第7話 島を見ていない男
朝食を終え、新渡戸稲造はホテルの部屋へ戻った。
窓の外にはレマン湖が見えた。
風はほとんどない。
湖面だけを見れば、世界には争いなどないように思える。
そういう景色は、あまり信用しない方がいい。
机の上には、昨夜まで読んでいた報告書が置かれていた。
人口。
言語。
学校。
教会。
港湾。
漁業。
フィンランド本土までの距離。
スウェーデンまでの距離。
数字も、地図も、証言もある。
不足はない。
少なくとも、書類としては。
だが、そこに暮らす人の一日は書かれていなかった。
朝、最初に誰と話すのか。
市場では何語で値段を伝えるのか。
子どもが転んだ時、母親はどんな言葉で呼びかけるのか。
そんなことは、領有権を決める資料には必要ないのだろう。
必要ない。
その言葉だけが、少し引っかかった。
新渡戸は報告書を鞄へ収めた。
最後に、机の上で紙の端を揃えた。
特に意味はなかった。
少しずれていたから、直した。
それだけだった。
*
国際連盟の会議室には、黒い上着の男たちが並んでいた。
白い襟。
硬く結ばれたタイ。
磨かれた革靴。
フィンランド人も、スウェーデン人も、フランス人も、英国人も、よく似た服を着ている。
服装は、人を平等に見せる。
あるいは、違いを見えにくくする。
会議は英語とフランス語で進んだ。
発言が終わる。
通訳が要点を別の言葉へ移す。
返答があり、再び別の声がそれを運ぶ。
言葉は、一度誰かに預けられてから相手へ届く。
その遅れを、新渡戸は嫌いではなかった。
だが、遅れて届けば、必ず穏やかになるわけでもない。
別の言葉へ移される途中で、少し鋭くなることもある。
少し曖昧になることもある。
話した者には、それを完全には選べなかった。
会議では、オーランド諸島とフィンランド本土との地理的な関係が議題になっていた。
フィンランド側の代表が、大きな地図を広げた。
「ご覧のとおり、フィンランド本土からオーランド諸島までは、小さな島々が連続しています」
地図の上では、島から島へ、点が途切れずに続いていた。
海に隔てられているというより、一つの長い土地が途中で水に沈んでいるようにも見える。
続いて、スウェーデン側が別の地図を示した。
「しかし、諸島の暮らしと文化は西側へ開かれています。距離だけでなく、島民がどちらを向いて生活してきたかを考えるべきです」
こちらの地図では、オーランド諸島とスウェーデンの海岸が近く見えた。
同じ海だった。
同じ島だった。
だが、どこを中心に置くかで、つながっても見えるし、隔てられても見える。
新渡戸は、二枚の地図を見比べた。
どちらも嘘ではない。
おそらく。
だから、余計に気になった。
新渡戸は手を挙げた。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか」
議長が頷いた。
新渡戸は調査員へ顔を向けた。
「調査団がオーランド諸島へ向かった際、どの航路を通られましたか」
調査員は、最初の地図を指した。
「トゥルクから、島々の間を通る航路です」
「帰路も同じでしたか」
「いいえ。帰路はストックホルム方面へ向かいましたので、外海を通りました」
新渡戸は頷いた。
頭の中で、二つの景色が並んだ。
島影を一つずつたどる往路。
陸地の見えない海を進む帰路。
同じ調査団が、同じ島を見た。
だが、往路ではフィンランドとのつながりを感じ、帰路ではスウェーデンとの隔たりを感じたかもしれない。
「つまり」
新渡戸は言った。
言い始めてから、まだ問いが形になっていないことに気づいた。
それでも、言葉はもう口を離れていた。
「調査団が受けた地理的な印象には、選ばれた航路も影響しているのではないでしょうか」
通訳がフランス語で要約した。
その声は、新渡戸が思っていたよりも鋭く聞こえた。
フィンランド側の代表が、ゆっくりと顔を上げた。
「先生のご質問は、調査の中立性に疑義がある、という理解でよろしいのでしょうか」
会議室の空気が変わった。
声は穏やかだった。
だからこそ、逃げ道が少なかった。
新渡戸は一瞬、返事が遅れた。
「いえ。そのような意味ではありません」
通訳が言葉を移す。
しかし、フィンランド代表の表情は変わらない。
「では、どのような意味でしょう」
新渡戸は紙の端に指を置いた。
