第八章 憂悶の日々(一)
鬱屈した時が、工房を流れて行く。
ここで時を刻むのは陽でも、月でもない。ただるつぼの中で溶けて行く金である。
炉の間を歩きながら作業を見回っていた五瀬は、足を止め職工の手元をのぞいた。少しふいごの風が強過ぎるようである。かがみ込んで、風を弱めるよう男に注意をうながした。ふいごを取り上げて男の手に風を送って見せ、加減を示した。男が無機的に頷いてふいごを動かし始めたのを見届けておいて、五瀬は立ち上がった。
立ち上がると、むっとするいきれが顔を包んだ。地面には二十もの炉がずらりと並んでいる。それぞれに二人ずつ職工がつき、黙々と炭を吹き続けていた。火気や、るつぼから上がる鉛の蒸気を逃すため、作業場は壁がないのはもちろん、屋根もかなり高く作ってある。しかしいまだ厳しい残暑が地表にとどまる季節のことで、熱は思うように外には抜けず、火気と人の体温は入りまじって不快ないきれとなり、工房に厚く重く、こもっていた。
ぽつりと、雨粒の音がした。耳をそばだてる間もなく、たちまち大粒の驟雨が白く地を叩き出した。水しぶきが上がり、砕けた土が飛び散った。雨に引き寄せられて風が立ち、工房のいきれを押し流した。肌にわずかな涼を感じ、職工たちはるつぼから顔を上げ、流れ落ちる汗を拭った。おちこちから、安堵の息が小さく洩れた。
周囲を警備していた兵士が、雨に追われてばらばらと屋根の下に逃げ込んだ。突然の降雨を口々にののしりながら、雨粒を払い落とした。腰に吊った剣が耳ざわりな音を立てた。金具のすれ合う音も、吐き散らすような大声も、すり減った神経に障った。五瀬は反射的に顔をそむけ、雨の降りしきるおもてへ目を移した。
風とおしを良くするため、工房の周囲は木がすっかり払ってある。そのぽっかりと虚ろに空いた平地に一面、雨足が矢となって注いでいる。空き地を囲むように職工たちの粗末な小屋が三三五五、そして警備の兵士たちが寝泊りする兵舎が大きくうずくまり、雨の向こうに黒い影をにじませていた。
工房は、国衙から一里(約四km)ばかり隔たった丘陵地の中にある。精錬作業にあたる職工は四十人、皆、厳原のあちらこちらの浦里から徴集された漁夫の若者である。その他に警備の兵士が二十人ばかり駐留しており、工房を中心とした村落の如きものが形成されていた。
「村」の周りで人の姿に会うことはまずない。林の中を少し行けば村落があるはずなのだが、村人が興味本位で精錬場をのぞかないようにと警備兵が昼夜を問わず厳しく見張っており、誰も近づかないのだった。そのため工房の一帯は、人里から隔離された山奥の弧村のような寂寥感が支配している。こうして雨音に覆いつくされる日は、寂寞の冷たさは尚更に強く、男たちの胸を噛んだ。
五瀬を呼ぶ声がした。工房の隅の炉から、職工がこちらへ首を伸ばしていた。炉には錬金に使うものよりもかなり大振りの、椀ほどのるつぼがかけられ、真っ赤に焼けている。るつぼを示して、職工は、もう頃おいだろうかと五瀬に確かめた。中で赤く煮えたぎっているのは金である。
るつぼをうかがってから、五瀬は近くにいた者を少し下がらせた。職工は注意深く火ばしでるつぼを下ろし、土を固めた鋳型に金を流した。一列に並んだ、小さな貝型のくぼみに順々に金が流れ込み、一瞬、土が焼けて炎が上がった。精錬された砂金は小さな粒状をしているため、そのままでは献上品として見栄えが良くない。そこで大型のるつぼに集めて溶かし、型に流し込んで大きさと形を整えるのである。
このような手順で仕上げられた金塊は、村の倉に納められる。村には一定の日かずを置いて役人が来る。金塊を国衙の正倉へと運び出し、代わりにあらたな砂金を置いて行くが、これは言うまでもなく、もはや樫根の金ではない。東人と国麻呂が資金を用立てて、密かに大宰府を通じて買い入れた大陸の金であった。
