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第九章 大宝律令(三)

 行賞が読み上げられるたび、国麻呂はじめ役人らは次々とこうべを垂れた。家部宮道に褒美が与えられたのを聞きながら、成程広兄が来たのは宮道の代わりであったのかと、五瀬は密かに合点した。


「家部宮道の戸には終身において、全ての賦役(※)を免ずるものとする。そして上県郡の領民には以後三年間、賦役を免ずる。――最後に、鍛戸、三田五瀬」


 使いのひときわ大きな声が五瀬の名を読み上げた。


「金を精錬しこれを献じた功により、雑戸の名を免じ、正六位上の官位を授ける」


「な、何と。正六位上」


 飛び上がって大声を上げたのは五瀬ではなく、東人の方であった。広間にも、少しどよめきが走った。使いが咎めるような視線を向けた。皆は口をつぐみ、東人も慌てて、しおらしく顔を伏せた。


 五瀬は床に平伏したまま身じろぎもしなかったが、しかし這いつくばった体の下で、十本の指が熱を持ったようにぶるぶると震えていた。「雑戸の名を免ずる」使いは今確かにそう言った。その言葉が耳の奥で渦を巻いて響き、続いて読み上げられた行賞も、何ひとつ耳に入らなかった。


 使いは書状を少し持ち直して、行賞を続けた。


「三田五瀬には、領地として封五十戸、及び田十町を授ける。季禄については、金の精錬作業及び砂金の調査をもって出仕とみなし、上半期分のあしぎぬ、真綿、麻布、鍬を支給する」


 五瀬がたまわった行賞については、少し説明を加える必要があろう。


 まず封五十戸とは、領民が五十戸住む範囲の土地ということになる。戸数をもって区切るので広さはまちまちになるが、当時の土地区画では、五十戸、または六町(約六四五m)四方で一里、と定めていたので、ほぼそれ位の土地と思えばよいだろう。また、田十町とは約一千平方メートルの広さにあたる。これらの土地を、たまわった領民を使って耕作し、決められた分の租税を納め、営んで行くのである。


 季禄とは官人が受け取る給与である。半年間で百二十日以上の出仕が認められた者に、二月と八月の二度、布などで支給される。五瀬の場合出仕はしていないのだが、金精錬の功をかんがみて、朝廷は例外的に、半年分の給与を送ってよこしたのだった。


 最後に官位のことである。新令下では、官人の官位は下は少初位下から上は正一位まで三十階が設けられた。このうち、従五位下から上位は、古くからの有力氏族などに与えられる官位である。給与をはじめ、税、裁判に至るまで様々の待遇が与えられており、いわば特権階級であった。一方、下位の少初位下から正六位上までは、新たに登用されたり、民間から試験を受けて官人になった者に与えられる官位である。


 つまり、五瀬が叙位した正六位上とは、庶民に与えられるうちで最も高い官位ということになる。たった今まで奴婢も同然の賤民であった五瀬が、一瞬にして広大な領地を得、貴族ではないもののそれに近い官位を得たのであるから、東人が驚愕のあまり声を上げたのも無理もなかった。