人は、見せられた景色から自由ではない。
そう言いたかった。
相手が欺いたと言いたいのではない。
見る側もまた、見せられたものを真実の全体だと思い込む危うさがある。
だが、それを説明しようとすると、言葉が長くなった。
長くなるほど、言い訳のように聞こえた。
「航路そのものに問題があったと申し上げているのではありません」
新渡戸は答えた。
「ただ、我々が判断材料とする印象も、どのような順序で何を見たかによって変わるのではないかと——」
「少なくとも、調査の中立性をもう一度検討する必要はあるということでしょう」
今度はスウェーデン側の代表が口を挟んだ。
新渡戸はそちらを見た。
「そこまでは申し上げていません」
スウェーデン側の代表が、わずかに眉を上げた。
「では、先生のご懸念はどこにあるのでしょうか」
同じ問いが、別の側から返ってきた。
会議室の視線が集まっている。
新渡戸は、自分の問いがどこにも置けず、机の上に転がっているように感じた。
フィンランドを責めたいわけではない。
スウェーデンを利したいわけでもない。
見せられた地図を見る自分たちの側にも、偏りがある。
そこまで含めて考えたい。
ただ、それだけだった。
しかし、「ただそれだけ」を会議の言葉にするのは難しかった。
「私の問いは、まだ十分な形になっていなかったようです」
新渡戸は言った。
通訳が少し驚いたようにこちらを見た。
「調査団の誠実さを疑っているわけではありません。フィンランド側の意図を決めつけるつもりもありません」
一度、言葉を切った。
「もう少し考えた上で、必要があれば改めて伺います」
誰も何も言わなかった。
議長が次の議題へ移った。
紙をめくる音がした。
通訳が話し始めた。
会議は続く。
だが、新渡戸の耳には、その後しばらく言葉がうまく入ってこなかった。
*
休憩に入ると、男たちは廊下へ出た。
煙草の煙。
低い話し声。
英語とフランス語が、会議室よりも速く行き交っていた。
新渡戸は窓際に立った。
レマン湖は朝と変わらず静かだった。
先ほどのやり取りを、頭の中でもう一度たどった。
問いそのものが間違っていたとは思わない。
だが、正しい問いなら正しく届くというものでもない。
問いにも、置く場所がある。
置く順番がある。
相手が受け取れる形がある。
自分は、その間合いを誤った。
「新渡戸先生」
声をかけたのは、午前の通訳だった。
「先ほどの要約ですが、先生の意図よりも少し強く聞こえたかもしれません」
「そうですか」
「“影響している”という部分が、意図的な誘導への疑念として受け取られたようです」
新渡戸は頷いた。
「私の言葉が曖昧だったのでしょう」
「いえ、私の選び方にも——」
「あなたのせいではありません」
思ったより早く言葉が出た。
通訳が黙った。
新渡戸は、自分の言葉がまた少し強く聞こえたことに気づいた。
今日は、そういう日なのかもしれない。
「失礼しました」
新渡戸は言った。
「責めるつもりはありませんでした」
「分かっています」
通訳は少し笑った。
新渡戸も笑うべきか迷った。
迷っているうちに、タイミングを逃した。
通訳は会議室の方を見た。
「午後は、教育と言語についてですね」
「ええ」
「何か質問をなさいますか」
新渡戸は答えなかった。
質問なら、いくつかあった。
だが、また問いを置き損ねるかもしれない。
そのことが、先ほどより少し怖くなっていた。
通訳はそれ以上尋ねず、別の代表に呼ばれて離れていった。
新渡戸は胸ポケットから小さな手帳を取り出した。
何か書こうとした。
だが、言葉にならなかった。
結局、午前の欄に短く記した。
航路について問う。
意を尽くさず。
それだけだった。
*
午後の会議は、学校教育と言語の保障について話し合われた。
スウェーデン側は、島民の言葉と文化を守るため、明確な制度上の保障が必要だと主張した。
フィンランド側は、スウェーデン語教育を奪う意図はないと説明した。
「意図ではなく、将来にわたる保障が必要なのです」
「新しい国家の主権を、不信を前提として縛ることは受け入れられません」
また、正しい言葉が向かい合っていた。
善意。
保障。
主権。
文化。
どれも必要だった。
だが新渡戸には、言葉が少し大きすぎるように感じられた。
文化。
その言葉の中に、本当は何が入っているのだろう。
学校の数か。
