第12話 正しさの向こう側
第11話を投稿したのは、夜の十一時を少し回った頃だった。
画面には、まだタイトルが残っていた。
正義はある。けれど、仁はまだない。
投稿ボタンを押したあとも、僕はしばらくその文字を眺めていた。
書き終えた直後は、いつも判断がつかない。
悪くない気はする。
でも、本当にこれでよかったのかは分からない。
もう一度読み返せば、余計な説明が目につく。直し始めれば、別の場所も気になる。そうしているうちに、何を残したかったのかまで見失うことがある。
スマートフォンが震えた。
本好きの友人から感想が届いていた。
――やっと、新渡戸稲造に人間味が出てきました。
やっと、という言葉は少し気になったが、褒められているところだけを受け取ることにした。
AIにも感想を聞いた。
『新渡戸が歴史上の偉人としてではなく、迷いながら人間を見ようとする一人の人物として立ち上がった回です』
人間とAIの両方から、ほとんど同じことを言われた。
これは、かなりよく書けたということではないだろうか。
僕は少し満足して、椅子の背にもたれた。
机の上のコーヒーを飲む。
完全に冷めていた。
もう一度、画面に目を戻す。
第11話で、新渡戸は学校日誌を読んだ。
主権でもない。
民族でもない。
自治でもない。
額に傷を負った、マッティという一人の子ども。
会議室で「島民」と呼ばれていた人々の中に、初めて一人の顔を見つけた。
そこまで考えたとき、別の顔が浮かんだ。
第1話に出てきた、ベテラン社員だった。
新しいシステムの導入に難色を示していた人。
説明会では、こちらの話を静かに聞いていた。
反論するわけでもない。
声を荒らげるわけでもない。
最後に、申し訳なさそうに言った。
「すみません。やっぱり私には難しいかもしれません」
僕は、彼のことを変化が苦手な人だと思っていた。
新しい仕組みに慣れる自信がない人。
できれば、これまで通りにしてほしい人。
悪い人だとは思っていなかった。
ただ、この人に合わせていたら、何も変えられないとも思っていた。
彼は以前、こんなことも言った。
「こんなのを入れたら、現場が見えなくなる気がするんです」
その意味が、僕には分からなかった。
むしろ逆だった。
作業記録が残る。
写真も共有できる。
誰が、どこで、何をしたか分かる。
進捗も数字で見える。
異常があれば、すぐに全員へ伝わる。
これまで口頭で消えていた情報が、画面の中に蓄積されていく。
現場は、今までよりずっと見えるようになる。
だから僕は、彼がシステムをよく理解できていないのだと思った。
あるいは、覚えることが増えるのを負担に感じているのだろうと。
画面の上には、さっき自分で書いた言葉が残っていた。
正義はある。けれど、仁はまだない。
僕のシステムにも、正しさはあった。
効率は上がる。
記録も残る。
属人化も減る。
新人でも仕事を覚えやすくなる。
誰かが休んでも、現場が止まりにくくなる。
どれも間違っていない。
では、彼は何を見ていたのだろう。
現場が見えなくなる。
その言葉だけが、以前とは少し違って聞こえた。
*
翌日、彼を見つけたのは、休憩室の前だった。
紙コップを両手で持ち、窓の外を見ていた。
一度通り過ぎようとして、足を止めた。
僕は、こういうときに話を準備しすぎる。
聞くつもりで声をかけても、いつの間にか説明を始める。
今日も、修正したシステムの画面を見せるつもりでいた。
入力項目を減らしたこと。
写真が探しやすくなったこと。
操作が前より簡単になったこと。
全部、説明する準備はできていた。
「少しいいですか」
彼が振り返った。
「はい」
「前に、システムを入れたら現場が見えなくなるって言ってましたよね」
彼は、少し困ったように笑った。
「また、システムの話ですか」
「いや。今日は説明じゃなくて」
自分で言いながら、本当に説明しないでいられるか少し不安になった。
「あれ、どういう意味だったのかなと思って」
「どういう意味って言われても、私もうまく説明できないんですけど」
彼は紙コップへ目を落とした。
すぐには話し始めなかった。
僕も、黙って待った。
「画面で見えることと、現場で分かることって、少し違う気がするんです」
「例えば?」
「写真ではきれいに見えても、変な匂いが残っていることがありますし」
彼は言葉を探しながら、ゆっくり続けた。
「機械の音が、いつもより少し高いとか。床を歩いた感じが、昨日と違うとか。そういうのは、画面では分からないですよね」
「そうですね」
「数字で作業終了になっていたら、それ以上見なくなる人も出てくるのかなって。そこが少し心配だったんです」
彼は僕の反応を確かめるように、こちらを見た。
「便利になることが悪いとは思っていません。ただ、便利になった分だけ、現場を歩かなくなるんじゃないかって」
僕は返事をせず、そのまま聞いた。
本当は、システムは現場確認をなくすものではない、と説明したくなった。
