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あなたは壁一面の鏡を見た。
鏡には現実の風景と、風が映っていた。
現実の実体を持ったアパートの部屋は、ここよりもさらに寂れている。
窓のガラスも割れているようだ。
そして、風。
一階から昇ってくる風は黒かった。
昨夜、妖怪少年たちに聞いた五行の法則によると、黒は水気の色だ。
上昇してきた黒い風は、鏡の金気に当たって、黄色い土気になる。
土気の風は西の土壁を通り抜けて、悪霊の部屋で赤く染まる。
それは鏡に映っていないけれど、あなたには感じられた。
悪霊とのつながりが、まだ完全には切れていないせいだろうか。
あなたは『相生』について思い起こす。
(木が擦れて火を生み、火は土を生み、土は金属を生み、金属は水を生み、水は木を生む)
今目の前で起こっていることは、その逆だ。
いや、逆だからこそ良いのかもしれない。
西洋で悪魔を信仰する集団は、わざと聖なる神の儀式を逆にする。
そうすることで神を穢し、力を得るのだとホラー映画で観た。
ここは悪霊が作った、現実と逆の法則で動く歪んだ世界。
西の部屋で、赤い火気の風は緑色の木気に変わって、悪霊を潤す。
あなたは土の鈴を握り締めた。
妖怪少年たち、あるいは退魔師と会いたい。
自分だけではどうすればいいのかわからなかった。
鈴を揺らしてみる。音は──鳴らない。
あなたは、さほどがっかりしなかった。
(鳴らなくて良かったんだわ、きっと。たぶんこの鏡は、一階の子どもたちの力を悪霊に運んでる。鈴から霊力を発したら、それも奪われてたかもしれない)
あなたはもう一度、妖怪少年たちに聞いた五行についての記憶を掘り起こした。
いつつにわかれた霊的な力には、それぞれの特徴がある。
木気は動くもの。東の方角を意味し、色は緑。
火気は上へ昇るもの。南の方角を意味し、色は赤。
土気は人間、そして大地。真ん中を意味し、色は黄色。
金気は金属、獣、硬いもの。西の方角を意味し、色は白。
水気は下へ落ちるもの。北の方角を意味し、色は黒。
「あれ? もしかして……」
あなたはあることを思いついた。
小さく呼吸を整えて──本当は幽体だから息はしていないのだが、気分的に──鏡に鈴を握った拳を振り下ろす。
幻だとわかっていたので、破片で傷つくことはなかった。
本物だと思い込んでいたら、幽体でも怪我をしていただろう。
鏡は左右を逆にするが、本当は前後を逆にしているのだと、ミステリーで読んだことがある。詳しい理屈はわからないものの、鏡が映ったものを逆にしているのは間違いない。
割れた鏡が上げる金属音は、鈴の音を思わせた。
ずっと悪霊に利用されていた幻の鏡が、解放されて喜んでいるようだ。
シャン、シャン、シャ……ン。
すべての鏡を割ると、風が止まった。
風は動くもの、木気の象徴。昨夜の森で、悪霊の化身の風は何度もあなたを呼んだ。
西の壁の向こうから、威圧するような空気が押し寄せてくる。
きっと悪霊があなたに気づいたのだ。
ぐにゃりと世界が歪む。
幻のアパートが消えて、あなたは暗闇に放り出された。
腕組みをした男が、あなたを睨みつけている。
彼には、片腕の手首から先がない。昨夜、あなたたちによって浄化されたからだ。
激しい憤怒が渦となって押し寄せる。
鈴を振って退魔師を呼ぼうかと思ったが、今度も鳴らせない気がした。
(この空間は、完全に閉じている)
アパートに見せかけることも止めて、あなたを封じこめるためだけの場所として作り直された世界だ。
目の前の悪霊の怒りが、黒い蛇となってあなたに襲いかかる。
「……っ!」
けれど蛇は、あなたに触れる寸前で黄金色に輝く光の玉に変わった。
……オネエチャン……
……オネエチャン、アリガトウ……
さっき鏡を壊したことを言っているのだろうか。
あなたは泣きそうになる気持ちを堪えて、黄金の光たちに鈴を差し出した。
……キャハハ、キャー……
はしゃいだ声を上げて、光が鈴に吸い込まれていく。
あなたは悪霊を見据えた。
不思議と気持ちが落ち着いている。
ずっと耳の奥にこびりついていた、子どもたちの泣き声が消えたからだろう。
鈴を振る。
今度は音が出た。
リーン、リー……ン。
外に助けを求めるためではない。
宿った子どもたちを悪霊から解放するために、あなたは鈴を鳴らし続けた。
上下左右もなかった暗闇に、空ができる。
鈴からあふれた黄金の光が昇っていく。
……コレデ オカアサンノトコロヘ カエレル……
……ワーイ……
黄金の光が昇るごとに悪霊はひとの形を失って、やがて渦となり、霧散した。
あなたはその場に膝をついた。
いつの間にか実体に戻っている。辺りを見回せば現実のアパートだ。
割れた窓ガラスから差し込む夕暮れの光が、傷んだ畳を照らしている。
あなたがもう一度鈴を鳴らすと、退魔師たちが錆びた階段を駆け上がる軋んだ音が聞こえてきた。
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