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03



 からりと晴れた空の下、リズ・テトラス侯爵令嬢は王都の中央に鎮座する城へと参上していた。


 高低が様々な尖塔を渡しで中央の主塔と繋ぎ合わせたような外観の城は、リーブルズ王国を統べる王族の居城だ。高い城壁には甲冑に身を包んだ哨兵が等間隔で立っていた。


 門を抜けて城内へ入ると、広い中庭が広がっている。庭木は美しく剪定されていて、鮮やかな赤のポーチュラカに可憐なマーガレット、濃い紫が映えるラベンダーと、たくさんの花々が風雅に咲き誇っていた。庭園の中央に位置する噴水のすぐそばには赤や白、紫といった色とりどりのアザレアが咲き乱れている。


 噴水のそばに佇むリズは胸元に手を当て、気を落ち着かせるよう深く息を吐いた。


 王子殿下からリズに話があるそうだと、父から聞かされたのは昨日のことだ。


 第一王子――レオ・アルク・リーブルズ殿下。現リーブルズ王から直々に嗣子として認められている方だ。確か歳はリズよりふたつほど上だったか。昔何度か会ったことはあるけれど、どちらかというとリズは歳の近いメイリア王女と過ごすことが多かったから、言葉を交わした記憶はそう多くはなかった。


 父が重臣を辞して以降は父以外が王城へ出入りすることはほとんどなくなっていたから、王城へ足を踏み入れたのも随分久しぶりだ。


 第一王子はテトラスの顔を立て、殊にカインを手厚く待遇してくれていた。どうやら第一王子専属の近衛騎士になるという話も出ていたそうだ。それがリズとの婚約破棄後、カインはメイフィールに飛ばされることになったと父に聞いた。


 それを聞いても、リズは何も思わなかった。婚約破棄を了承したあの時から、彼のことは見限っている。生まれてからずっと都市部に身をおいていたカインが果たしてメイフィールのような僻地で暮らしていけるのだろうかと、ややズレた心配を少しした程度だ。


 そんなことより、今回の婚約破棄の騒動で、王子の今までの心遣いを無下にしたような形になってしまったことが申し訳なくて堪らなかった。


 おそらく、リズが呼び出された理由はそれだろう。父は何も言っていなかったけれど、リズは誠心誠意謝罪する準備は出来ている。



「待たせたな」


 城廓内を仕切っている壁に埋め込むように作られた門から、丁寧な刺繍がなされたベルベットの長衣を纏った青年――リズを呼び出した当人であるレオ・アルク・リーブルズが姿を現した。何故かその手には黄色の花束を抱えていて、彼の背後に侍従の姿は見えない。


 甘さを感じさせない整った顔立ちは中性的で、落ち着いた雰囲気を滲ませている。こう言っては何だが、溌剌とした少年のような雰囲気のカインとは正反対のような顔立ちだ。


 もう一度深く息を吸い込み、リズは覚悟を決める。勿忘草色のドレスの裾を摘まみ、王子へ向けて優雅な所作で深く一礼した。


「ご機嫌麗しゅう、レオ王子殿下。此度の騒動につきましては、何とお詫びを申し上げれば良いか……」


「いや、気にしなくて良い。君が悪いとは思っていない。今日呼び出したのは別件だ」


 聡明さが滲む落ち着いた声が、リズの鼓膜に染み込んだ。


 その声音で判断する限り、どうやら社交辞令ではないようで安堵する。しかし婚約破棄の件ではないのなら、彼の言う話とは何だろうか。ゆっくりと頭をあげてレオを見つめると、彼の瞳は何かを躊躇うように揺れていた。


「……これを」


 一言そう告げ、レオは手に持った花束をリズに押し付けるように差し出した。何が何だかよく分からないが、受け取らないわけにもいかずに一先ず両手で丁寧に受け取ってみる。甘く濃い香りがふわりと漂う、アンバークイーンと呼ばれる品種の薔薇だ。アプリコットに似た色合いで、レースのような花びらが愛らしい。


