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アトラースの天盤  作者: のぎく
3/3

3 上司



「どんなに手を洗っても、その感覚は消えないよ。それに慣れるんだ」


背後からかけられた声に、肩が跳ねた。


塔の中層にある詰所。蛇口から出る水は、無機質な消毒液の匂いがした。


振り返ると、新しい上司が立っていた。


制服を綺麗に着崩し、生身の目でじっと私の顔――視線の動きを観察している。


「はじめまして。今日から君の指示役となった。よろしく」


「……よろしくお願いします」


私は濡れた手を拭い、右目のログを確認した。


『心拍数:88。バイタル:やや不安定』



「……何か、不手際がありましたか」


「いや、逆だよ。君は、本当に『筋』がいいね。君の『合焦フォーカス』の精度は予測値の0.3%も狂わなかった」


上司は首をかしげた。


「ただ、波形にノイズが混じっている。……怖かったのかい? 自分が付けた『注釈』で、男が止血のために焼かれたことが」


「……いえ。私はただ、手順通りに」


「そうだ。手順は正しい。システムも正しい」


上司は、年上の兄が妹を諭すような、どこか「歪んだ優しさ」を湛えて微笑んだ。


「でも、効率が良いことと、安定していることは別だ。納得できないまま無理に動けば、いつか君の心は矛盾によって焼き切れてしまうだろう。私は君に、そんな風に壊れてほしくないんだ」


彼はは懐から、古びた閲覧端末を取り出し、私に差し出した。

少し古い型で、角の塗装が剥げている。


「これから、塔の適合性検査が行われるため待機時間が増える。合間に、これを読んでおくといい。任務資料ではなく、ただの『デバッグ・ログ』……まあ、教養だね」



画面には、今の規約ができる前の、歪な計算式や説明が並んでいた。


誰を「人間」とし、何を「資源」として再定義したか。その試行錯誤の跡。


「今の君に必要なのは、反射神経じゃない。システムがなぜそんな判断をしたのかを知ることだ。納得は、摩擦を減らすために重要だからね」


上司は、どこか遠くを見るような目で、優しく付け加えた。


「前任者は『判断するな』と言ったそうだが、私は違う。君には『判断する準備』をしてほしい。さもなければ、君は次の**適合性検査テスト**に受からない。君の優秀さを、あんな検査で損なうのはもったいないからね。……彼のように、何も知らずに壊れていくのは、個体としてあまりに不憫だ」


