プロローグ 最初のファン
「恋って、アイドルになればいいのに」
最初にそう言ったのは、灯だった。
放課後。
教室には、もうほとんど人が残っていなかった。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえている。
恋は机に頬杖をつきながら、スマートフォンを眺めていた。
「何、急に」
「急じゃないよ」
向かいの席で、灯はコンビニで買ったいちごミルクを飲んでいる。
「前から思ってた」
「何を」
「恋、アイドル向いてる」
「どこが」
「顔」
「そこ?」
「あと、なんか目立つ」
「雑すぎ」
恋は笑った。
アイドル。
自分とは、あまり関係のない言葉だった。
見ることはある。
曲も知っている。
かわいい衣装も好きだった。
でも、自分がなるものだとは考えたことがなかった。
「無理だよ」
恋はスマートフォンに視線を戻した。
「なんで?」
「なんでって」
「かわいいじゃん」
「かわいい子なんて、いっぱいいるでしょ」
「いるね」
「じゃあ無理じゃん」
「何でそうなるの」
灯が笑う。
「歌だって、別に上手くないし」
「練習すれば?」
「ダンスもやったことない」
「練習すれば?」
「人前とか緊張するし」
「慣れれば?」
「全部適当じゃん」
「でも」
灯は、いちごミルクを机に置いた。
「私がファンだったら、恋見るけど」
恋の指が止まった。
「……何それ」
「そのまま」
「灯だからでしょ」
「そうかも」
あっさり認める。
「ほら」
「でも、一人いるじゃん」
「何が?」
「ファン」
恋は灯を見る。
「一人じゃん」
灯は少し考えて、それから笑った。
「最初の一人ね」
「何それ」
「ゼロよりいいでしょ」
「規模ちっちゃ」
「最初なんて、そんなもんじゃない?」
恋は笑った。
「じゃあ、灯が最初のファン?」
「うん」
「まだアイドルじゃないけど」
「予約しとく」
「何を」
「最古参」
「気が早いって」
2人で笑った。
その日は、それで終わった。
恋も、きっと忘れると思っていた。
◇
数日後。
灯がスマートフォンを恋の前に差し出した。
「これ」
「何?」
画面には、アイドルオーディションの募集ページが表示されていた。
「受けよう」
「え」
「私も受ける」
恋は画面と灯を交互に見る。
「灯も?」
「うん」
「アイドルやりたかったの?」
「ちょっと」
「初耳なんだけど」
「今言ったからね」
灯は笑う。
恋は、もう一度画面を見る。
応募資格。
年齢。
締切。
審査。
知らなかった言葉が、急に自分のすぐ近くまで来たような気がした。
「……無理でしょ」
「またそれ」
「だって」
「落ちたら?」
「嫌じゃん」
「じゃあ受かったら?」
恋は黙った。
受かったら。
その先を、考えたことがなかった。
ステージ。
衣装。
照明。
歌。
客席。
自分には似合わない。
そう思うのに、ほんの少しだけ見てみたいとも思った。
「灯は?」
「何?」
「受かったら、どうしたい?」
灯は少し考えた。
「ライブしたい」
「ライブ?」
「うん」
「どこで?」
灯はスマートフォンを操作して、一枚の写真を見せた。
大きな会場。
暗い客席。
無数の光。
「ここ」
恋は画面を見る。
「大きすぎない?」
「夢だからいいの」
「何年かかるの」
「知らない」
「適当」
「でも」
灯は画面を指でなぞった。
「客席が暗くなって、ペンライトがいっぱい光るじゃん」
「うん」
「あれをステージから見たい」
恋は写真を見る。
数えきれないほどの、小さな光。
「……綺麗」
「でしょ」
少しだけ、想像した。
そこに自分がいるところを。
そして。
隣には、灯。
「いつか」
灯が言った。
「2人で、ここに立とうよ」
恋は、すぐには答えなかった。
そんな未来。
あるわけない。
そう思うのに。
「……受かったらね」
灯が笑う。
「そこは『立とう』でいいじゃん」
「まだ応募もしてないし」
「じゃあ、まず応募」
「今日?」
「今日」
「締切まだ先じゃん」
「恋、絶対あとでやるって言って忘れるから」
「忘れないし」
「じゃあ今やろ」
「強引」
2人で、一つの画面を覗き込む。
名前。
生年月日。
写真。
自己PR。
恋は何度も手を止めた。
「これでいい?」
「いい」
「写真変じゃない?」
「かわいい」
「自己PR短くない?」
「長くても恋らしくない」
「それ褒めてる?」
「褒めてる」
最後。
応募する。
そのボタンだけが、妙に大きく見えた。
「押して」
灯が言う。
「灯が押してよ」
「恋の応募でしょ」
「怖い」
「落ちるだけだよ」
「縁起悪」
「受かるかもしれないし」
恋は息を吸った。
押した。
画面に、応募完了の文字。
「……送っちゃった」
「送ったね」
「どうしよう」
「知らない」
「灯がやれって言ったんじゃん」
「じゃあ責任取る」
「どうやって」
灯は少し考える。
「一緒に受かる」
恋は吹き出した。
「何それ」
「一番いいでしょ」
「まあね」
◇
あの頃。
2人は、本当に。
それでいいと思っていた。
同じ日に応募して。
同じ審査を受けて。
同じ場所に合格して。
同じステージに立つ。
その先も、ずっと。
同じ速さで、同じ道を歩いていけると。
まだ、何も知らなかった。
誰かが先に見つかることも。
誰かが選ばれることも。
誰かが立ち止まることも。
同じ夢を見た2人が、違う道を選ぶことも。
何も。
ただ。
その日。
まだ誰にも知られていなかった恋を、
一人だけ、見つけた人がいた。
それが、始まりだった。




