、島民がフィンランドの主権の下で、安全に暮らせる制度を作ることです」
島民。
島民。
島民。
ヨハンは同じ言葉を三度書いた。
発言が終わると、議長はスウェーデン代表に視線を向けた。
スウェーデン代表は、静かに立ち上がった。年齢はフィンランド代表より上で、声にも身ぶりにも余裕があった。しかしその余裕は、相手を見下すものではなかった。
「フィンランド代表の懸念は理解いたします」
最初にそう述べた。
「我々はフィンランドの独立を脅かすことを望んでおりません。スウェーデンは、隣国が安定した民主国家として歩むことを心から願っています」
フィンランド代表が小さく頷いた。
「しかし同時に、我々は島民の意思を無視することもできません」
ヨハンの鉛筆が、再び同じ言葉を記した。
島民の意思。
「島民は、自らをスウェーデンの文化と言語の一部であると考えています。彼らの祖父母も、その前の世代も、スウェーデン語で祈り、学び、働いてきました。島民がスウェーデンへの帰属を求めるのは、他国への敵意からではありません。自らの生活を、これまでと同じ言葉の中で続けたいと願っているからです」
その説明にも、ヨハンは嘘を感じなかった。
スウェーデン代表は、島を奪おうとしているのではない。
少なくとも本人は、そう信じている。
「島民は、フィンランド政府の善意を疑っているのではないでしょう」
代表は、少し間を置いた。
「ただ、政府は変わります。法律も変わります。今日約束された権利が、二十年後、五十年後にも守られる保証はありません。島民が不安を抱くのは、当然ではないでしょうか」
会議室の何人かが、資料に目を落とした。
「我々が求めているのは、征服ではありません。島民自身が、どこに属するかを選ぶ権利です」
島民自身。
ヨハンは書いた。
その横に、無意識に小さな点を打った。
議長が質問を促すと、英国代表が手を挙げた。
「仮に住民投票を実施した場合、その結果を両国は受け入れる用意がありますか」
スウェーデン代表は、明確に答えた。
「島民の自由な意思が示されるのであれば、尊重されるべきです」
フィンランド代表は、慎重に口を開いた。
「領土主権は、単純な多数決だけで決められる問題ではありません。島民の意思は重要です。しかし国家には、現在の住民だけでなく、将来の国民に対する責任もあります」
別の代表が尋ねた。
「島民に自治を認めるとして、どこまでを島民自身の決定に委ねるのですか」
「教育と文化については、広範な権限を認めます」
「土地の売買は」
「島民の財産と人口構成を守るため、一定の制限を設けることも検討できます」
「兵役は」
「島の特殊性を踏まえる必要があります」
「島民の代表機関は」
「既存の地方議会を拡充することが可能です」
質問と回答が続いた。
島民の学校。
島民の土地。
島民の議会。
島民の兵役。
島民の安全。
島民の未来。
ヨハンのノートの中で、その二文字だけが急速に増えていった。
初めのうちは、何も感じなかった。
会議では、同じ言葉が繰り返されるものだ。
主権。
保障。
自治。
民族。
国境。
正確な言葉を何度も使用し、少しずつ意味を狭めていく。それが交渉というものだった。
だが、「島民」という言葉だけは、繰り返されるたびに意味が狭まるのではなく、逆に輪郭を失っていくように思えた。
ヨハンは手を止め、速記ノートを数ページ戻した。
昨日の記録が現れた。
文化的帰属。
言語的同一性。
歴史的権利。
住民の意思。
その余白に、昨夜、自分で書き加えた一行があった。
――歌は誰のものか。
さらにページを戻す。
最初の事情聴取の日。
島から来た代表者の証言。
学校の壁に書かれた言葉。
港で交わされた罵声。
スウェーデンの国旗を掲げた家。
掲げなかった家。
フィンランドから来た役人。
島で生まれたが、フィンランド語を話す郵便局員。
スウェーデンへの帰属を求める署名。
署名をしなかった者の人数は、記録されていなかった。
ヨハンは眉を寄せた。
会議で語られる島民は、いつも一つの意思を持っていた。
フィンランド代表の語る島民は、フィンランドの中で権利を保障される人々だった。
