第24話 クライアント「最適化?」
十人は、八人になった。
正確には、毎日現場に入る人数が八人になった。
十人のうち二人を外したわけではない。十人全員をローテーションにして、八人がこの現場に入り、残りの二人は別の現場へ行く。
翌日は、また違う八人。
小峠さんもその中にいる。ここにいる日もあれば、別の現場へ行く日もある。
シフトを組んだのは僕だった。
AIが選んだ八人をそのまま残すこともしなかったし、誰か二人を固定して外すこともしなかった。
全員の雇用は、そのまま残った。
シフト表で見る限り、きれいに収まっている。
ただ、二人を別の現場へ回したところで、会社全体の人件費が減ったわけではない。
今は他の現場に仕事があるから、そこへ置けている。
契約が一つ終わったら。
他の現場も同じように人数を見直したら。
新しい現場が取れなかったら。
そのときのことは、まだ考えないことにした。
今のところ、二人分の仕事はある。
今のところ。
*
八人で回すなら、仕事も整理する必要があった。
十人いた頃と同じことを全部やっていたら、八人にした意味がない。
これまで現場で行われていたことを一覧にして、大きく二つに分けた。
契約業務。
契約外業務。
日常清掃や定期清掃、写真報告は当然、契約業務に入る。
この前の倉庫の床は契約外。
台車のキャスターも契約外。
ホテル側からその場で頼まれるちょっとした作業や、スタッフが自分で見つけた契約範囲外の汚れも、そちらに入れた。
新人教育のところで、少し手が止まった。
契約外ではない。
でも、直接的な作業でもない。
とりあえず別枠に置いた。
全部がきれいに二つに分かれたわけではないけれど、運用するには十分だと思った。
*
八名体制が始まる前に、現場で短いミーティングをした。
「まず、契約業務を確実に終わらせることを優先してください」
何人かが頷いた。
「ホテル側から何か依頼があった場合も、契約外のものについては、一度管理者に確認してください」
新人が聞いた。
「全部ですか?」
「契約外なら、一度確認してください。やっちゃ駄目ってことではないです。確認してから対応しましょう」
「分かりました」
小峠さんも、
「分かりました」
と答えた。
誰も反対しなかった。
禁止するわけではない。
確認してからやる。
安全上も、その方がいい。
何かあったときの責任範囲も明確になる。
八人で契約業務を確実に終わらせる。そのためのルールとしては、かなり普通のものだと思った。
*
八名体制が始まった。
一日目。
問題なし。
二日目も問題なし。
三日目も同じだった。
作業完了率は100%。未完了は0件。異常報告も0件だった。
作業時間は想定の範囲内に収まり、残業も増えていない。写真も揃っているし、報告漏れもない。
その後も、大きく数字は変わらなかった。
八人でできる。
AIの予測は正しかった。
レポートを見ながら、少し安心した。
やっぱり、これでよかったのかもしれない。
*
数日後、ホテル側の担当者と話していた。
別件の確認が終わったところで、相手が何気なく言った。
「最近、何か変わりました?」
「何かありました?」
「いや、清掃自体は問題ないんです」
「はい」
「前だったら、ちょっとお願いすると、その場で見てもらえてたことが、最近『確認します』ってなることが増えた気がして」
「ああ」
「何かルール変わりました?」
「契約外のものについては、一度管理者に確認するようにしてまして」
「ああ、そういうことですか」
担当者は普通に頷いた。
「いや、それが正しいと思いますよ」
「すみません」
「いやいや。謝ることじゃないです」
少し笑ってから、
「ちょっと前と雰囲気が違うな、と思っただけです」
と言った。
「雰囲気?」
「いや、何て言うんですかね」
少し考えていたけれど、うまく言葉にならなかったらしい。
「まあ、気にしないでください。清掃自体は問題ないので」
「分かりました」
そのまま別れた。
*
会社へ戻って、レポートを開いた。
作業完了率は100%。
未完了0件。
異常報告0件。
正式なクレームも0件だった。
写真にも問題はなく、作業時間も想定内に収まっている。
清掃自体は問題ない。