教科書の言語か。
役所で使われる文字か。
それだけではないはずだった。
ふと、ヨハンの言葉が戻ってきた。
子どもたちは歌っていた。
ずれていた。
途中で笑った。
咳をする子もいた。
そして、一つの椅子が空いていた。
新渡戸はペンを置いた。
午前の失敗が残っていた。
手を挙げるべきか迷った。
今度の問いも、領有権を決める資料にはならない。
また、何を聞いているのか分からないと思われるかもしれない。
それでも、新渡戸は手を挙げた。
議長がこちらを見た。
「新渡戸先生」
「調査団の方へ、一つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
新渡戸は、午前よりゆっくり話した。
通訳の声を待った。
「島の学校で、子どもたちはどのような歌を歌っていましたか」
通訳が言葉を移した。
会議室が静かになった。
午前とは違う静けさだった。
誰かが身構えたわけではない。
誰かが反論しようとしているわけでもない。
何人かが、机の上の資料へ目を落とした。
調査員が報告書をめくった。
一枚。
また一枚。
紙の音だけが続いた。
やがて、調査員は顔を上げた。
「そこまでは、記録しておりません」
新渡戸は頷いた。
「ありがとうございます」
それ以上、何も言わなかった。
質問の意味を説明しようとは思わなかった。
説明すれば、午前と同じように、問いを自分の結論へ引き寄せてしまう気がした。
沈黙が続いた。
やがて、英国の委員が眼鏡を外した。
「学校の数は調査しました」
誰に向けるでもなく言った。
「使用されている言語も、教師の数も」
彼は資料を閉じた。
「しかし、そこで何が歌われていたかは見ていない」
フランス側の委員が、小さく頷いた。
「我々は文化を守ると話しながら、それを制度としてしか見ていなかったのかもしれません」
議長が、記録係へ目を向けた。
記録係のペンが動いた。
その音は小さかった。
だが新渡戸には、午前に広げられた地図よりも、ずっとはっきり聞こえた。
フィンランド代表は何も言わなかった。
スウェーデン代表も、すぐには口を開かなかった。
二人とも、自国に有利な材料として使える言葉を探しているようには見えなかった。
ただ、それぞれ別の何かを考えていた。
議長が次の議題へ進めた。
会議が大きく動いたわけではない。
結論が近づいたわけでもない。
だが、誰かが「文化」と言うたびに、その言葉の中に学校の教室が混ざるようになった。
黒板。
子どもの声。
音の外れた歌。
新渡戸は、それを手応えとは呼ばなかった。
午前よりは、少しましな問いだったのかもしれない。
その程度だった。
*
会議が終わると、男たちは席を立った。
握手をする。
帽子を手に取る。
明日もよろしく、と挨拶を交わす。
今日も、何も決まっていない。
新渡戸は自分の書類を鞄へ収めた。
二枚の地図は、まだ机に残っていた。
フィンランドから見た島。
スウェーデンから見た島。
どちらにも、人は描かれていない。
新渡戸は手帳を開いた。
午前に書いた文字があった。
航路について問う。
意を尽くさず。
その下に、午後のことを書いた。
歌について問う。
記録なし。
書いてから、少し考えた。
その横に小さく付け足した。
しかし、沈黙あり。
少し格好をつけすぎた気がした。
消そうか迷った。
結局、そのまま手帳を閉じた。
明日になれば、恥ずかしくなって消すかもしれない。
廊下へ出ると、午前の通訳が書類を抱えて立っていた。
「午後の質問は、伝わったようですね」
新渡戸は首を振った。
「分かりません」
「会議室の空気が変わりました」
「空気は、すぐ元に戻ります」
「それでも、一度は変わりました」
新渡戸は返事をしなかった。
通訳は少し笑った。
「歌には、興味がおありなのですか」
「いいえ」
答えてから、それも違う気がした。
「分かりません」
今日、何度目かの言葉だった。
通訳は今度こそ笑った。
「先生は、分からないことが多いのですね」
新渡戸は少し考えた。
「そのようです」
二人は別れた。
建物の外へ出ると、レマン湖の向こうに夕方の光が残っていた。
午前、新渡戸は問いを誤った。
午後、別の問いを置いた。
どちらも答えにはならなかった。
それでも明日、また会議がある。
新渡戸は湖に背を向け、ホテルへ向かって歩き始めた。




