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「――それでも、私が母になるとき立ち会って欲しいのはあの人をおいて他にはいませんでした」

「どうも、すみません……」

「……」

「いえいえ、お構いなく」

ダイニングのラーメンは片付けられ、リビングでお茶が入れられた。

明葉は黙ってお茶を飲む。緑茶だった。煎茶だろう。

「明葉……」

「……」

父の呼びかけに明葉は答えない。ただ黙ってお茶を飲む。

「……すまなかった!!」

「……」

「五年も一人にして……どんなに辛かったか、苦しかったか……」

「……」

「すまない。もう大丈夫だ。一緒に島に帰ろう?」

「……」

明葉は答えない。ただ黙ってお茶を飲み干した。

「……もう一杯お願いします」

「……明葉ちゃん」

苦笑するように呟いて楓さんはお茶を入れる。

「……ありがとうございます」

明葉は受け取って軽く頭を下げる。

その間も明葉は父と目を合わせない。

「明葉聞いてくれ!! 明音のことは決着がついたんだ!! もうお前が家を出る必要はないんだ!!」

「……決着?」

そこで。

初めて。

明葉は父を見た。

顔を思い切り不審に歪めて。

顔を思い切り嫌悪に歪めて。

一瞬。

父は傷ついた顔をした。

しかし、それを飲み込んで彼は口を開く。

「――明音が親権を放棄した。もう、明音の言葉でお前を縛ることは出来ない」

明葉は。

静かに息を飲んだ。

「……それは」

「明音がもうお前に関わることはない。もう明音に怯える必要はないんだ」

父はそっと明葉の手を取った。

優しく温かい手だった。

――けれど。

「……それは、私から『母親』を取り上げた、ということですか?」

冷えた声。冷めた心。

「――それはっ!!」

「……私の母は安部明音ただ一人です」

「明音はお前のことずっとほったらかしだったし!! その前だってお前にご飯も与えずに部屋に閉じこめて!!」

「――だから?」

――ああ、この人はこういう人だったよな、と。

冷めた心で明葉は思う。

その時も必死に明葉を庇ってくれて。

『ごめんな……。ごめんな……』

手当してくれて。ご飯くれて。

そして。

翌日には仕事に行くのだ。

何事も無かったように。

母に『愛してるよ』とキスをして。

「――それが何か『あの女』が私の母であることを否定するんですか?」

「あいつは母親らしいことなんて何一つしなかっただろうが!!」

――そしてあなたはそれをずっと許してきたわけですが。

明葉は声に出さずに心の内で呟く。

父にとっての一番は仕事で。

二番目が母で。

三番目が明葉だった。

明確にそこには序列がありそれが覆ることは無かった。

「――それでも、私が母になるとき立ち会って欲しいのはあの人をおいて他にはいませんでした」

やり直せる日をずっと夢見ていた。

いつか『母と子』ではなく二人の大人として出会えるその日を。

「――ッ!」

父は息を飲む。

驚愕に顔を染めて。

「……帰って下さい。もう私には関わり合いにならないで」

「……明葉、俺はお前のためを思って……」

「帰って下さい」

明葉は冷たく言った。

「……安部さん」

楓さんは手つかずのままだった父の湯飲みを取り替えて言う。

「とりあえず、お嬢さんはこちらで預かります。少し頭を冷やしてからまた話し合いましょう?」

「遠藤さん……」

「明葉ちゃんもちょっと混乱してるみたいだし……。お母さんも交えて何処かで話し合いましょう?」

穏やかに、その手が明葉の手と重ねられる。

父はがっくりと肩を落とした。

「……分かりました。今週いっぱいはあの家にいますので。これ、連絡先です」

「まあ、ご丁寧に……。あの、お母様ともよく話し合ってみたほうがいいと思いますよ。――明葉ちゃんお母さんの事心配してましたから」

「明葉のことくれぐれもよろしくお願いします――!!」

そう言って頭を下げて、父は帰っていった。


その後の事は語るべき事は少ない。

明葉は勉強に勉強を重ねるだけだったし、遠藤夫妻はそれを静かに見守った。

劇団小宇宙の公演は概ね大成功で遠藤雪菜の名も多少は知られる事となった。

父は明葉の前に姿を現さなかった。母もまた同様に。

遠目に見た安部家には確かに灯が点り、誰かが中にいるのは分かったものの――それが父なのか母なのかあるいは両方なのか明葉には判断がつかなかった。


――勉強した。

元々編入試験は入学試験と違って知識を問う傾向が強い。

――学習した。

それは中学二年までに三年分の課程を終わらせ残り一年を受験対策に当てる進学校ならではの特性による。

――記憶した。

それならば。

明葉の頭脳に敵はない。


そして、七月七日。正午。

編入試験前日。

安部明葉は学術科学都市に召還された。


大嫌いだった。

憎んでいた。

蔑んでいた。

見下していた。



――だけどたった一人の大事な「お母さん」だった。

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