第13話 「勇」――恐れないのではなく、何を恐れるのかを知れ
学校日誌は、昨日と同じ場所に置かれていた。
新渡戸の机の右端。
会議録の束の横。
昨日までは、行政報告や請願書の下に埋もれていた。外交文書としての重要度を示す印もなく、会議で読み上げられる予定もなかった。
今朝は、何にも覆われていなかった。
ヨハンは部屋に入ると、その位置が変わっていることに気づいた。
新渡戸は窓のそばに立ち、薄い朝の光を返すレマン湖を見ていた。
机の上には、本日の予定表が開かれている。
「九時より、スウェーデン代表との会談です」
ヨハンが読み上げた。
「午後一時半から、フィンランド代表。その後、事務局との打ち合わせが入っています」
「分かりました」
新渡戸は席に戻った。
学校日誌を開くことはせず、表紙の上に手を置いた。
「今日は、別々に話を聞かれるのですね」
「ええ」
「議題は、これまでと同じでしょうか」
新渡戸は少し考えた。
「議題は同じです」
それから、日誌から手を離した。
「問いを変えてみようと思います」
ヨハンは予定表から顔を上げた。
何を尋ねるのか聞こうとしたが、新渡戸はすでに机の上の資料へ目を移していた。
ヨハンも、それ以上は尋ねなかった。
壁の時計が、低い音を立てた。
*
恐れないことが、勇なのではない。
新渡戸は、誰もいなくなった部屋で、以前に自分が書いた言葉を思い返していた。
危険を前にしても退かないこと。
死を恐れずに進むこと。
世間では、そうした姿が勇気として語られることが多い。
だが、恐れを知らずに進むだけなら、それは無謀と見分けがつかない。
何を恐れるべきか。
何を恐れる必要がないのか。
それを見極めた上で、進むべきところへ進む。
勇とは、そういうものではなかったか。
人に恐れがあるのなら、国家にも恐れがあるのだろうか。
領土を失うこと。
言葉を失うこと。
名誉を失うこと。
未来を失うこと。
会議室では、それらは別の言葉で語られてきた。
主権。
民族自決。
文化的権利。
領土保全。
秩序。
どれも必要な言葉だった。
しかし、必要な言葉であるほど、その奥にあるものを隠すことがある。
新渡戸は学校日誌へ目を向けた。
子どもたちは、自分で選んだわけではない言葉を覚え始めている。
子どもたちが覚えているのは、言葉だけではないのかもしれない。
その言葉を口にした大人たちの恐れも、一緒に受け取っている。
ならば、見定めなければならない。
両国は、本当は何を恐れているのか。
扉が叩かれた。
*
スウェーデン代表は、これまでの会議と同じ資料を持って入ってきた。
挨拶を交わし、向かいの椅子へ座る。
ヨハンは少し離れた席で速記帳を開いた。
「まず、我が国の立場を改めてご説明いたします」
代表は資料の最初の頁を開いた。
「島の住民の大多数は、スウェーデン語を母語としています。学校、教会、家庭生活、そのいずれにおいても、彼らは長くスウェーデンの文化の中で暮らしてきました」
整った言葉だった。
何度も会議で語られてきた内容でもある。
「彼らの民族的意思を無視することはできません。島をフィンランド領にとどめるならば、たとえ現在は権利が保障されたとしても、将来、文化的な同化が進むおそれがあります」
新渡戸は反論しなかった。
資料にも目を落とさなかった。
代表の顔を見ていた。
「同化を、恐れておられるのですね」
「当然です」
「そのとき、何が失われるのでしょう」
「申し上げたとおり、島民の言語と文化です」
「言語が失われるとき、誰が傷つくのでしょう」
代表は答えようとして、わずかに口を閉じた。
「島民です」
そう言ってから、自分の返答を確かめるように、短く息をついた。
新渡戸は続けた。
「あなた方は、何を得ようとしているのですか」
代表の表情に、わずかな緊張が走った。
だが、新渡戸は首を振った。
「失礼。尋ね方を変えます」
部屋の中で、時計の針が進む音が聞こえた。
「何を失うことを、恐れているのでしょう」
代表は資料へ目を落とした。
どの頁を見ているのかは分からなかった。
「先ほど申し上げたとおりです。島民の言語と文化を――」
「ええ」
新渡戸は遮らず、静かに頷いた。
「その言語と文化が失われたとき、あなた方自身は何を失うのでしょう」
代表の指が、資料の端で止まった。
「我々自身、ですか」
「はい」
長い沈黙ではなかった。
しかし、会議の場で生まれる沈黙とは少し違っていた。
反論を考える時間ではない。
どの表現なら自国の立場を損なわないか、選ぶ時間でもない。
代表は、机の上に置いた自分の手を見た。
「私は、島を訪れたことがあります」
ヨハンのペンが動いた。
「幼い頃に、一度だけです。母方の親族が住んでいました」
代表は苦笑した。
「もう、ずいぶん昔のことですが」
新渡戸は何も言わなかった。
「教会では、皆が同じ言葉で祈っていました。夕方になると、家の前で歌を歌う。子どもたちは意味をすべて理解していたわけではないでしょう。それでも、大人の声に合わせていました」