「これは……?」


 掠れる語尾が戸惑いに揺れた。どれだけ考えを巡らせても、花束を贈られるような心当たりが全くなかった。めでたいことがあったわけでもないし、誕生日でもない。まさか婚約破棄のお祝い? いくらなんでもそんな筈はない。


 しばし黙っているレオを何も言わずに見つめていると、やがて何かを決意したような眼差しが向けられた。


「婚約を破棄したばかりの君に、こんなことを言うのは気が引けるが……僕の隣で生きてみる気はないか?」


「……え?」


 何の予兆もなく放たれた弾丸は、リズの耳を素通りする。間の抜けた、令嬢らしからぬ声が出た。真摯にリズを射抜く、夜空にも似た濃い藍色の瞳を目で追った。


 予想だにしていなかった急展開に頭が追い付いていかない。レオはリズを見据えたまま何も言わないし、二人の間に流れる何とも言えない沈黙が痛かった。


「何故……わたくしに?」


 無礼だと分かっていながら、ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。


 神への誓いに背く行為だとして、重婚や離婚は罪に問われる。他国では世継ぎのために重婚を認めている場合もあるようだが、この国では、たとえ王族であっても側室を置くことを禁じている。


 ここで頷けば、リズは生涯、この王子にとって無二の存在になってしまう。そして勿論、リズにとっての王子の存在も。


 花は軽々しく受け取ってしまったが、求婚に簡単に頷くわけにはいかなかった。



「そうだな……強いて言うなら、利害の一致、だろうか」


 レオの感想じみた返答に、リズの乙女色の瞳には更に困惑の色が差し込んだ。利害の一致、つまり政略的な意味合いで婚姻を結びたいと言うことだろうか。レオの言葉を咀嚼して真意を探るリズに対し、何か良い言葉を探すように少しだけ考え込んだレオは、リズの持つ薔薇をちらりと見やってから徐に口を開く。


「たとえば結婚を約束した愛する人の家が没落の危機に陥ったら、君はどうする?」


「その方のために、わたくしに出来ることを探しますわ」


「保身の為に別れようとは考えないのか?」


「思いませんわ。そこで自身だけが助かるような道を選ぶなら、そこにある感情は愛ではないと思います」


 脈絡が読めない問い掛けに、訝りながらも素直に答えた。


 貴族としての矜持はリズとて勿論持っている。けれどそれに拘るのなら、カインとの婚約を了承したりしなかった。


 愛する人の家が没落しそうになったとしても、そしてたとえ没落したとしても、自分だけ逃げたりしない。愛し愛され支え合って、それでも堕ちてしまうのならばそこが奈落であっても本望だ。それによって実家から縁を切られても構わない。愛しているのなら、それは当然のことだと思う。


 リズの返答に、レオは満足そうに口許を緩めて微笑んだ。花を愛でるような優しい笑みにドキリとする。


「好いた人の為には努力を惜しまない、その姿勢がとても美しいと思う。そんな君だから、そばに居てほしいと思った」


 重みのある真剣な声音は、春の木漏れ日のように暖かい。


「君が本気でカインを愛していたことは知っている。だが……どうか僕との婚姻を、前向きに考えてくれないか」


 藍色の瞳が灯す光は愚直なまでにひたむきで、目を逸らすことを許さない。


 向けられた好意が、嬉しくないと言えば嘘になる。けれどそれは、同時に痛みを伴った。彼の真っ直ぐな好意が、痛い。


「ですが、わたくしは婚約を破棄したばかりですわ。それなのに早々に他の方と婚約するだなんて、そんな不誠実な真似は出来ません。ご無礼とは重々承知しておりますが、どうぞお許しくださいませ」


