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第1話 使える人、使えない人

その日、僕はひとりの人間を、心の中で「使えない側」に置いた。


もちろん、そんな言葉は口に出していない。


誰かにそう説明したわけでもない。

社内の資料にも、LINEの文章にも、そんな乱暴な言葉は一度も書いていない。


ただ、頭の中で分けただけだ。


使える人。

使えない人。


任せられる人。

任せられない人。


変われる人。

変われない人。


残る人。

残れない人。


そこまで考えて、自分で少し嫌になった。


会社を守るためだ、と言えば聞こえはいい。

実際、それは嘘ではなかった。


人が足りない。

現場は増えている。

社員もアルバイトも疲れている。

昼の現場にも、夜の現場にも、それぞれ別の種類の問題がある。


備品が足りない。

写真がない。

報告が遅い。

誰に伝えたかわからない。

LINEのグループは夜中でも鳴る。

朝起きると、未読が二十件を超えていることもある。


現場の人間は現場で戦っている。

管理側は管理側で、情報の整理に追われている。


だから、仕組みが必要だった。


僕は最近、小さなシステムを作った。


LINEに写真を送る。

すると、画面に選択肢が出る。

現場名や作業名を選ぶ。

それだけで、写真がGoogleドライブの決まったフォルダに自動で保存される。


日付ごとに分かれる。

現場ごとに分かれる。

作業内容ごとに分かれる。


誰かがフォルダ名を考える必要はない。

あとから探す必要もない。

送った写真が、勝手に正しい場所へ収まっていく。


名前は、SaveActionにした。


そのまますぎる名前だとは思った。

でも、現場で使うものは、洒落ているより伝わる方がいい。


最初に動いた時、僕は少し感動した。


LINEに写真を投げる。

選択肢を押す。

ドライブを開く。

そこに写真が入っている。


たったそれだけのことなのに、世界が少しだけ賢くなった気がした。


これは使える。

現場が楽になる。

報告の精度も上がる。

うまく広げれば、他の現場にも展開できる。


そう思った。


実際、若いスタッフの反応は早かった。


「これ便利ですね」

「前後写真、探しやすいです」

「現場名を選ぶだけなら楽です」


そう言われるたびに、僕は安心した。


自分がやっていることは間違っていない。

現場の負担を減らせている。

人手不足の現場を、少しでも仕組みで支えられている。


何かを作ることは、誰かを救うことだと思いたかった。


でも、全員が同じように受け取ったわけではなかった。


朝の五時半。


キッチンの窓の外はまだ暗かった。

マンションの向こうに、少しだけ青い朝が滲んでいる。


スマートフォンの画面には、未読のLINEが十七件残っていた。


一件目は欠勤連絡。

二件目はシフト変更の相談。

三件目は、昨日の夜に使った薬剤の残量報告。

四件目は、写真保存のやり方がわからないという質問だった。


その質問を送ってきたのは、古くから現場を見てくれているスタッフだった。


仕事は丁寧だ。

人当たりもいい。

現場の細かい変化にもよく気がつく。


床の濡れ方。

排水の匂い。

スタッフの表情。

そういう、資料には残らないものをよく見ている。


僕はその人に、何度も助けられてきた。


ただ、スマートフォンの操作や、新しい仕組みは得意ではない。


フォーム。

リンク。

ドライブ。

クイックリプライ。


そういう言葉が出るだけで、少し身構えてしまう。


LINEには、短くこう書かれていた。


「すみません。やっぱり私には難しいかもしれません」


僕はその一文を、しばらく見ていた。


たったそれだけの文章なのに、送るまでに何度も打っては消した跡が見えるような気がした。


わからない、と言うこと。

できない、と言うこと。


それはたぶん、思っているより勇気がいる。

大人になると、できないことは罪のような顔をして近づいてくる。


それなのに僕は、その文章を見た瞬間、頭のどこかでこう思ってしまった。


この人は、これから厳しいかもしれない。


思った瞬間、胸の奥が少し冷えた。


ひどいな、と思った。


この人は仕事ができないわけではない。

むしろ、現場では必要な人だ。


若いスタッフが見落とす汚れに気づく。

誰も言わない違和感を拾う。

雑な人間には見えないものを、ちゃんと見ている。


それでも僕は、たった一つの新しい仕組みに乗れないという理由で、その人を「向こう側」に置こうとしていた。


使える人。

使えない人。


変われる人。

変われない人。


分類は便利だった。

便利なものは、だいたい少し残酷だ。