スウェーデン代表の語る島民は、スウェーデンへの復帰を願う人々だった。
島の代表者が語る島民は、長い間、他者に運命を決められてきた人々だった。
それぞれの言葉は間違っていない。
だが、それぞれが同じ人々を指しているようには、ヨハンには思えなくなっていた。
「島民が望んでいるのは、明確な帰属です」
スウェーデン代表が述べた。
「いいえ」
フィンランド代表は、語気を強めずに答えた。
「島民が真に必要としているのは、帰属の変更ではなく、安心して暮らせる法的保障です」
「その保障を誰が与えるのかを、島民は問題にしているのです」
「国家への不信を理由に国境を変更すれば、欧州の国境は永久に定まりません」
「国境を守るために島民の意思を抑えるなら、その国境は誰のためにあるのでしょう」
「島民の意思を一つと決めつけることにも、危険があるのではありませんか」
その言葉に、ヨハンは顔を上げた。
だがフィンランド代表は、すぐに続けた。
「仮に島民の多数がスウェーデンへの帰属を希望しているとしても、国家は少数者の権利と地域全体の安定を考慮しなければなりません」
島民の多数。
少数者。
地域全体。
再び、人は分類の中へ戻っていった。
会議室には敵意がなかった。
それがかえって、ヨハンを不安にさせた。
誰も島の人々を苦しめたいとは思っていない。
誰も戦争を望んでいない。
フィンランド代表は、新しい国を守ろうとしている。
スウェーデン代表は、海の向こうで助けを求める人々に応えようとしている。
議長も各国の代表も、流血を避ける道を探している。
皆が善意を持っていた。
そして善意を持ったまま、それぞれが異なる「島民」を語っていた。
ヨハンは、部屋の端に座る新渡戸を見た。
新渡戸は、今日もほとんど発言していなかった。
机の上に両手を置き、代表たちの言葉を聞いている。目の前には資料があるが、先ほどから一度もページをめくっていない。
議長が、午前の議論をまとめようとした。
「両国の立場には隔たりがあります。しかし、島民の文化的権利を守る必要があるという点については、共通の理解があるものと考えます」
誰かが頷いた。
「次に検討すべきは、島民の権利をどのような国際的枠組みによって保障するか――」
「議長」
声は大きくなかった。
それでも、会議室の全員が顔を上げた。
新渡戸だった。
彼は両国の代表を交互に見た。
「失礼ですが、皆様がおっしゃる『島民』は、それぞれ同じ人でしょうか。」
長い沈黙が落ちた。
通訳も、言葉を発しなかった。
窓の外を走る馬車の音が、遠く聞こえた。
誰かが水差しに手を伸ばしかけ、やめた。
ヨハンの鉛筆も止まっていた。
新渡戸は説明を加えなかった。
問いを言い換えることも、答えを促すこともしなかった。
ただ、待っていた。
スウェーデン代表が、手元の資料を見た。
そこには島民の九割以上がスウェーデン語を話すと書かれていた。
しかし今、彼が見ているのは数字ではないようだった。
フィンランド代表は、腕を組み直した。
彼もまた、すぐには答えなかった。
島民とは誰か。
スウェーデンへの帰属を願う者か。
フィンランドの法律に従って暮らす者か。
署名をした者か。
署名をしなかった者か。
海に出る者か。
畑を耕す者か。
学校でスウェーデン語を教える者か。
フィンランドから派遣されてきた役人の子どもか。
昨日まで隣人だった者を、今日から異国人と呼ばなければならなくなる者か。
会議室にいる誰もが、初めて「島民」という言葉の中身を考えているようだった。
ヨハンは新しいページを開いた。
そこに、ゆっくりと書いた。
エリン。
その下に、
父。
さらにその下に、
魚屋。
エリンは、島の学校で歌を教えていた。
父は、フィンランドに残るべきだと言った。
港の魚屋は、スウェーデンの旗を軒先に掲げながら、フィンランド人の客にも同じ値段で魚を売っていた。
彼らは同じ島に住んでいた。
同じ海を見ていた。
同じ冬を越えていた。
だが、同じ未来を望んでいるとは限らなかった。
ヨハンは、その下にもう一つ書こうとした。
島民。
鉛筆の先が紙に触れた。
けれど、最初の一画を引くことができなかった。
会議室では、まだ誰も話していなかった。