「――以上である」


 読み終えると、使いは書状を再びもとのように巻き直し、手の中に収めた。くびすを返そうとした時、


「お、お待ち下さいませ。お尋ね致したきことがございます」


 広間の隅から、五瀬は取りすがるように声を上げた。使いは歩みを止め、伸び上がるようにして、人々の後ろにうずくまる粗末な身なりの男を見つけた。


「何者か」


「三田五瀬にございます。朝廷の命で遣わされて参った、金鍛冶にございます」


「三田五瀬、慎め」


 東人が大声でさえぎった。が、五瀬はひるまず、更に声を上げた。


「ただいまの行賞について、お尋ね致したきことがございます。何卒」


「雑戸、黙れと申すに。無礼であるぞ」


「対馬守殿、雑戸はあるまい」


 使いはおかしそうに笑いを含みながら東人をとどめた。


「あの者はもはや雑戸ではございませぬぞ。正六位上の官人じゃ。――三田五瀬、許す。何なりと尋ねよ」


「は、はい」


 五瀬は両手を床についたまま、前ににじり寄った。


「今しがた、貴方様は、三田五瀬の雑戸の名を免ずると。雑戸の名を免ずると、確かにおおせられましたが」


「如何にも」


「それは、雑戸を免ずるとは、その、如何なることにございましょうか」


「お主を雑戸の籍から抜き、良民の籍に移すのだ」


「籍を、良民に移す……」


 そう言われてなお、五瀬にははっきりとは理解が出来なかった。見かねた東人が横から口を出した。


「つまりよ。お主は雑戸ではなくなるのだ」


 そう言い直し、それから東人は、どうだ、嬉しかろうと戯言を言った。先程東人は、五瀬が金について何か不用意なことを口走るつもりではないかと咄嗟に恐れたのである。しかしそんな東人の緊張をよそに、五瀬が口にしたのはただ、与えられた行賞の意味が理解出来ぬという、何とも他愛ない問いかけに過ぎなかった。ほっと気が緩んだのか、五瀬に向かって戯言を言ったあと、彼は体を揺すって高らかに笑い出した。あまりに快活な笑い声に、その場にいた者がいぶかしげな視線を向けた程であった。


「我を、雑戸から……? 左様なことが許されるのでございますか」


 おずおずと五瀬は問い返したが、表情には当惑を越えておびえたような色があった。自分の置かれた境涯を五瀬はずっと憎悪して来た。理由も分からぬまま一族が雑戸の身分に置かれていることも、そのために良民から好き勝手に蔑まれ、なぶられることも、その不条理を激しく憎み憤って来た。だがその一方で、侮蔑されることしか知らぬ五瀬の心の中では、自分が自分であることと、蔑まれるべき賤民であることは、一つに癒着してしまっていた。だからいきなり、もう雑戸ではないと告げられても、五瀬はそこに幸福など見出せず、かえって、体と魂が引き離されるような恐れを抱いただけであった。


 だが、そんな野良犬のような哀れな心中を、誰が知ろう。五瀬の言葉を、ただその卑しさゆえの無知のせいにして、五瀬を囲んだ者たちは一斉に笑い出した。使いの役人はもちろん、東人も、国麻呂や広兄、下級役人どもまでも残らず笑った。さんざん面白おかしく笑うと、誰も問いかけには答えぬまま、皆は五瀬を残してぞろぞろと広間を出て行った。朝廷からの使いを歓待する宴が、用意されているのである。


      * * * * *


 翌日、五瀬はあらためて東人から呼び出され、近く国衙の屋敷に移るよう、命じられた。


「ちょうど空き家になっておるのが一つあってな、修繕させておる。上がりしだい、お主の汚い小屋は取り壊して移れ。六位殿を竪穴に住まわせておくわけには行かぬゆえな」


 昨夜の酒がまだ残っている東人は、酔ったにおいと共に、包み隠しもせずそんな嫌味じみたことを言った。


「それから都から来ておるお主の季禄は、これはわしの方で預かっておる。屋敷が出来たらそちらへ運ばせる」


「はあ。あの……」


「案ずるな。横領などせぬわ。お主からすれば目の覚めるようなものであろうが、六位ごときの受け取る季禄なぞ、わしには何ほどのものでもない」


 六位、六位と東人はうるさかった。声音の端々に、五瀬の栄達へのねたみがちらちらと見え隠れした。実際には五位と六位では待遇に天と地ほどの差があるのだから、従五位上の東人が正六位上の五瀬にねたみを向ける道理はないのだが、人の内面とはそういうものであるらしかった。


「館様。屋敷よりも、国許へ帰る許しをいただきたいのでございますが。命ぜられた仕事は終えたのでございますから、我がこの対馬にいる理由は、もはやないと存じますが」


「いや、それはならぬ」


 しかし、東人は五瀬の申し出を言下に蹴った。


「お主は、わしの下で砂金の調査をしておる。わしの赴任中は調査は続けることになっておる」


 驚くようなことを言い出した。


「こういうことだ」


 何を言われたのかまるで分からず、問い返すいとくちを失っている五瀬に、東人は涼しい顔で説明した。


 銀鉱の場合は、銀山の鉱脈を深い方へと掘り進んで行けば、相当の量を採掘することが可能であるが、しかし一方砂金はといえば、川をあらかたさらってしまえば、そこでたちまち枯渇してしまうものなのである。


