二人の少女
カーテンの隙間から、弱弱しく朝の光が差し込む。
全力を出しきっていない太陽と言えども、睡眠を妨げる光を生み出すには、これで十分だった。
その光がまぶたに入り、亜留はゆっくりと目を開いた。
「ん……今何時だ?」
上体を起こし、壁掛け時計を見る。
時刻は午前六時。休日としては、起きるのには早すぎる時間だ。
ベッドから起き上がり、簡単に着替えを済ませると、部屋から出てまだ足元が暗い階段を降りた。
リビングとダイニングを覗くが、家には誰もいない。
「あ、そうか。今日は母さんも父さんも、朝早くから出かけてるんだった」
そういえば昨日、朝五時頃から出かけるというのを言っていたな、と思いながら、亜留は戸棚から食パンを取り出し、トースターに入れた。
パンを焼いている間に、冷蔵庫から昨日の夕食の残りを取り出し、電子レンジで温める。次いで、インスタントコーヒーをコーヒーカップに入れ、ポットのお湯を注いだ。
『むにゅ……む、アル、おはよう』
亜留の脳内から、リラの声が聞こえる。
「おはよう、リラ。えらい早く起きたな。沙織だったら今の時間、ずっと夢の中だぞ」
『なんだ、サオリはそんな遅くまで寝ておるのか? ならば霊体になってから少しだらけておるぞ』
「まったくだ」
チン、とレンジが温め終了の合図をすると、亜留は中のおかずを取り出し、テーブルに置いた。同時にパンも焼けたようで、あたりにトーストの香ばしい香りが漂う。
「しかし意外だな」
トーストにマーガリンを塗り、皿の上に乗せる。
「今どき、起きるときに『むにゅ』なんて言う奴、珍しいぞ」
『なっ、別にいいではないか、人の癖ごとき』
「いや、なんかアニメみたいで面白いなと思って」
『そういう、変なところを気にするから、亜留君はエッチだと言われるんです!』
リラの声が急に沙織の声になり、亜留は口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。
「げほっ、げほっ、急に声色変えるな気色悪い」
『まったく、せっかくたまにはサオリの声でも聴かせてやろうと思ったのに』
「もう少しタイミングを考えてほしいものだな、妙な特技を披露するにしても」
亜留は一度パンをちぎって口にし、コーヒーで流し込んだ。
『ん、別に特技とかではないのだがな。意思がある霊体なら、これくらいは簡単にできるぞ?』
「誰でも?」
口をつけていたコーヒーカップを止め、亜留はリラに尋ねた。
『音、というのは音の大きさ、音の高さ、音色という要素があるというのは知っておるだろう。これらは音圧、波長、波形と言ったもので決まるのだが、動物の耳はこれを鼓膜で感じ取って音として感知するのだ。つまり、鼓膜を振動させるための音波の波長や波形を、その声の持ち主と一致させることで、その声の持ち主と同じ声を聴かせることができるのだ』
パンをむしゃむしゃと食べながら、亜留はリラの説明を聞いていたが、いまいち理解ができていないようである。
「要するに、その、エネルギーを何とかっていう話か?」
『まあ、似たようなものだが』
亜留がパンを全て食べ終わると、残ったコーヒーを全て飲み上げた。
『音というのは、空気の振動による波の一種だ。動物が聞こえている音は、空気の振動を鼓膜で受けているわけだから、鼓膜を直接振動させるような波を起こすエネルギーを発すればよい。霊体である私らには、そのようなことは造作もないことだ』
「うむ……わかるようでわからんな」
『アルよ、お前はもっと理解力を磨くべきだと思うぞ』
リラの言うことを聞く耳半分で聞き流し、亜留は食べ終えた朝食の食器を自動食器洗浄機に入れ、洗剤を入れてスイッチを入れた。
「一応、人の話はきちんと聞いているつもりなんだけどね」
そう言って、亜留は自分の部屋に戻って行った。
『まったく、私の話はどうなのかねぇ』
ショルダーバッグにいつも通り出かける用の荷物を入れ、亜留は玄関を出た。
「あ、そうか。今日は両方いないんだった」
そのまま道路に出ようとしたとき、ふと思い出して玄関の鍵を閉め、いつも置いてある場所に戻す。
そして、家の前の道路を、海に向かって歩き出した。
朝日が見え始めた早朝の空は、一度洗濯をしたような澄み切った水色をしていた。
眩しい太陽の刺す光がぬくもりを与えるが、すぐさま冷たい風がそれを奪っていく。
時刻は午前七時前。さすがに休日の住宅街の道は、人通りが少ない。
時々、早朝からランニングをしているおじさんが通りかかり挨拶をするが、それ以外は人が通らなかった。
『アルよ、毎日この道を歩いているのか?』
「まあね。休日の習慣だから」
『退屈な習慣だのう。家でのんびりゲームでもすればよかろうに』
「ゲームばかりだと、体に悪いだろ。それに、朝の散歩って、気持ちいいんだ」