 無礼を詫び、リズは深く腰を折った。王族相手に恐れ多い真似をしているのは百も承知だ。だけれどここは譲れなかった。


 政略結婚だったらまだ良い。それならばリズも割り切れる。そこに気持ちがなくても、それが当たり前とされるものだから。


 けれどこの人は、本気でリズを好いてくれている。そんなこと真剣な目を見れば分かるし、何より家を通さず、直接リズを呼び出したのがその証拠だ。


 家を通せば、もともとカインとの婚約を拒んでいた父のことだ、喜んで応じるに決まっていた。少しでも打算があるのなら、王家から打診をするのが一番手っ取り早い方法だったのに。


 それをしなかったのは、レオがリズの意思を一番に尊重しようとしてくれているからだ。彼はその姿勢を行動で示してくれている。


 そこまでしてくれる人に対して、曖昧でいい加減な返事なんて出来なかった。リズの返した答えで、テトラス家の立場が悪くなるかもしれない。けれど、誠意には誠意で返さなければ失礼だ。



「……そうか」


 リズの予想に反し、レオはふっと肩の力を抜いてほろ苦く笑った。リズがすぐには頷かないと、薄々分かっていたような表情だった。


 この人はおそらく、カインより深くリズを理解してくれているのだと思う。けれどその理解は本質を見抜いているわけではなく、彼の中でのリズの存在は、実際よりも美しく飾られてしまっているのではないかと思った。


 先程たとえ話に返した答えは本心だ。けれど、リズのカインとの恋はそれとは少しずれている。


 いつから想っていてくれたのかは分からないけれど、彼の中のリズがとても美しい存在になってしまっているのならば、騙しているようで心苦しい。


「わたくしは……レオ様が思ってくださっている程、美しい人間ではありませんわ」


 呟くように静かに告げ、リズはゆるりと苦く微笑んだ。


 好きな人のための努力が美しいと彼は言ったが、リズにとってのそれは自分が愛してもらうための手段だった。


 カインの為だと言いながら、結局は自分の為だった。カインの役に立てるように、という理由はあくまで建前でしかなくて。好きな人の役に立ちたい、そんな純粋な思いだけで、愚直に刺繍の腕を磨いていたわけではない。


 カインの役にたてば、カインにとっての利用価値が高ければ、カインは自分のところに戻ってきてくれると思っていた。いつか愛してくれると信じていた。利用されるだけで良いと思おうとしていたけれど、その奥底ではいつだってその対価を望んでいたのだ。


 こんな浅ましい考えをずっと誰にも告げずに抱えてきたリズは、美しい心なんて持っていない。


 ――それなのに。


「そうだろうか?」


 素直に心情を吐露したリズに、レオは緩く首を傾げた。まるで、それのどこがおかしいのか分からないとでも言いたげに。


「愛しい人を振り向かせるために君が重ねた努力は、素直に尊いと思う。だからこそ、僕は君に惹かれたんだ」


 リズを真っ直ぐに見据え涼やかな声で告げた彼の言葉は、リズの鼓膜に熔けるように染み込んだ。全身に波打つような言葉の雫が心の中で反響する。


「それに、労働に見合った見返りを求めるのは当然だろう」


 しっかりと芯の通った声がリズの心を貫いた。世界から音が消えて、跳ねる心臓が強く脈打つ。自身でさえあざといと思っていた今までの生き方を丸ごと認めてもらえたような気がして、リズの心は驚くほど軽くなった。


 ――見返りを求めても、良かったのだろうか。


 始まりはランドール家からの懇願。けれど好きな人と結ばれるためにテトラス家の娘であるという立場を利用したような気がして後ろめたくて、カインに自身の想いをはっきり告げることが出来なかった。