担当者が言った通りだった。
ただ。
前と雰囲気が違う。
その一文だけは、レポートのどこにもなかった。
入力する場所もない。
顧客満足度。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
前にも一度、AIの入力欄に書いて消した気がする。
結局、その日も何もしなかった。
*
全部確認するから、以前より動きが遅く見える。
だったら、全部を確認する必要はないのかもしれない。
僕はルールを少し変えた。
安全上の問題がなく、短時間で対応可能な依頼については、現場判断で対応して構いません。それ以外は管理者へ確認してください。
禁止するわけではない。
何でも自由にやっていいわけでもない。
その間を作ったつもりだった。
これなら、契約業務を守りながら、以前のような現場の動きも残せる。
新しいルールを現場へ送った。
*
その夜、小峠はいつも通り厨房に入った。
今夜は八人だった。
最近は毎日、八人で回している。
小峠が別の現場へ行く日もある。
今日はここだった。
新人も一緒だった。
作業を始めてしばらくした頃、ホテルのスタッフがやってきた。
「すみません」
「はい」
「搬入でバックヤードの床が汚れちゃって。ちょっとだけ見てもらえますか?」
「分かりました」
小峠は手を止めて、バックヤードへ行った。
床に、台車を引きずったような黒い跡がついている。
「これです」
「ああ」
しゃがんで、指で少し擦ってみた。
落ちない。
でも、大した汚れには見えなかった。
新しいルールを思い出した。
安全上の問題がなく、短時間で対応可能な依頼については、現場判断で対応して構いません。
危なくはない。
そんなに時間もかからないだろう。
「これくらいなら大丈夫です」
「すみません。お願いします」
洗剤を吹きかけ、少し置いてから擦った。
黒い跡が薄くなる。
「取れそうですね」
新人が言った。
「そうですね」
もう少しだった。
近くに置かれていた荷物をずらすと、その奥にも跡が続いていた。
「あ」
「こっちもですね」
「ですね」
ここまでやって、奥だけ残すのも変だった。
もう一度洗剤を使う。
擦って、水を取る。
まだ少し残っている。
新人が時計を見た。
「次、そろそろ行った方がいいですか?」
小峠も時計を見た。
思っていたより時間が経っていた。
「そうですね。先行っててください」
「一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「分かりました」
新人が本来の持ち場へ向かった。
小峠は床に残った跡をもう一度擦った。
あと少し。
もう一度やれば取れそうだった。
それを何度か繰り返した。
ようやく黒い跡がほとんど見えなくなった。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
時計を見ると、三十分近く経っていた。
「結構かかりましたね」
「すみません」
「いや、大丈夫です」
小峠は道具を持って戻った。
*
新人は、もう本来の作業を進めていた。
「すみません。遅くなりました」
「大丈夫です。こっち進めてます」
「ありがとうございます」
予定よりは押している。
でも、取り戻せないほどではない。
小峠はいつもの順番を少し変えた。
「こっち先にやりましょう」
「はい」
二人で作業を進めた。
いつもより少し速かった。
終わりが見えてくると、新人がタブレットを開いた。
清掃後のチェックリストが並んでいる。
床面。
作業台。
排水口。
ゴミ回収。
項目を上から確認していく。
チェック。
チェック。
チェック。
指が止まらずに進んだ。
最後の項目まで入れる。
写真を撮る。
登録。
小峠が戻ってきた。
「終わりました?」
「はい」
「写真は?」
「入れました」
「チェックも?」
「はい」
小峠はタブレットを見た。
未完了は0件になっている。
「じゃあ大丈夫ですね」
「はい」
作業を終えた。
*
翌朝。
ホテルから電話が来た。
表示された名前を見て、少し姿勢を直した。
いつもの担当者ではなかった。
その上のマネージャーだった。
「おはようございます」
「おはようございます。朝からすみません」