『年頃の男子の発言とは思えんな』
リラが愚痴を言っている間に、目の前に国道が見えてきた。
海岸を走る国道は、通ってきた道と同じく人気がなく、まだ静寂を保っていた。
遠くから定間隔で聞こえる波の音。そこに赤い車が一台、目の前を通り過ぎた。
「海岸公園に行こう。朝は風が通って気持ちいいんだ」
『それはいいが、お前、寒くないのか?』
「ん、まあ、ちょっと肌寒いから。でも、今からちょっと暑くなるからね」
車が通っていないことを確認し、一気に道路を横切る。小さな堤防の向こうを見ると、朝日が海面を照らしてキラキラと光っていた。
海からの風を受け、亜留は少し身震いをする。そして、海を見ながら、公園へと向かって行った。
『おお、これはなかなか良い景色だな』
「だろ? こういうのを見ると、なんか落ち着くんだよな」
消波ブロックにぶつかっては鳴り響く波の音。やがて防波堤から道が離れると、阿流野辺海岸公園、通称海岸公園が見えてくる。
普段は賑わっているこの公園も、さすがに休日の早朝は誰もいないようだ。
あたりを見回しながら、亜留は屋根付きのベンチに腰掛けた。
海岸とは少し離れているが、それでも小さく波の音が聞こえてくる。
不意に、亜留の力が抜けた。
「なんだアル、もう休憩か?」
気が付くと、亜留の隣にリラが座っていた。
「ここに座ると、気持ちいい風が吹くんだ。って、離れてて大丈夫なのか?」
「べつにいいだろ、せっかくベンチがあるんだから」
「よくわからんやつだな」
一つ風が吹くと、日が当たらないベンチの下ではより冷たさを感じる。
時々通る車の音と波の音しか聞こえない世界で、亜留は昇ってくる太陽を見ていた。
「あれ、亜留君、今日も朝早いね」
不意にベンチの後ろから、聞き覚えのある声がした。
「ああ、重菜。今散歩途中で休憩してたところ」
亜留が振り返って言うと、船出重菜は亜留の隣に座った。
「重菜こそ、今日は早いね」
「うん、昨日ペットが死んじゃって。変な夢見てたら、早く起きちゃったの」
「あれ、ペットなんて飼ってたっけ?」
「あんまり友達には話してなかったんだけど、チワワを一匹飼ってたの。ほとんど。弟が世話をしてたんだけどね」
「そうだったんだ。それで……」
元気がない顔をする重菜に対し、亜留は言葉を詰まらせてしまった。
「なんじゃ、アル、元気のない女の子に対してはもっと優しい言葉を掛けんかい」
『うるさいなリラ、僕だって考えてるんだって』
突然割り込んだリラに対して、亜留は脳内疎通で返事をした。
「あ、そうだ。亜留君、今日は時間開いてる?」
不意に、重菜が顔を上げて言うので、亜留は一瞬驚いた。
「え、あ、えっと、今日はちょっと用事が……」
「ええ、この前も用事あるって言ってたじゃない。今日はどんな用事なの?」
「えっと、その、明と神社に行く予定で……」
「どこの神社?」
重菜からの怒涛の質問ラッシュに、亜留は何故か冷汗をかいている。心なしか、重菜の顔が徐々に近寄っている気がする。
「あの、鱈瀬神社……って言うんだけど」
「え、鱈瀬神社って、恋愛成就で有名なところでしょ? 何でそんなところに?」
気が付けば、重菜は両手をベンチについてかなり亜留に近いところまで顔を近づけてきた。
「そ、それはその、明が……」
「おいアル、普通に説明すればよかろう。サオリを探しているということを」
重菜に迫られて亜留が顔を少し後ろに反らしていると、リラが突然声をかけてきた。
『い、いや、何で重菜を巻き込まないといけないんだよ』
「どうも見ているとなにやら面倒なことになりそうなんでな。説明すれば、シゲナも納得してくれるだろう」
『だからと言って、幽霊の存在を信じろだなんて……』
亜留が顔を反らしたままリラが脳内疎通で会話しているが、重菜はまったく気が付かない。
「明君が、どうしたの」
「え、いや、その、ち、近いって、重菜!」
「亜留君がちゃんと説明してくれないからでしょ!」
さらに重菜の顔が近くなり、亜留は後ろに体を反らせる。
と、その時、重菜がベンチについていた両手を、バランスを崩したからか滑れらせてしまい、途端に重菜の体が亜留に向かって行った。
「えっ、うわぁっ!」
重菜が亜留に覆いかぶさるように倒れこむ。亜留も、急に重菜に体を投げ出されて、上半身がそのままベンチの上に倒れこんでしまった。
「いったたた……」
重菜に寄り掛かられ、亜留は身動きが取れないまま、ベンチで打った頭を右手で抑えた。
「ご、ごめんなさい!」
重菜は慌てて亜留の体から飛びのいた。いきなりのことで、既に顔は真っ赤になっている。
「まったく、お主らは何をやっておるのじゃ」
リラはその様子を、腕を組んだまま見て、ため息をついた。
「……え、あ、亜留君、さっきまで女の子なんて、いた?」