むしろ現場を見るための補助だと。
でも、それは以前にも言った。
「それと……」
彼は少し言いにくそうに笑った。
「これは、私の勝手な不安なんですけど」
「はい」
「私たちが長くやってきたことが、画面にないからって、無かったことになるような気がしたんです」
「無かったことに?」
「雨の日だけ滑りやすい場所とか、この音がしたら、そろそろ機械が止まりそうだとか」
彼は紙コップを持ち直した。
「あの人は報告が苦手だけど、仕事は丁寧だとか。逆に、報告はきれいだけど、最後まで見ておいた方がいい人だとか。そういうことって、なかなか入力できないじゃないですか」
たしかに、入力する欄はなかった。
備考欄はある。
自由記述もできる。
けれど、欄があることと、その人が長年見てきたものを残せることは、同じではなかった。
「それで、少し怖くなったんだと思います」
「何がですか」
彼は照れたように、少し目を伏せた。
「私みたいな人は、だんだん要らなくなるのかなって」
冗談のように笑った。
「画面の方が何でも知っていたら、私がいる意味もなくなるでしょう」
僕は、すぐに返事ができなかった。
今まで僕は、彼がシステムを嫌っているのだと思っていた。
新しいことを避けている。
自分のやり方を変えたくない。
そういう人なのだと。
でも、彼が怖がっていたのは、システムそのものではなかった。
自分が見てきたこと。
覚えてきたこと。
役に立ってきた実感。
それらが、画面の外へ落ちてしまうことだった。
その先で、自分自身まで必要とされなくなることだった。
「すみません。やっぱり、うまく説明できないですね」
「いや」
僕は首を振った。
「それ、俺は全然分かってなかったです」
「そうだと思っていました」
責める言い方ではなかった。
むしろ、少し安心したように聞こえた。
「説明しているとき、すごく楽しそうでしたから」
「それは、システムが結構いい出来だったので」
彼は小さく笑った。
「そういうところです」
僕も笑った。
さっきまでの空気が、少しだけ緩んだ。
問題が解決したわけではない。
彼がシステムに賛成したわけでもない。
僕も、導入をやめるつもりはなかった。
それでも、昨日までとは少し違っていた。
目の前にいるのは、変化に抵抗する人ではなかった。
自分が守ってきたものが見えなくなることを、恐れている人だった。
「次の修正、一度一緒に見てもらえませんか」
僕は言った。
「私、そういうのは得意じゃないですよ」
「操作じゃなくて、抜けているものを見てほしいんです」
「抜けているもの?」
「俺たちが、画面に入れたつもりになってるけど、本当は入っていないものです」
彼は、少し考えた。
「私に分かるでしょうか」
「分かる人だからお願いしたいんです」
また少し間があった。
彼は紙コップの中を見た。
「見るだけなら」
「ありがとうございます」
「でも、あまり期待しないでくださいね」
「それは無理です」
彼は困ったように笑った。
*
その夜、僕は妻にその話をした。
「今日さ、システムに難色を示してた人と、ちゃんと話せたんだよ」
妻は、食器を拭きながら言った。
「へえ」
思ったより反応が薄い。
「もう少し驚かない?」
「何に?」
「俺がちゃんと人の話を聞いたことに」
妻は手を止めた。
「最後まで聞いたの?」
「聞いたよ」
「途中で解決策、三つくらい言わなかった?」
僕は黙った。
「一つだけ」
「言ってるじゃん」
「最後にね」
「最後ならいいと思ってるでしょ」
「でも、前よりは進歩してる」
「自分で言うことじゃないよ」
妻はまた食器を拭き始めた。
「で、その人は何て?」
「次の修正を一緒に見てくれるって」
「よかったじゃん」
「見るだけなら、って」
「十分じゃない?」
「俺もそう思った」
妻は食器を棚へ戻した。
「小説は?」
「今回、結構よかったらしい」
「誰情報?」
「AIと友達」
「身内じゃん」
「AIは身内なのかな」
「毎日話してるなら、もう身内でしょ」
僕は笑った。
たしかに、家族より長く話している日もある。
妻は台所を出ながら言った。
「小説の中の人の話は聞けるのに、現実の人の話は聞いてなかったんだね」
「そういう言い方すると、かなり恥ずかしいな」
「小説書いててよかったじゃん」
それだけ言って、妻は寝室へ向かった。
*
寝る前に、もう一度、第11話の画面を開いた。
正義はある。けれど、仁はまだない。
僕のシステムには、正しさがあった。
効率も、理由も、未来もあった。
けれど、その向こう側に立っている人を見ていなかった。
彼は、システムを否定していたのではない。
自分が見てきたものを、消さないでほしかった。
システムは、まだ完成していない。
彼も、まだ納得したわけではない。
明日になれば、また別の問題が出てくるだろう。
僕は画面を閉じた。
机の隅に、修正予定の項目を書いたメモが置いてあった。
その一番下に、新しい行を加えた。
画面にないもの。
それだけ書いて、ペンを置いた。