「樫根の『砂金』はそれゆえ、採り尽くしてもはや残っておらぬ。だが、対馬には他にも砂金の産する川があるやもしれぬ。鋭意調査中というわけだ」


 東人は砂金の取れる地理的な条件を上げ、その条件に合っている対馬の地名を二、三示して見せた。そして、ついては三田五瀬は金に精通している者であるため、調査に加わらせているのだと言った。


「しかし、我は砂金を調べになど今まで一度も行っておりませぬが」


「たわけ。本当に行く奴がおるか。都にはそのように報告しておるというだけの話だ。そうしたわけだから、わしが対馬守を務めるうちは、お主は島におらねばならぬ」


「……」


 東人が、いつの間にか金銀に関する知識をあれこれと蓄積していたことに五瀬は少なからず驚いたのだったが、しかしそれが自らの詐偽を糊塗するための努力と分かると、素直に感心する気にはなれなかった。そしてあの時は聞き流してしまっていたが、朝廷の使いが、「金の精錬作業」と「砂金の調査」をもって出仕とみなすと、少々不可解なことを言っていたわけも、これで納得が行った。


「では、貴方様はいつまで対馬に」


「任期は再来年の秋に終わる。あと二年といったところじゃ」


 と、東人はさらりと答え、五瀬には返す言葉がなかった。工房をたたんでから今日まで、五瀬は帰郷の許しが出るのを文字通り一日千秋の思いで待っていたのである。今日には来るのではないか、明日には来てもおかしくないはずだと過ぎた日を数え、足音が聞こえればこちらに向かって来はせぬかと耳をそばだてていたのである。であるというのに、あと二年、対馬に足止めされるとは。


 何もかもが五瀬の知らぬところで勝手に決められ、しかも今の今まで何も知らされていなかったことが腹立たしかった。来るはずのないものを待って一年近くも気をもんでいた自分の間抜けさ加減が哀れであった。


「まあ、出世したお主のことだ、すぐにでも宮中に出仕したいという気持ちは分からぬでもないが」


 東人は立って来ると、にやにやと口元をゆるめながら、手つきばかりは親しげに、五瀬の肩をぽんと叩いた。


「どのみち出仕したところでお主に出来る仕事なぞない。あと二年、ここでおとなしく字の鍛練でもしておることだ」


「字?」


「おうさ。読み書きなしに宮仕えは出来ぬぞ。――ほれ」


 そう言うと、東人は部屋の隅から何やら一冊の書物を拾い上げ、五瀬の手に押しつけた。試しに開いてみると成程字がびっしりと書いてあったが、しかしもちろんのこと五瀬には何が何やらさっぱり分からなかった。


 そのまま、何が書かれてあるのかも分からぬ書物と、憤懣やる方ない思いを抱えて、五瀬は東人の屋敷を出た。


『広かろうが狭かろうが、結局は檻の中か』


 金の精錬の間、五瀬は職工らと共に山の工房に監禁されていた。そしてそこから解放されたと思ったら、今度はこの対馬に監禁されるのであった。


 そのまま憮然として歩いていると、いつの間にか海に出ていた。砂浜には死んだ貝や打ち上げられた藻が散乱し、波打ちぎわを冬の潮が力弱く洗っていた。海原を渡って来る風は刺すようであったが、その下に横たわる波は夏の頃の鋭さを失い、緑色の海と白くあせた波がしらは時折藻を浮かべながらただ緩慢に馴れ合って揺れていた。


 緑色に沈んで漂って行く潮は、遠く難波の津までもつながっているはずであった。波がゆらゆらと運ばれて行くその彼方を見やりながら、五瀬は故郷を思った。そして父母はどうしているだろうかと、しきりと案じられた。大和の地は凍てついている頃であろう。風が冷えるようになると、父の症状は重くなる。早く帰って安心させてやりたいものを……。


 自分も波間に浮かんだ藻屑のようなものだと五瀬は肩を落とした。自分のあずかり知らないもののために、気まま勝手に右に揺られ、左に揺られ、そうやってもてあそばれて結局はどこへ行き着くのか。どうにもならないいらだちに、五瀬は深いため息を洩らした。

(第九章・了)

※ 領民に課せられる強制労働

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