亜留が起き上がろうとすると、重菜が少し青ざめた顔で亜留の方を指さす。
「いたた……ん、女の子? 誰のことだ?」
まさかと思いながらも、亜留はリラのこととは考えずに起き上がって重菜に言った。リラが見えているはずはない。
「ほ、ほら、亜留君の隣」
重菜が指をさしているのは、明らかにリラがいる方向。亜留がそちらを向くと、リラは不機嫌そうに腕を組んで座っている。
一度重菜の方に向き直し、亜留は一つため息をついた。
『リラ、もしかして重菜に見えるようにしたのか?』
「おう、そうじゃ。なにやらややこしいことになりそうだったんでな」
リラの返信に、亜留は頭を抱えた。
「重菜、もしかして、この生意気な女子中学生が見えてる?」
「だ、誰が生意気な女子中学生じゃ、このエターナルロリコンブレインが!」
亜留が振り返らずに親指だけでリラを指さすと、リラは亜留に怒鳴り散らした。
「えっと、その子は一体……?」
突然現れた女子高生に、重菜はリラを指さしたままぽかんとしている。
「ああ、こいつはリラっていって、明のいとこで……」
「ああもう、お前が説明するとややこしい! 私が説明するわ!」
再び始まった亜留とリラの言い争いに、重菜は固まったように動けなかった。
結局、亜留の代わりにリラがこれまでの経緯を重菜に説明した。
リラが明のいとこであること、既に死んでいて幽霊であること、現在亜留に憑依していること、沙織の霊体を探していること。
幽霊をあまり信じていない重菜だったが、リラの体に触れられないことで簡単に信じてくれた。
「というわけで、今はこいつの女のケツを追っているというわけだ」
「誰が女のケツだよ」
リラが説明し終わった後も、ちょくちょくと亜留とリラは言い争っていた。
重菜はしんじられないという顔をしながらも、下に俯いて口元を緩めた。
「そっか。沙織、死んでもまだ亜留君のそばにいたんだ。だから、亜留君は沙織が死んでも、寂しそうにしてなかったんだね」
ぼそりとつぶやいた重菜の声を聴き、亜留とリラは言い争いをやめた。
「それで、沙織は今どこに?」
「確証は持てんが、さっきも亜留が言っておったように、鱈瀬神社にいる可能性が非常に高い。私の仲間の霊体による目撃情報もあるしな」
「それで、明君と一緒に鱈瀬神社に?」
「そうじゃ。アキラも、サオリを探すのに一緒に手伝ってくれてるのでな。むしろ、サオリの情報が分かったのもアキラのおかげと言うわけだ」
リラが重菜に説明し終わると、すっと重菜はベンチから立ち上がった。
「私も、沙織を探すのを手伝う!」
いきなりの重菜の提案に、亜留は驚いて立ち上がった。
「ま、待ってくれ、もしかしたら、危険なこともあるかもしれない。そんなことに、女の子を巻き込むことはできないって」
「私も、沙織に会いたいの。沙織に会って、いろいろ話をしたい。それに、鱈瀬神社って、男二人で行くようなところじゃないわよ。絶対、怪しい目で見られるから」
「あう、それは……」
重菜の勢いに圧倒され、亜留は続きを言えずに口ごもった。
「ふむ、しかしシゲナの言うことも一理あるぞ。あそこは女同士、あるいはカップルがほとんどだからな。男二人となると、妙に浮いて他の参拝客からの視線が痛いと思うぞ。アルだけならともかく、アキラまでそんな目で見られてはかわいそうだ」
「何で僕はいいのさ」
「別に、アルが変な目で見られようと関係ないからな。しかし、今のままではそういう結末になるようだが、どうするのだ?」
リラの言葉を受け、亜留はしばらく考え込んだ。
確かに、鱈瀬神社に行くのであれば、女の子である重菜を連れて行った方が都合がいい。しかし、わざわざ重菜を巻き込むようなことなのだろうか。
強い風が吹きぬけ、考える熱を奪っていく。
静かな公園で、大きな波が音を上げ、同時に車の通りすぎる音が聞こえた時、亜留は重菜に向かって言った。
「わかった、一緒に沙織を探しに行こう、重菜」
「うん、ありがとう、亜留君」
先ほどよりも優しい風が吹き抜け、重菜の茶色く長い髪を揺らす。ふと、亜留は携帯電話を取り出して時間を確認した。
「七時四十五分、か。今から外に出かける準備したら、どのくらいかかりそう?」
「そうね、大体三十分くらいはかかるかな」
「じゃあ、八時二十分に阿流野辺バス停に集合でいいかな」
「うん、じゃあ、一度家に帰って準備してくるね」
そういうと、重菜は「また後で」と言って急いで家に向かった。
「はあ、それにしても重菜まで巻き込むとは……」
「まあよいではないか。そのまま鱈瀬神社に行って恥をかくよりは」
「まあそうだけど……」
重菜が見えなくなったのを確認すると、亜留は公園の向こうにある堤防の上に上った。
気が付けば、太陽も少し高い位置まで昇っていた。道路から聞こえる車のエンジン音も、徐々に数を増していった。