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あなたは少し考えてみることにした。急がば回れ、急いてはことを仕損じる、だ。
「うふふ」
しかし考えている間に、体の支配権を奪われてしまった。
今は女性ではなく、あなたが自分の体の後ろにいる。
あなたの体が幸せそうに微笑んで、さっき掠れた声で呼びかけてきた無精髭の男の腕に絡みついた。二十代後半から三十代前半で、へらへらした感じの軽そうな男だ。どことなく貧乏そうで、デニムの破れがおしゃれなのか買い換えるお金不足なのかは判断しかねた。
「こんなところで会えるとは思わなかったよ」
「ええ。あなたに会いたくて、頑張ったの」
「俺に? 俺でいいのかい? 彼じゃなくて?」
あなたの体が眉間に皺を寄せた。
「もちろんよ。あんな男、もういらない」
無精髭の男は頷いた。
「そうか、彼も喜ぶよ。知ってるかい? 彼ら夫婦は引っ越して、最近可愛い赤ちゃんが生まれたみたいだよ」
あなたの体が凍りつく。
女の動揺に乗じて奪い返そうとしたけれど、無理だった。
「そ、そう。どうしてそんなこと言うの?」
男が邪気のない笑みを浮かべて答える。
「君が、嫌いだからだよ」
「……っ」
あなたの瞳が見開かれた。
(てやっ!)
あなたは体を取り戻そうと体当たり? してみたものの、ダメだった。
「ウソ。ウソよ。ウソでしょう? だって毎日のように訪れて、私の話を聞いてくれたじゃない。私の髪を綺麗だって言ってくれたでしょ? あ! この体のせい? この子の髪がボサボサだから、それで嫌になっちゃったの?」
(ボサボサじゃないもん)
毎日ちゃんと梳かして、トリートメントだってしている。
自分の顔がヒステリックに歪むのを見るのは、あまり楽しいものではなかった。
「そうだね。俺は毎日君の話を聞いたよ。彼に恋したこと、奥さんから奪うために不倫してるとウソをついたこと、毎日嫌がらせの電話をかけたのに相手にされなくて、ふたりのマンションの窓が見える場所で首を吊ったこと──君が言わなかったことも知ってる」
男があなたの体を見つめた。
本来の体の持ち主であるあなたを置いて、シリアスな雰囲気が流れている。
暇を持て余したあなたは体と男の間をウロチョロしたが、どちらにも相手にされなかった。
「君は地縛霊じゃない。首を吊った木を通じて山に満ちた龍神の霊気を吸収していただけだ。なにになるつもりだったんだい? リスの幻で子どもを操って、龍神の祠を壊そうとしたよね?」
「生き返る……そうよ、生き返るつもりだったの! だってあなたが好きなんだもの。彼、前の彼についてはその通りよ。横恋慕って言われても仕方がないわ。でも私、あんなつまらない女から彼を救ってあげたかっただけなのよ!」
「……君は普通の女の子だね」
男が、あなたの体に手を差し伸べた。なにかを握っている。
あなたの顔が、少しだけやわらかくなった。
「ズルくて臆病で、自意識過剰で、自分のためなら平気で弱いものを犠牲にする、どこにでもいる普通の女の子だ。ありがとう、狭霧山から離れてくれて」
男が手を開くと、そこには白い紙が一枚あるだけだった。
日本刀の形に切ってある。
白い紙は風もないのに舞い上がり、本当の日本刀に姿を変えてあなたを貫いた。
「きゃあぁぁっ!」
叫んだのはあなただったのか、彼女だったのか。
気がつくとあなたは自分の体で、道路に膝をついていた。
無精髭の男が、あなたに手を差し伸べてくる。
さっきのことがあるので、あなたは後退りしてひとりで立ち上がった。
男が吹き出す。
「怖かったのはわかるけど、一応俺、命の恩人じゃない?」
「……彼女」
「なんだい?」
「彼女、あなたのこと好きだったわ。この体に残ってる。あなたが言っていた、ほかのことが本当なのかどうかはわからないけれど、あなたを好きって気持ちだけは本当で……」
言いながら、あなたは自分の胸に手を当てた。
男は吐き捨てるように言う。
「そう仕向けたんだ。彼女のことが大嫌いだったから、俺のことを好きになるよう誘導した。好きな相手に嫌われてたと知ったら、傷つくだろう? 俺はさ、弱いものを犠牲にするヤツが大嫌いなんだ。だからただ倒すだけじゃなくて、徹底的に傷つけてやりたくて、時期を待ってた」
あなたは溜息をついて、彼に背中を向けた。
早くしないと遅刻してしまう。
「あ、ちょっと待って」
男が後ろから、強引にあなたの腕をつかむ。
「きゃ」
「……カカ呑み、カカ呑みてむ」
彼の手が放った白い紙は、蛇に姿を変えてあなたの手の上にある見えないなにかを飲み込んだ。そして、紙に戻る。あなたの手の平から、爪痕が消えていた。
「これで良し。ありがとう。おかげで結界を通れるよ。さぁて、刃くんに連絡だ」
しばらく歩いて、あなたは振り返った。
「本当にそれだけ?」
「なにが?」
「傷つけるためだけに、恋を仕掛けたの?」
「そうだよ」
「恋をすることで、いつか彼女が自分から間違いを認めるんじゃないかって、期待してたんじゃなくて?」
「……さあ」
男は宙に腕を伸ばし、あなたに大きく手を振って見せた。
「じゃあね。君はこのことを忘れちゃったほうがいいよ。それだけの霊力があれば、今後は巻き込まれることもないと思う。ただし、不気味だと感じる場所は通らないように、5分早起きできれば、だけどね。それと……」
もうここを通っても子どもの泣き声は聞こえなくなるよ、と言われて、あなたは思い出した。昨日の夕方、下校のときにこのアパートの前を通って、聞こえてきた子どもの泣き声に引かれて、妙なものを拾ったことを。
そして、それをずっとしずく型の石だと思っていたことを。
「あなたは……」
「バイバイ」
男の姿がアパートの敷地に消えた。
入ったというだけでなく、本当に消えてしまったように見えた。
光の加減だろうか。
追いかけようかとも思ったが、そんなことをしていては本当に遅刻してしまう。
あなたは前を向いて歩き始めた。
胸の奥に残った恋のかけらが、ほんの少しだけ痛かった。
<NORMAL END>