でも、実際の仕事では、その分類を完全には避けられない。


誰に任せるのか。

誰をどの現場に置くのか。

誰に説明すれば回るのか。

誰には別のやり方を用意しなければいけないのか。


判断しなければならない。

線を引かなければならない。


曖昧にしたままでは、現場は回らない。

けれど、その判断は時々、人を切る刃にもなる。


僕はコーヒーを淹れようとして、途中で手を止めた。


スマートフォンに、ニュースの通知が出ていた。


国境近くで砲撃。

無人機による攻撃。

避難民。

停戦交渉は難航。


見出しだけを読んで、画面を閉じた。


遠い国の話だと思った。

そう思った自分に、少し嫌気がさした。


地図に引かれた一本の線をめぐって、人が死んでいる。

言葉や民族や宗教や歴史をめぐって、今も誰かが武器を取っている。

二十一世紀になっても、兵器は飛び交い、血は流れ続けている。


もちろん、それと朝の台所で見ているLINEのやり取りを同じものだと言うつもりはない。


痛みの大きさが違いすぎる。

同じ場所に並べること自体が、失礼なのかもしれない。


それでも、ひとつだけ似ているものがある気がした。


人は線を引く。


国と国のあいだに。

民族と民族のあいだに。

会社の中に。

現場の中に。

自分の頭の中に。


守るために線を引く。

整理するために線を引く。

責任を持つために線を引く。


そしていつの間にか、その線の向こう側にいる人の顔を忘れる。


机の上に、一冊の古本が置いてあった。


数日前に買ったものだった。

表紙の端は少し焼けていて、ページをめくると乾いた紙の匂いがした。


新渡戸稲造。


僕が知っていることは少なかった。


昔の五千円札の人。

『武士道』を書いた人。

国際連盟で働いた人。


その程度だった。


その名前を思い出したのは、偶然見つけた記事がきっかけだった。


オーランド諸島。


フィンランドとスウェーデンのあいだ、バルト海に浮かぶ島々。

第一次世界大戦後、その島々をめぐって両国が対立した。


島民の多くはスウェーデン語を話し、スウェーデンへの帰属を望んだ。

一方で、独立したばかりのフィンランドにとって、領土を守ることは譲れない問題だった。


スウェーデンには、スウェーデンの正しさがあった。

フィンランドには、フィンランドの正しさがあった。

島民には、島民の生活があった。


どちらか一方だけが悪いわけではない。

だからこそ、争いは深くなる。


そしてその問題は、血を流さずに解決された。


オーランド諸島はフィンランド領に残る。

その代わり、自治が認められ、スウェーデン語の文化が守られ、島々は非武装化される。


国境を変えるのではなく、国境の意味を変えた。


その一文が、頭のどこかに刺さっていた。


国境の意味を変える。


そんなことが、本当にできるのだろうか。


線は引くしかない。

でも、その線が何を分けるのかは変えられるのかもしれない。


捨てるための線ではなく、つなぎ直すための線。


そういう線が、本当にあるのなら。


僕はもう一度、スマートフォンを手に取った。


「すみません。やっぱり私には難しいかもしれません」


返信欄に、いくつか言葉を打っては消した。


「慣れれば簡単です」


違う。


「今後必要な作業なのでお願いします」


正しい。

でも、正しいだけだった。


「わからないところを教えてください」


それも違う気がした。


しばらく考えてから、こう打った。


「今日、少し電話できますか。やり方を変えた方がいいかもしれません」


送信した後、僕はしばらく画面を見ていた。


やり方を変える。


それは、仕組みを諦めるということではない。

昔のやり方に戻すということでもない。


ただ、今の線の引き方を少し変えるということだった。


僕は古本を開いた。


武士道。


その言葉には、ずっと遠い響きがあった。


刀。

覚悟。

死。

名誉。


でも、もしもうひとつの武士道があるとしたら。


刀を抜くことではなく、刀を抜かずに済む道を探すこと。

勝つことではなく、誰も殺さない形を引き受けること。

線を消すことではなく、引いてしまった線の意味を変えること。


そんなものが、本当にあったのだろうか。


外が少しずつ明るくなっていた。


世界はまた線を引き始めている。


地図の上にも。

人のあいだにも。

画面の中にも。

会社の中にも。


そして、たぶん僕自身の中にも。


その線を、ただの分断にしないために、何ができるのか。


答えはまだなかった。


ただ、百年前の北欧に、その問いの欠片が落ちている気がした。


僕は最初のページをめくった。



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