「いえ、大丈夫です」
「昨日の清掃の件で、ちょっと確認したいことがありまして」
「はい」
「厨房に、昨夜のゴミが一袋残っていたそうです」
「申し訳ありません。すぐ確認します」
「対応自体は、もう現場でしてもらってます」
「そうですか」
「はい。ただ、ちょっと気になっていることがありまして」
声は穏やかだった。
「最近、御社の人工数、減りましたよね」
「はい。十名体制から八名体制に変更しています」
「やっぱりそうですよね」
「はい」
「それ自体が問題だと言いたいわけではないんです。契約している清掃がきちんとできる人数であれば、何人でやるかは基本的には御社の判断だと思っています」
「はい」
「ただ、現場から聞いている話だと、人工数が減った時期から、少し対応の仕方も変わっているようで」
黙って聞いた。
「以前は、その場でお願いして対応してもらっていたようなことが、一度確認します、という話になったり。そのあと、今度はまた現場判断で大丈夫ということになったり」
「はい」
「もちろん、こちらから契約外のことをお願いしているケースもあると思います。それは、こちらも整理しないといけないと思っています」
「ありがとうございます」
「ただ、人工数が減ったり、対応の方針が変わったり、また変わったりしているので、現場の方からは、今どういう運用になっているのか分かりづらいという声が上がっているんですね」
「……はい」
「そこに今回、清掃不備があったので」
少し間があった。
「八名体制にしたことと関係があるのかも含めて、一度確認していただきたいなと思いまして」
「分かりました」
すぐに答えてから、付け加えた。
「今のところ、八名体制でも契約業務自体は完了できています。作業時間や未完了の件数についても、大きな問題は出ていません」
「はい。それは現場からも聞いています」
「なので、今回の件については状況を確認して――」
「もちろん、それで大丈夫です」
マネージャーが言った。
「八人ではできない、と言っているわけではないので」
「はい」
「ただ」
また少し間があった。
「現場から見ると、人数が減ったことと、そのあと対応が変わっていることは、どうしても一緒に見えるんですよね」
「……そうですよね」
「なので、そこだけ一度整理していただければ」
「分かりました。確認して改めてご報告します」
「お願いします」
電話が切れた。
僕はしばらく、スマートフォンを持ったままでいた。
八人でできる。
それは、たぶん間違っていない。
実際、できていた。
でも。
マネージャーが聞いていたのは、そこだけではなかった。
*
システムを開いた。
昨夜の作業は完了になっている。
写真も登録されていた。
チェックリストを開く。
床面。
チェック。
作業台。
チェック。
排水口。
チェック。
ゴミ回収。
チェック。
そこにも、ちゃんと入っていた。
現場の管理者に連絡して、昨夜の流れを確認した。
途中でホテルから追加の依頼があったこと。
小峠さんが対応したこと。
想定より時間がかかったこと。
新人が先に本来の持ち場へ戻ったこと。
その後の作業が少し押したこと。
新人にも聞いた。
「昨日、ゴミ回収した?」
少し間があった。
「……すみません。一個、残したかもしれません」
「チェック入ってるけど」
「最後にまとめて確認したときに……」
「回収したと思った?」
「はい」
「分かりました」
それ以上は言わなかった。
ゴミが一袋残った。
それだけなら、単純な清掃不備だった。
でも、今朝の電話はそれだけの話ではなかった。
最初に僕が決めた。
契約外なら、一度確認する。
ホテルから、前と雰囲気が違うと言われた。
だから変えた。
短時間なら、現場で判断していい。
その結果、追加作業に三十分かかった。
本来業務が押した。
ゴミが残った。
そして今度は、方針が変わって現場が困惑していると言われた。
僕は自分が送った文章を開いた。
安全上の問題がなく、短時間で対応可能な依頼については、現場判断で対応して構いません。
昨日までは、かなり明確な文章に見えていた。
今日は、そうでもなかった。
短時間とは何分なのか。
対応可能かどうかは、始める前に分かるのか。
