第2話 この歌は、どっちの国のものなのか
「先生、これはスウェーデンの歌ですか」
少年が、黒板を見上げてそう言った。
エリン・カールソンは、白墨を持ったまま止まった。
教室の窓際では、薪ストーブが小さく鳴っていた。
火がはぜる音は、子どもたちのざわざわした声よりも少しだけ大人びて聞こえる。
壁には外套が並んでいる。
濡れた羊毛の匂いがする。
床には、子どもたちの靴についた泥と砂が落ちている。
きれいな教室ではなかった。
でも、子どもが毎日来る場所なんて、たぶんそれでいい。
少し汚れている方が、ちゃんと使われている感じがする。
黒板には、スウェーデン語の歌詞が途中まで書かれていた。
エリンが子どもの頃、母から教わった歌だった。
島の子どもなら、だいたい知っている。
すごく立派な歌というわけではない。
有名な作曲家が作ったわけでもない。
たぶん、どこかの家で、誰かが何度も歌っているうちに残った歌だ。
歌というのは、そういうものだと思う。
誰が作ったのかわからない。
いつからあるのかもわからない。
でも、なぜかみんな知っている。
知らないはずなのに、聞くと少しだけ懐かしい。
そういうものは、だいたい厄介だ。
書類にしづらいからだ。
「どうして、そんなことを聞くの」
エリンは、できるだけ普通の声で聞いた。
少年は少し迷ったあとで言った。
「父さんが、これからはフィンランドの歌も覚えないといけないかもしれないって」
教室が静かになった。
さっきまで机の下で足を揺らしていた子も、インク壺のふたを開けたり閉めたりしていた子も、顔を上げた。
こういう時、子どもは急に静かになる。
大人は、子どもは何もわかっていないと思いがちだ。
でもたぶん、それは大人の願望だ。
子どもは、話の中身を全部わかっていなくても、大人が急に声を小さくする瞬間は知っている。
夕食の席で父親が新聞を畳む音。
港で男たちが黙る瞬間。
教会の前で母親たちが目を合わせる感じ。
そういうものを、子どもは案外ちゃんと見ている。
「歌はね」
エリンは言いかけた。
言いかけて、少し困った。
歌は誰のものでもない。
そう言えば、たぶん先生っぽい。
悪くない答えだ。
大人としても、教育者としても、まあまあ安全な答えだと思う。
でも、本当にそうなのか。
歌は誰のものでもない。
それはきれいな言葉だ。
ただ、きれいな言葉は時々、現場で役に立たない。
歌は誰のものでもないと言いながら、学校で教える歌は誰かが決める。
どの言葉で歌うかも、誰かが決める。
式典で歌う歌も、教会で歌う歌も、役所が何かを決め始めると、急に国の匂いがしてくる。
歌は国のために生まれたわけではない。
でも国は、歌を放っておいてはくれない。
それが面倒だった。
エリンは白墨を黒板の溝に置いた。
「今日は、もう一度最初から歌いましょう」
子どもたちは椅子の上で姿勢を直した。
エリンは小さく息を吸って、最初の音を出した。
高すぎず、低すぎず。
子どもたちが入ってきやすい高さ。
一人、また一人と声が重なった。
少し音程の外れた声。
恥ずかしそうな声。
やたら大きな声。
まだ言葉の意味を全部わかっていない声。
完璧な合唱ではなかった。
でも、たぶん大事なのはそこではない。
歌というのは、効率が悪い。
一度で伝えればいいことを、何度も繰り返す。
同じ旋律を、子どもも大人も老人も歌う。
歌詞を間違えて、笑って、また最初から歌う。
無駄が多い。
でも、そういう無駄な繰り返しでしか残らないものがある。
エリンは、それを知っていた。
たぶん、言葉ではなく身体で知っていた。
この歌は、教科書より先に子どもの中へ入っていく。
意味より先に、声の高さで入っていく。
文字より先に、母親の息づかいで入っていく。
そういうものを奪われることは、たぶん、一曲減るという話ではない。
自分がどこで育ったのか。
誰の声を聞いて安心したのか。
冬の夜にどんな匂いがしていたのか。
そういうものが、少しずつ薄くなるということだ。
それは、かなり嫌だった。
オーランド諸島。
バルト海に浮かぶ、小さな島々。
海の上に、線は見えない。
でも地図には線がある。
地図というのは便利だ。
便利だから怖い。
小さな島々も、地図の上では点になる。
海も、色を塗られた面になる。
そこに住んでいる人の声や、港の匂いや、子どもの歌は、だいたい省略される。
省略しないと、地図にならないからだ。
それはわかる。
わかるけど、やっぱり少し乱暴だと思う。
戦争は終わったはずだった。
ヨーロッパ中を焼いた大きな戦争が終わり、多くの帝国が崩れ、地図は何度も書き換えられた。
フィンランドはロシア帝国から独立した。
