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04.自由を求める影

本日6話投稿です。(4/6)

翌朝、スラムの空は灰色の膜に覆われていた。

上層から垂れる広告板のネオンが夜の名残を消さず、湿った空気に紫や緑の反射を散らしている。

路地を吹く風には腐った豆と焦げ油の匂いが混じり、それがこの街に朝を告げる鐘のように漂っていた。


古びた木の宿屋のカウンターで、婆は油じみた布でコップを拭きながら、ぼやきを漏らしていた。


「まったく……昨日も客は三人ぽっちだよ。家賃も魔導光の税も上がるってのに」


彼女――オトラ婆は、このスラムで三十年近く宿を営んできた。

夫はとうに死に、子どももいない。宿は彼女にとって唯一の財産であり、残された誇りでもあった。

だが誇りだけで腹は膨れない。商売は年々厳しくなり、ギルドの取り立ては苛烈になる一方だ。

客は皆、似たり寄ったりの薄汚れた労働者ばかり。宿代を滞納する者も珍しくない。

婆はそういう者を追い出すこともできず、結局は古い毛布を縫い直し、煮豆の水を増やして食わせる。


(あたしがこんな場所で生き長らえてるのも、ある意味奇跡みたいなもんさね)


ため息を吐いたとき、二階のきしむ階段がぎしりと鳴った。


「……婆さん」


かすれた声に振り向くと、ユキヤが階段の影から姿を現した。

作業着は裂け、煤と血で汚れきっている。片足を少し引きずっていた。


「……なんだい、そのざまは」


婆は思わず声を荒げた。

拭いていたコップを乱暴に置き、腰を突き出すようにして睨む。


「また危険な現場に行ったんだろう。あんた、命がいくつあっても足りやしないよ」


ユキヤは返事をしなかった。

ただ、カウンターの椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。


婆の目に映ったのは疲れ切った少年の姿のはずだった。だが、その瞳の奥には、得体の知れない光が揺れているように見えた。


「ちょっと待ってな」


婆は慌てて棚から薬草の瓶と清潔な布を取り出した。

卓上に置き、彼の裂けた袖を捲る。擦過傷、切り傷、火傷の痕。一晩経つが、どれも浅くはない。


「おやおや……骨までいってなくて良かったよ」


小言をぶつぶつ呟きながら、布に薬草液を染み込ませて手当てする。


ユキヤは相変わらず黙っている。

表情を歪めることもなく、痛みに顔をしかめることもない。


(変だね……この子、前はもっと痛みに敏感だったろうに)


婆は心の中でそう呟いた。まるで痛覚そのものが遠ざかっているような無表情。

その冷たさに、薄ら寒さを覚える。


「ユキヤ」


婆は布をきつく巻きつけながら、声を低くした。


「あんた、危険な仕事はやめな。命を捨てるような真似をするんじゃないよ」


ようやく彼は口を開いた。


「金がいるんだ」


それだけだった。

婆は目を細め、溜め息を吐いた。


「まったく、金金金。あんたの頭の中にはそれしかないのかい」


「金があれば、自由に生きられる」


「自由、ねぇ……」


婆は視線を逸らした。口を挟むことはしなかったが、その響きはどこか虚ろで、胸に冷たい穴を穿った。

欲深さというより、渇きに似ている。何かを求めながらも、決して満たされない音。


(この子は、本当に愛されたことがないんだろうね……)


スラムに流れ着く孤児は珍しくない。

多くは路地で飢え死にするか、盗みに走って捕まるか。

ユキヤがここまで生き延びてきたのは、それだけで立派なことだと婆は思う。

だが彼の目の奥には、生きることそのものへの興味が薄いような影がいつも漂っていた。


「婆さん」


ユキヤの声が静かに響く。


「仕事を探してくる」


「もう少し休んでからにしな」


「休んでいる時間がもったいない」


そう言い残し、彼は席を立った。包帯の端を乱暴に結び直し、出口へと歩く。

婆はその背中を見送るしかなかった。


だが、胸の奥に奇妙な感覚が残った。


今までと、どこか違っていた。疲れているはずなのに、姿勢は妙に整い、歩幅は一定だ。まるで訓練を重ねたギルド兵のように。


(あの子……何か変わった? いや、変わってしまったのかもしれないね)


婆は再びカウンターに戻った。

残りわずかな豆を大鍋に放り込み、薄いスープを仕込む。今日も宿を守らねばならない。

客が来なければ明日の仕入れもできない。


窓の外では、ネオンの広告が昼夜の境を曖昧に染め、子供たちが路地で喧嘩をしていた。


婆は鍋をかき回しながら、ふと呟いた。


「ユキヤ……どうか、ちゃんと生き延びておくれよ」


だがその声は、湿った蒸気に吸われ、宿の薄暗い天井に消えていった。


ユキヤの背中はもう見えない。彼はすでに次の仕事を求め、スラムの迷路へと歩み出していた。






屋台の列では偽造義肢や安物の魔導薬が並び、裏路地では誰かが殴られ、また別の誰かが血を吐いて倒れている。ギルドも放置したここ一帯は、金とコネと運だけがものを言う世界だ。