「どのような歌でしたか」
「古い歌です」
代表は、題名を言おうとしてやめた。
「題名は、よく覚えていません。ただ、母も同じ歌を歌っていました」
言語。
文化。
民族的権利。
それまで整っていた代表の言葉が、少しずつ暮らしの言葉へ変わっていった。
「言葉が変われば、歌も変わるのでしょうか」
新渡戸が尋ねた。
「変わらずに残るものもあるでしょう」
「では、何を恐れておられるのですか」
代表は窓の方を見た。
「少しずつ遠くなることです」
「遠くなる」
「初めは、学校で使われる言葉が変わるだけかもしれません。次に、役所の言葉が変わる。若い者が島を離れ、別の場所で暮らす。家で歌われていた歌を、子どもが知らなくなる」
代表は、自分の話が外交の領域から離れていることに気づいたようだった。
一度、背筋を伸ばした。
「もちろん、これは私個人の感傷です。政府の公式な主張ではありません」
「承知しています」
「我々が求めているのは、あくまで島民の意思の尊重です」
「ええ」
新渡戸は、それ以上追わなかった。
代表は資料を閉じかけ、また開いた。
「ただ」
声が少し低くなった。
「島の人々が、いつか我々を必要としなくなることを恐れているのかもしれません」
ヨハンが顔を上げた。
代表は、ヨハンを見なかった。
「我々と同じ言葉を話していた人々が、少しずつ別の国の人々になっていく。やがて、同じ歌を知っていたことも、同じ名を持っていたことも、意味を失っていく」
代表は、しばらく言葉を探した。
「忘れられることを、恐れているのかもしれません」
新渡戸は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、その言葉が机の上に置かれるのを待つように、黙っていた。
*
会談が終わると、ヨハンは速記帳を見返した。
正式な記録として残すべき言葉には、印をつける。
民族的権利。
言語的保護。
文化的同一性。
島民の意思。
どれも、これまでの記録にあった。
頁の端に、先ほどの言葉が残っている。
忘れられることを、恐れているのかもしれません。
ヨハンは、その一文の前後を見た。
正式な主張ではない。
代表自身も、個人的な感傷だと断っている。
会談記録に残すなら、削るべき言葉かもしれなかった。
ヨハンはペン先を置いた。
線を引こうとして、止めた。
余白に、小さく書き直した。
忘れられることへの恐れ。
そのまま、速記帳を閉じた。
*
午後のフィンランド代表は、部屋に入ったときから表情が硬かった。
「本日は、個別にお話を伺いたいとのことでしたが」
「はい」
「我々の立場は、すでに十分お伝えしたつもりです」
「承知しています」
代表は席へ着き、書類を机の上に置いた。
「フィンランドは、ようやく自らの意思で立つ国になったのです」
挨拶の続きを飛ばすように、すぐに話し始めた。
「領土の帰属を民族感情だけで変更するなら、独立国家の原則が損なわれます。一度でも譲歩すれば、同様の要求が各地で起こりかねません」
声には怒りより、焦りがあった。
「我々は、島民の言語と文化を否定しているわけではありません。自治も、言語保障も認める用意があります。しかし主権は別です」
新渡戸は頷いた。
「領土を失うことを、恐れておられるのですね」
「国家であれば当然でしょう」
「領土だけでしょうか」
代表の表情が変わった。
「どういう意味ですか」
「あなた方は、何を失うことを恐れているのでしょう」
「今、申し上げました。領土です」
「島の面積は、フィンランド全体から見れば大きなものではありません」
「大きさの問題ではありません」
返答は早かった。
「では、何の問題でしょう」
「原則です」
「原則が失われることを、恐れておられる」
「そうです」
新渡戸はしばらく黙った。
代表の呼吸が、わずかに速くなっていた。
「フィンランドは、長く他国の支配下にありました」
新渡戸が言った。
「その歴史を、私は軽く考えておりません」
「ならば、ご理解いただけるはずです」
「理解しようとしています」
その言葉に、代表はわずかに身を引いた。
同意でも否定でもなかったからだろう。
「一つの島を手放せば、国が崩れるとお考えですか」
「その可能性があります」
「どのように」
「国際社会から、弱い国だと見なされます。国内でも、政府は領土を守れないという声が上がるでしょう。他の地域でも、同じ要求が生まれるかもしれない」
「国が小さくなることを、恐れておられる」
「違います」
代表は強く言った。
そのあと、少し声を抑えた。
「それだけではありません」
新渡戸は待った。
ヨハンのペンも、動かずにいた。
「我々は、ようやく自分たちの国を持ったのです」
代表の声が、先ほどまでより短くなった。
「自分たちの言葉で法律を作り、自分たちの意思で国の行方を決められるようになった」
机の上の書類には、主権と領土保全についての文章が並んでいる。
だが、代表はもう資料を見ていなかった。