新しい国が生まれた。
それはきっと、喜ぶべきことだった。
大きな国に支配されていた人たちが、自分たちの国を持つ。
その願いを、簡単に否定できるはずがない。
ただ、話はそこで終わらなかった。
オーランドの人々は、スウェーデン語を話していた。
家でも。
学校でも。
教会でも。
市場でも。
港でも。
子どもが最初に覚える祈りも、母親が寝る前に歌う歌も、漁師たちが風向きを見ながら交わす短い言葉も、スウェーデン語だった。
それなのに、地図の上では、そこはフィンランドだった。
フィンランドが悪い、という話ではない。
そこを間違えると、たぶんこの話は急に安くなる。
フィンランドにはフィンランドの事情がある。
独立したばかりの国が、自分たちの領土を守ろうとする。
それは当然だ。
スウェーデンにもスウェーデンの事情がある。
同じ言葉を話す島民を守りたい。
それもわかる。
島民には島民の事情がある。
自分たちの言葉で暮らしたい。
子どもに自分たちの歌を教えたい。
これも、かなりわかる。
全部わかる。
全部わかるから、面倒くさい。
正しい人と間違った人がいる話なら、まだ楽だ。
でも現実はだいたい、正しい人同士がぶつかる。
そして正しい人同士がぶつかる時ほど、声が大きくなる。
授業が終わると、子どもたちは外へ飛び出していった。
廊下に靴音が響く。
外套の袖に手を通せず、友人に引っ張られている子がいる。
年長の少女が、小さな子の帽子の紐を結び直している。
エリンは黒板の前に残った。
歌詞を消そうとして、手が止まった。
これはスウェーデンの歌ですか。
少年の声が、まだ教室の中に残っている気がした。
たぶん、子どもは残酷な質問をしようと思って聞いたわけではない。
ただ聞いただけだ。
でも、ただ聞いただけの質問が、一番逃げ場をなくすことがある。
夕方、エリンは港へ向かった。
風は朝より強くなっていた。
海は低くうねっている。
船の縄が柱に当たり、鈍い音を立てていた。
網を畳む男たちの手は赤かった。
指先が割れている人もいた。
父は古い木箱に腰を下ろして、煙草を巻いていた。
「今日は遅かったな」
「学校で少し」
「子どもたちは元気か」
「元気」
エリンはそう答えてから、少し間を置いた。
「歌のことで、聞かれた」
父は手を止めた。
「何を」
「これはスウェーデンの歌なのかって」
父は黙った。
それから、巻きかけの煙草を指先で転がしながら、海を見た。
「子どもに、そんなことを考えさせるのはよくない」
「私が考えさせたわけじゃない」
「わかってる」
父は小さく息を吐いた。
「大人が考えている。だから子どもも考える」
港の向こうには霧が出始めていた。
島影は薄く、海と空の境目も曖昧だった。
「戦争になると思う?」
エリンは聞いた。
父はすぐには答えなかった。
父は若い頃から漁師だった。
海で何度も死にかけたと言っていた。
冬の海に落ちかけたこともある。
船が岩に乗り上げたこともある。
それでも父は、海より人間の方が怖いと言う。
海は、荒れる時は荒れる。
わかりやすい。
人間は、正しい顔で近づいてくる。
そこが怖いらしい。
「なるかもしれないと思う者が、戦争を近づける」
父は言った。
「ならないと信じすぎる者もな」
エリンは父の横顔を見た。
「兄さんは、また書いているの?」
父は頷いた。
「もう黙っている時ではない、と」
兄らしい言葉だった。
エリンの兄は、数年前に島を出て、ストックホルムの新聞社で働いていた。
オーランドの帰属問題について、熱心に記事を書いている。
島民の声を外へ出すべきだ。
スウェーデンへの帰属を求めるべきだ。
自分たちの文化を守るためには、今こそ主張すべきだ。
兄の言葉はいつもまっすぐだった。
エリンは、そのまっすぐさが少し羨ましかった。
同時に、少し怖かった。
迷いのない人間は、歩くのが速い。
そして時々、後ろで立ち止まっている人間に気づかない。
「兄さんは間違っていると思う?」
エリンは聞いた。
父は煙草に火をつけなかった。
指の間で、ただ紙巻きを転がしていた。
「間違ってはいない」
「なら」
「間違っていないことは、人を安全にするとは限らない」
それは、海風より冷たい言葉だった。
父は怒っているわけではなかった。
ただ恐れていた。
歌を守りたい気持ちもわかる。
言葉を守りたい気持ちもわかる。
でも、そのために誰かが死んだら、何を守ったことになるのか。
父は、そういうことを考えているのだと思う。
その夜、エリンは小さな机に向かっていた。
窓の外は暗く、海は見えない。
でも、そこにあることはわかる。
島と島のあいだを、黒い水が満たしている。