 そんなリズが選んだ方法は、愛されるために自身の利用価値を高めることだった。


 カインの気持ちが自分に向いていないことに気づいていた。だから必要とされたかった。


 刺繍、教養、詩、楽器、歌。淑女の嗜みとして自分に出来ることをすべてやって、想いを行動で示そうとした。けれど、それでもカインは振り向いてくれなかった。


 毎日毎日、報われない心ばかりが積もっていく。どれだけ想いを重ねても、その想いは届くことなく空虚に溶けて。


「僕なら、君を一人にしたりはしない。もし僕を選んでくれるのなら、僕は生涯君だけを愛すると誓う」


 ずっとそばに居た、カインさえ気づいてくれなかったのに。


「君に利用価値などなくて良い。そばに居てくれるのならそれだけで十分だ」


 ――一番欲しかった言葉を、どうして、あなたが言うの。


 気づいた時には、リズの頬を涙が伝っていた。慌てて指先で拭ってみても涙は止まらなくて、喉は発火したように熱い。


 頑張ることでしか、愛される方法を知らなかった。


 けれど本当は、ただ無条件に愛してほしかった。


 カインへの想いは届く前に振り解かれてしまったけれど、真っ直ぐ愛を叫んでくれる人が目の前にいる。


 溢れてやまない涙をハンカチで拭って、無意識に花束をきつく抱き締めた。甘やかな香りが優しくリズの鼻先を掠める。


「もう一度言う。――僕と一緒に、生きてみないか?」


 リズの涙が落ち着くのを待ってから、レオはゆっくりと手を差し伸べた。


 その藍色の眼差しは、かつてリズがカインに向けていたものと同じだった。たったひとりに焦がれ、星のように瞬く瞳。


 綺麗だと思った。そしてその綺麗な瞳にはリズが写っている。その事実に、歓喜に指先が震えた。


 利用価値や打算など存在しない、何にも揺るがない無償の愛情。


 ――何よりも望んだものが、今目の前にあった。


 差し出されたレオの掌に、震える自身の手をそっと重ねる。じんわりと互いの温度が重なって、それだけでまた泣きたくなった。


「――はい。よろしく、お願い致します」


 途切れ途切れに紡いだリズの言葉に彼が笑う。酷く柔らかに、そして晴れやかに。その瞳の色に魅せられた。


 ――ここで死んでも悔いはないと、思った。


 このひととなら、どこまで落ちても悔いはない。


 レオは自身の掌に重なったリズの手を自然な所作で持ち上げ、その甲に口づけた。貴婦人として過去に何度も受けた、丁寧な挨拶と同じ行為。いつもならば特別な意味を持たなかったそれに、歓喜の色に染まった心臓が跳ね上がる。彼の背後に広がるいつもと同じ水浅葱の空が、何倍にも美しく見えた気がした。


「公にするのは君に合わせた時機で良い。父上の反応が楽しみだな」


 悪戯を閃いた子どものようにくすりと笑ったレオの、中庭に響く声音はひどく優しかった。まるで柔らかくリボンを結ぶかのように、ふわりとした慈しみが濃く滲んでいる。


「そうですわね」


 ちゃめっ気を含んだ瞳を向けられて、リズもふふっと吐息を漏らすように笑った。レオの瞳に浮かぶ優しい色が嬉しくて、つい無遠慮にずっと見つめていたくなってしまう。


 しばらく見つめられて気恥ずかしくなったのか、レオは庭園を見渡すように視線を動かした。それを少しだけ残念に思いつつもその視線を何となく追っていくと、庭園内でも一際存在感を放つ噴水に目がいった。太陽の光を浴びた水面はきらきらと輝いていて、綺麗だなと素直に思う。


 噴水に顔を向けたまま、ちらりと目線だけで隣に立つレオを見た。


 自分を愛してくれる人と、同じ景色を眺めて笑っていられる。過去の恋愛では叶わなかった、そんな些細なことが堪らなく嬉しいから。


 この人の隣で生きていきたい。他の誰でもない、この人と生きて幸せになりたい。そう、心から強く願えることが誇らしい。


 リズを見つめ、彼が柔らかく瞳を細める。彼に応えるように微笑んだ視界の片隅で、アザレアの花が優しく笑っているような気がした。




 【Fin】




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