そんな街の一角、廃車のボディをくり抜いたような掘っ立て小屋がジャックスの店だった。


店主ジャックスは四十を少し超えた商人で、肥えた腹を黒いベストに押し込み、金の指輪を光らせる。

元はギルドの下働きだったが、独立して闇市で商売を始め、今ではスラムでそれなりに名を知られる存在だ。

表向きは雑貨屋、裏では違法パーツや不正規コードを売り捌く。


そのジャックスが、今朝は珍しく渋い顔をしていた。


「ちっ……この部品、完全に死んでやがる」


カウンターの上に転がっているのは、拳大の魔導変換器だった。旧式のモデルだが、軍用規格を流用した代物で、闇市場では高値がつく。

しかし魔術コードを走らせる基盤が焼け落ちていて、そのままではガラクタ同然だった。


彼は顎に手を当て、考え込む。


(修理できれば儲けになるが……この部品、扱いが難しい。ギルドの魔術師でも、コードを組み直すのに数日はかかる。俺みたいな素人じゃ手に負えん。さて、どうしたもんかね)


そんな時だった。


「仕事を探している」


扉の鈍い鐘が鳴り、若い声が入ってきた。

顔を上げると、そこに立っていたのは黒髪の少年――ユキヤだった。


ジャックスは風の噂で彼の名を知っていた。日雇いのガキ、孤独な流れ者。評判は芳しくない。

整備士としての腕は年齢の割にには悪くないが、周囲と馴染まない。

何より長くは生きられないと噂されていた。


(ほぅ……こいつが来るか)


ジャックスは小さく口角を上げた。ちょうどいい。

どうせ捨て駒同然の仕事だ。もし失敗しても惜しくはない。


「おう、ユキヤくん。ちょうどいいところに来たな」


ジャックスはわざと大げさに声を張り、少年を招き入れた。


「ひとつ厄介な部品があってな。こいつを直せりゃ報酬を弾もう。やってみるか?」


ユキヤは無言で頷いた。


カウンター越しに変換器を押し出すと、彼は両手で持ち上げ、じっと観察する。

焦げ跡の走った基盤、焼き切れた魔導線、ひび割れた補助刻印。常人ならすぐに匙を投げる状態だ。


ジャックスは腕を組み、わざと軽口を叩いた。


「気をつけろよ。そいつぁ軍用規格の魔導コードを噛んでる。下手に触れば爆ぜる。ま、無理だろうがな」


だが、ユキヤは聞いていないかのように作業を始めた。


工具袋から取り出したのは、小さな刻印針。焦げた基盤の表面を慎重になぞり、焼失したルーンを繋ぎ直す。

その手つきに迷いはなく、むしろ流れるようだった。


(……ん? 速いな)


ジャックスは眉をひそめる。


通常、魔術コードとは魔力を式に変換する手順だ。


人は魔力をそのまま扱えない。暴れ馬のように不安定で、方向を誤れば術者自身を焼き尽くす。

だから、古代の魔術師たちはコードを編み出した。


魔力を式に通すことで整流し、安定させ、狙った現象に落とし込む。

炎を出す、壁を張る、物を浮かせる――すべてはコードを走らせた結果だ。


だが、その計算は複雑を極める。普通の術者は分厚い書物を暗記したり、補助具にあらかじめコードを刻んで計算を省略する。即興で新しいコードを走らせるなど、熟練の魔術師でさえ数時間を要する。


それを――。


(こいつ、頭の中でやってるのか?)


ジャックスの目には、ユキヤの瞳が異様に鋭く見えた。針を走らせながら、まるで何かを見ている。虚空に浮かぶ数式でも読むように、瞬きもせず、正確にコードの欠落部分を補っていく。


「おい……」


思わず声が漏れた。

だがユキヤは反応しない。ただ、ひたすらに針を走らせる。


やがて、焼けた基盤に新しい光の筋が走った。淡い青のラインが繋がり、途切れていた回路がひとつの式として再構築される。


ジャックスは息を呑む。


(馬鹿な……常人がこんな短時間でコードを走らせるなんてあり得ねぇ。しかもこの効率……まるで最初から組まれていたみたいだ)


変換器の表面に刻まれたルーンが微かに脈動した。試しに魔力を流し込むと、基盤は素直に応答し、安定した光を放った。


「成功、だと?」


ジャックスは目を見開いた。思わず手の平に汗が滲む。


ユキヤは静かに工具をしまい、顔を上げた。


「終わった」


それだけを言う。


「……お前、どこでそんな技術を身につけた?」


問いに返るのは沈黙だけ。だが、ユキヤの瞳には一瞬だけ鈍い輝きが宿った。


ジャックスは背筋に冷たいものを感じた。


(こいつ……ただのガキじゃねぇ)


商売柄、彼は多くの人間を見てきた。欲に溺れる者、嘘をつく者、死に怯える者。

その誰もが、目の奥には生の揺らぎがある。

だがユキヤのそれは異質だった。渇望。生き急ぐ獣のような鋭さ。


(こいつ、利用できるなら――)


ジャックスは喉を鳴らし、不気味ににやりと笑った。


「いいだろう。報酬は約束どおりだ。いや、上乗せしてやらぁ。お前みたいな腕は滅多にいねぇ」


硬貨を数枚、カウンターに置いた。乾いた音が小屋に反響した。

ユキヤは短く頷き、硬貨を掴んだ。


ジャックスは目を細める。


(気持ち悪いガキめ)


外のネオンが、路地を紫に染めていた。

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