机の上には、兄からの手紙があった。
エリンへ。
こちらでは、オーランドの問題が大きく扱われている。
君たちの声を、もっと外に出すべきだ。
島民の意思は明らかだ。
スウェーデンに帰るべきだ。
君が学校で教えている読み書きや歴史も、ただの授業ではない。
子どもたちが、自分たちを何者として覚えていくかに関わることだ。
それは、黙っていて守られるものではない。
もう黙っている時ではない。
エリンは、その一文を何度も読んだ。
もう黙っている時ではない。
兄は正しいのかもしれない。
沈黙していれば、少しずつ変えられていく。
最初は書類。
次に学校。
その次に歌。
最後には、自分たちが何を失ったのかさえ、わからなくなる。
ただ、声を上げることは、いつも誰かを近づける。
味方も来る。
敵も来る。
政治家も来る。
たぶん、兵士も来る。
声を上げるというのは、そういうことだ。
エリンはランプの火を少し弱めた。
机の端には、父が港から持ち帰った新聞も置かれていた。
紙面には、大きく「国際連盟」という文字が印刷されている。
ジュネーブで、この問題が話し合われるらしい。
島の人々の暮らしが、遠く離れた会議室で決められる。
この風を知らない人たちが。
この歌を聞いたことのない人たちが。
子どもたちの声も、父の手の傷も、港の匂いも知らない人たちが。
地図を広げ、言葉を選び、線について話し合う。
たぶん、それも必要なのだ。
誰かがどこかで話し合わなければ、最後は武器が出てくる。
それは父の言う通りだ。
でも、会議室は現場から遠い。
遠いから冷静でいられる。
遠いから決められる。
遠いから、取りこぼす。
たぶん全部そうだ。
翌朝、学校へ行くと、昨日の少年が誰より早く教室に来ていた。
彼は机の上にノートを広げ、自分の名前を何度も書いていた。
少し曲がった文字で。
ところどころ、インクを滲ませながら。
「早いのね」
エリンが声をかけると、少年は顔を上げた。
「先生」
「なに?」
「役所では、名前も違うふうに書くのですか」
エリンは、また答えられなかった。
昨日は歌だった。
今日は名前だった。
子どもは、ちゃんと大事なところを突いてくる。
国境というものは、海の上にだけ引かれるのではない。
子どものノートの上にも入り込んでくる。
エリンは少年の横に立ち、ノートを見た。
小さな手で書かれた名前。
まだ不揃いで、頼りない。
でも、その子の名前だった。
「あなたの名前は、あなたのものよ」
エリンは言った。
少年は少し考えてから聞いた。
「書く人が変わっても?」
エリンは返事を探した。
役所の言葉が変わっても。
学校の教科書が変わっても。
歌う歌が変わっても。
本当に名前は、その子のもののままでいられるのだろうか。
教室の窓の外で、風が鳴った。
エリンは少年のノートに目を落としたまま、静かに言った。
「少なくとも、ここでは」
少年は彼女を見た。
「この教室では、あなたの名前は、あなたのものです」
小さな約束だった。
小さすぎて、国際連盟の議題にはならない。
新聞にも載らない。
港の男たちの議論にもたぶん出てこない。
でも、教師にできる約束は、だいたいそういう大きさなのだと思う。
島の未来を決めることはできない。
国境を変えることもできない。
兵士を止めることもできない。
それでも、今この教室で、子どもの名前をその子のものとして呼ぶことはできる。
歌を歌わせることはできる。
それだけは、まだできる。
エリンは黒板の前に立った。
白墨を取り、昨日の歌の続きを書いた。
子どもたちが一人、また一人と教室に入ってくる。
濡れた外套を脱ぎ、椅子を引き、インク壺を確かめる。
「今日は何を歌うのですか」
誰かが聞いた。
エリンは黒板を見た。
母から教わった古い歌。
たぶん、役には立たない歌。
でも役に立たないからこそ、簡単に捨ててはいけない気がする歌。
「昨日の続きを」
そう言って、彼女は最初の音を出した。
子どもたちの声が重なる。
不揃いで、少し頼りなくて、でも確かにそこにある声だった。
遠く離れたジュネーブでは、まだ誰もこの歌を知らない。
フィンランドの代表も、スウェーデンの代表も、国際連盟の人々も、この教室の薪の匂いを知らない。
それでも彼らは、決めるのだ。
どこかの会議室で。
紙の上で。
きちんとした言葉で。
この島が何であるのかを。
エリンは歌いながら、ふと思った。
どうか、誰もこの島を勝ち取らないでほしい。
勝ち取られた島には、必ず負けた人間が残る。
窓の外では、霧が海を隠していた。
海の上に、線は見えなかった。
ただ子どもたちは、その朝から少しだけ、歌う前に国の名前を気にするようになった。