現場判断と言っても、ホテル側とこちら側で同じものを見ているのか。
最初のルールにも理由があった。
二つ目のルールにも理由があった。
どちらも、間違ったことをしようとして作ったわけではない。
それなのに、変えるたびに少しずつ分かりにくくなっていた。
*
夕方、小峠さんから電話が来た。
「昨日の件、すみませんでした」
「いや、小峠さんのせいじゃないです」
「でも、途中で止めた方がよかったですね」
僕はすぐには答えられなかった。
「思ったより時間かかったんで」
「そうですね」
「次から、時間かかりそうなら確認入れます」
「……いや」
「はい?」
確認を入れる。
それは最初のルールだった。
「ちょっと待ってください。ルール、もう一回考えます」
「分かりました」
電話を切った。
最初のルールと、二つ目のルールを並べた。
契約外なら、一度管理者に確認する。
安全上の問題がなく、短時間で対応可能なら、現場判断で対応してよい。
一つ目では、前と雰囲気が違うと言われた。
二つ目では、本来業務が抜けた。
どちらも、それなりに正しい。
どちらもうまくいかなかった。
*
翌日のシフトを開いた。
この現場に八人。
別の現場へ二人。
翌々日も八人。
別の二人。
その次も同じだった。
全部、自分で組んだシフトだった。
今日のことだけを見れば、十人いた方がよかったようにも思える。
でも、それも違う。
八人で契約業務はできていた。
何日も問題なく回った。
今回、時間が押したのは契約外の仕事を入れたからだ。
なら、契約外は禁止する。
そこまで考えて、止まった。
それは一度やった。
清掃自体は問題ないんです。
前と雰囲気が違う。
担当者の声が戻ってくる。
今日、別の現場へ行っていた二人の名前を見た。
もし、あの二人もここにいたら。
バックヤードへ三十分取られても、本来業務は押さなかったかもしれない。
だからといって、そのために毎日二人を置いておくのか。
何も起きない日のために。
何かが起きるかもしれない日のために。
その二人分の人件費を払い続けるのか。
別の現場へ回せば、その分の余裕はなくなる。
ここに残せば、利益は減る。
しかも今は、別の現場に仕事があるだけだ。
今のところ。
シフト表を閉じた。
*
家に帰ると、妻がリビングで洗濯物を畳んでいた。
僕はソファに座って、今日のことを話した。
「最初、契約外のことは勝手にやらないでってルールにしたんだよ」
「うん」
「そしたら、ホテルから前と雰囲気が違うって言われて」
妻はタオルを畳んでいる。
「だから、できる範囲ならやっていいって変えたの」
「うん」
「そしたら今度は、そっちに時間取られて、本来の仕事が抜けた」
「大変だね」
「どっちなんだよって話なんだよ」
「何が?」
「やるのか、やらないのか」
「ふうん」
妻は靴下を一つ持ち上げた。
片方が見つからないらしい。
洗濯物の山を少し探してから言った。
「どっちかじゃなきゃダメなの?」
「え?」
「あった」
ソファの端からもう片方を取った。
「いや、知らないけど」
二つを重ねて、畳んだ。
僕は何も言わなかった。
妻は次の洗濯物を取った。
*
夜。
なかなか眠れなかった。
パソコンを開いて、いつものようにAIを立ち上げた。
入力欄にカーソルが点滅している。
契約外業務の適切な――
そこまで考えて、やめた。
現場判断の基準。
八名体制における余剰。
顧客満足度。
いくつか言葉は浮かんだ。
でも、何を聞きたいのかが分からなかった。
AIを閉じた。
デスクトップにファイルが並んでいる。
その中に、自分が書いていた小説があった。
開く。
目次を少し眺めてから、第十八話を押した。
1921年。
ジュネーブ。
少し前に自分で書いた文章なのに、ずいぶん前のものに見えた。
読み進める。
主権。
少し離れて、
暮らし。
その先には、言語、文化、教育、自治、安全保障という言葉が並んでいた。
さらにスクロールする。
そこで、手が止まった。
線は一本しか引けないと、思っていたのです。
僕はその一文を読んだ。
もう一度読んだ。
その先へは進まず、少し上に戻った。
主権。
少し離れて、
暮らし。
僕は、その二つの言葉の間をしばらく見ていた。