「その国の一部を、また外国の会議で切り分けられるのだとしたら」
言葉が止まった。
新渡戸は続きを促さなかった。
「我々は、何のために独立したのでしょう」
代表の手が、机の上で固く組まれた。
「島の人々の意思を否定したいわけではありません。彼らが不安を抱いていることも分かっています。しかし、我々の国のことを、また外から決められるのは――」
代表は口を閉じた。
「恐ろしい」
新渡戸が静かに言った。
代表はすぐには答えなかった。
やがて、わずかに頷いた。
「そうです」
それは、これまでの会議では聞いたことのない答えだった。
「我々は、再び決められることを恐れています」
ヨハンのペンが動いた。
「島を失うことだけではありません。自分たちの未来を、また他者に決められることです」
代表は、自分の言葉を取り戻すように、資料を開いた。
「だからこそ、主権の原則は守られなければなりません」
「ええ」
新渡戸は頷いた。
代表は、少し意外そうな顔をした。
「反論なさらないのですか」
「今日は、反論するためにお呼びしたのではありません」
「では、何のために」
「聞くためです」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
*
午後の会談が終わったあと、ヨハンは再び記録を整理した。
国家主権。
領土保全。
独立国家の原則。
内政への不干渉。
正式な記録には、そう書かれている。
どれも重要だった。
ヨハンは頁の端に、小さく書いた。
再び決められることへの恐れ。
その上には、午前の言葉がある。
忘れられることへの恐れ。
二つの文を見比べた。
条文ではない。
国際法上の原則でもない。
会議で採決できるものでもない。
ヨハンは、二つの文に線を引こうとした。
公式記録には不要なものとして、消すこともできた。
だが、消さなかった。
先日の会議で、彼は「島民」という言葉を書いたところで、ペンを止めた。
その後、「島民」と書くたびに、その言葉の中に誰がいるのかを考えるようになった。
今は、正式な言葉の外側にあるものを、自分の意思で書いている。
ヨハンは余白を残したまま、速記帳を閉じた。
*
夕方、新渡戸の机の上には二つの会談記録が置かれていた。
一つには、スウェーデン側の主張がまとめられている。
民族的権利。
言語的保護。
文化の継承。
もう一つには、フィンランド側の主張が記されている。
国家主権。
領土保全。
独立国家の原則。
書類の表面では、二つは正面から対立していた。
ヨハンは、新渡戸の向かいに立っていた。
「どちらの主張を、より重く見るべきでしょうか」
新渡戸は二つの記録を見た。
「重さを量るのは、もう少し先です」
「では、今日は何が分かったのでしょう」
新渡戸は、すぐには答えなかった。
ヨハンは速記帳を開き、余白に書いた二つの文を見た。
「彼らは、欲しいもののためだけに争っているのではない」
新渡戸が言った。
「失いたくないものがあるから、争っている」
「恐れている、ということでしょうか」
「そうでしょう」
ヨハンは午前の記録へ目を移した。
「恐れていることは、弱さなのでしょうか」
新渡戸は首を振った。
「いいえ」
学校日誌の上へ手を置いた。
「恐れがあることは、恥ではありません」
そして、二つの会談記録を見た。
「何を恐れているのかを知らないことの方が、危ういのです」
ヨハンは、その言葉を書こうとした。
だが、新渡戸が続けたため、ペンを止めた。
「恐れの正体を知らなければ、人は相手を原因だと思い込む」
「相手を、ですか」
「自分の中にある不安を、相手の姿に変えてしまうことがあります」
新渡戸は、そこで言葉を切った。
「ただ、それだけが争いの理由ではありません」
「はい」
「恐れを知れば、すぐに争いがなくなるわけでもない」
ヨハンは頷いた。
「それでも、知らなければ、守るべきものを間違えるかもしれません」
*
新渡戸は学校日誌を開いた。
もう、該当する頁を探す必要はなかった。
子どもたちは、自分で選んだわけではない言葉を覚え始めている。
その一行を見た。
子どもたちは、言葉だけを覚えているのではない。
大人たちが抱えている恐れも、受け取っている。
文化が消える恐れ。
国が奪われる恐れ。
忘れられる恐れ。
再び、誰かに決められる恐れ。
それらはやがて、フィンランド人、スウェーデン人という言葉の中へ入り、子どもたちの遊びにまで運ばれていく。
恐れをなくすことはできない。
恐れを持たない者だけが勇敢なのでもない。
自分が何を恐れているのかを見つめること。
相手もまた、何かを失うことを恐れていると知ること。
それでも、すぐに相手を敵と決めつけないこと。
それもまた、勇と呼べるのだろうか。
新渡戸には、まだ分からなかった。
机の上には、二つの恐れが置かれていた。
忘れられること。
再び、誰かに決められること。
新渡戸は、そのどちらにも線を引かなかった。
線を引く前に、まだ知らなければならないことがあった。