そこまで言って、上司は不意に閲覧端末に目をやった。



――笑っていない。



瞳には光がなく、ただ計算が合っているかを確認するような、冷徹な目がそこにあった。



「無理に動かしても、無駄なんだよ。私は、効率の悪い壊れ方をする道具が一番嫌いだ」


上司は、端末を台の上に放り投げた。


「君のため」なんて甘い言葉は、今の彼には一欠片も残っていなかった。


「待機中に読んでおけ。任務資料じゃない。今のシステムが、どうやってその『残酷な正解』を弾き出したかの記録だ。

……後始末をさせられる私の身にもなってくれ」


上司は振り返りもせず、足音もなく去っていった。

静まり返った詰所に、端末が放熱する微かな熱だけが残る。


私は一人、端末を起動した。



これは、かつて任務の為に使用されていた閲覧端末である。


経年劣化と安全性の問題により、現在は使用されていないはずであるが。規則に触れなければ所持していても問題はない。




視界の警告ログを無視して、非推奨データの海をなぞる。



ふと、先ほどの現場で使用された『電極ポール』の、初期開発時の設計思想が端末の画面に表示された。



かつてそれは、心停止した患者を蘇生するための医療器具として構想されていた。


それが15年前の改訂で「広域制圧用」へ転用され、5年前には「救助名目での副次的被害(焼灼)の容認」という一文が加わった。


私が今日行ったのは、救助だけではない。


システムが最も安価に、最も静かに、その場を「片付ける」ための手続きに、私の脳を貸し出しただけだ。





それを知れば知るほど、今まで信じていた「システムによる推奨された正しい手順」が、気味の悪い、逃げ場のない正解に見えてくる。


何も知らずに判断をしていたという事実が恐ろしかった。



私が「正しい」と信じていた世界の裏側には、血の通わない等価交換の数式が、果てしなく積み上がっていた。



規約は最初から、私がこう動くように、この感情を抱くように、25年かけて「最適解」を設計していたのだ。



私は、無意識のうちに手で握りしめていた制服の裾を見た。


この布の繊維一本一本までが、管理されたリソースの一部なのだ。




端末を閉じた。



詰所の静寂の中で、換気扇の回る音だけが、システムの呼吸のように聞こえる。




ふと、視界の端に映ったシンク。



排水口へ向かって流れていた最後の一滴が、ステンレスのわずかな傷に引っかかり、震えながら止まった。


排水口の淵で表面張力により耐えていた最後の一滴が、するり、と暗がりに吸い込まれていった。













私はその日も、上司から渡された閲覧端末を操作していた。


並んでいたのは、秘匿された歴史などではなく、過去二十五年分のごくありふれた『運用規約の改訂履歴』である。



「ただの古いマニュアルだよ。現場の『効率』がどう改善されてきたか、その変遷を知っておくのも教養だ」



上司はそう言ったが、読み進めるうちに喉の奥が乾く。


二十五年前。私が生まれる7年前、その規約にはまだ「状況に応じた現場判断の尊重」という項目があった。


それが十五年前には「システムの推奨への準拠」に書き換えられ、五年前にはついに「補助員は事象の確定のみを職務とし、二次的影響を考慮することを禁ずる」という一文が加わった。


不自然なほどスムーズな、二十五年をかけた「個人の剥奪」。


それはアクセス制限の厳しい禁書ではなく、誰でも見られる『効率化の記録』として、塔のシステムに平然と置かれていた。


誰もが、良かれと思って少しずつ責任を手放していった結果が、今のこの無機質な塔なのだ。




その数日後。


私は単独で、下層の「非管理区域」への見回りを命じられた。

記録も最低限。それは、そこが「効率」の計算外にある場所だという意味だ。



層を繋ぐ螺旋階段を降りきった先。更に金属の街を下り塔から遠ざかる。


デバイスにより指定された、メンテナンス層の奥は、これまで見てきたどの場所よりも静かだった。


頭上の金属の天井が遠ざかり、代わりにむき出しの配線と、腐食した金属の匂いが立ち込めている。



そこで、彼はいた。



壁にもたれて、壊れかけの端末を分解している男。



制服も、識別タグもない。私の右目のコンタクトは、彼を捉えても『個体識別不能』という灰色のエラーを出すだけだった。


「……あなたは、システムに登録されていません。」


口をついて出たのは、教官から叩き込まれた定型句だった。

男は顔を上げ、小さく笑った。


「だろうね。俺もそう思ってた。おたくの目は、俺を『壁の一部』か何かだと思ってるんだろ?」



その声には、怯えもなければ、敵意もなかった。



「久しぶりに聞いたよ、人の足音。……ドローンの羽音じゃないやつは、案外響くもんだな」



私は一歩、彼に近づいた。



コンタクトのログは依然としてエラーを吐き続けている。



過去二十五年の改訂で、切り捨てられてきた「例外イレギュラー」。



目の前にいるのは、法が最適化を繰り返す過程で、計算式から消しゴムで消された、この塔の「余剰」そのものだった。


「……ここは、危険ではないんですか」


自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。

男は少し考えてから、分解していた端末のパーツを弄び、肩をすくめた。


「さあ。でも少なくとも、俺はここにしかいられないんだ。……あんたたちの『管理』が届かない場所は、案外落ち着くぜ?」


その言葉が、端末で読んだどの効率化ログよりも重く響いた。








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