一連の繰り返しがいつまで続くのか、職工たちは誰も知らない。果てもなく続くかに思われる苦役の底にいる男たちには、日が昇っても、月が満ちても、それは何ものも意味しない。ただ手元のるつぼから金が上がり、そして警備の兵を引き連れて役人がものものしく金塊を運び出しに来ること、それだけが、苦役を終えて村に戻れる日がわずかに一歩近づいたことを示す、時の刻みであった。
地を騒がせた驟雨が、穏やかな糠雨に変わる頃、村に来訪があった。二人の防人が酒がめを背負って訪れたのだった。職工たちのもとにはだいたい月に一度の割合で酒が届けられる。東人からの差し入れ、などという気の効いたものでは無論なく、徴集された息子や夫をねぎらいたい一心で、浦里の女たちが皆で醸しては送り届けているのである。
人里のにおいを懐かしんで、職工たちは防人と少し話をしたい様子であったが、兵士は剣を鳴らしてそれを許さなかった。防人は荷を降ろすと兵士に追い立てられるようにして、そそくさと来た道を戻って行った。酒の他にも、食料などを運んで防人がたまさか村を訪れることがあったが、職工たちは外から来訪した者と口をきくことは厳しく禁じられていた。東人は人々の目や口を恐れていた。愚民の好奇心は時として、それと知らぬままに真実を探り当てることがある。樫根ではなく大陸産の砂金を錬っているとは、職工たちは誰も知らないのだが、それでも彼らが何気なく言ったどんな言葉が、思いもかけぬ噂を呼ばぬとも限らない。東人は神経を尖らせているのだった。
夜を待って、男たちは火の周りに集まり酒を酌んだ。座には久し振りに話がはずみ、笑いが湧き、歌が流れた。
五瀬はひとり倉に入り、今日仕上がった金の出来を調べた。形が大きくゆがんだり、端が欠けたりしたものがないか、明かりをかざして入念にあらためた。
精錬事業は一体どこまで進んでいるのか、それは五瀬にも分からなかった。どの程度の重さの金を献上するつもりなのか、五瀬は聞かされていない。そして金塊は仕上がるそばから国衙の正倉に運ばれてしまうため、今までにどのくらいの金を仕上げたのかも判然としなかった。
五瀬の手の中で金塊は夢のような輝きを放ち、しかしその手ざわりは酷薄に冷たい。都の熱狂ぶりを五瀬は覚えている。自国で産した金であったればこその価値であり、都人の歓喜だったのである。これは大陸の金であった。これまで飛鳥の工房で錬られ、そして細工物にされて献じられて来た数多くの金と何ら変わるものではない。とすれば、この箱の中の金は、鍍金をほどこした石ころに等しかった。
息苦しさが咽を下りた。溶けた鉛を呑むようであった。金を一つ錬り、仕上げるそのたびごとに、朝廷への詐偽を一つ、五瀬は積み上げている。国衙の倉に積まれて行く金の重みは、そのまま五瀬の罪の重みであり、精神の重圧だった。
転がり落ちた金が箱の底で重たい音をたてた。唯一の救いは、大宰府から買い入れた砂金が非常に良質なことだった。飛鳥では質の低い砂金の精錬も随分やらされたものだが、劣悪な砂金は時に四度も五度もるつぼにかけねばならず、その分、時も手間も余計にかかってしまう。しかしここで扱っているものは、大抵二度もるつぼで焼けばまじりものは飛ぶ。予想していたよりも早く、職工たちを元の漁夫の暮らしに帰してやれるかもしれない。五瀬にはそれがせめてもの慰めだった。
「――五瀬、五瀬」
おもてに澄んだ声がして、五瀬は我に返った。戸口からのぞくと、栗のように丸い目の少年が、こちらを見上げていた。
「雪麻呂か、どうした」
「五瀬の分だ」
雪麻呂と呼ばれた少年は手に持って来た椀を示し、人懐こく手招いた。酒を取り分けて持って来てくれたのである。五瀬は微笑して地面に下りた。椀をもらい、咽に流した。何から作るのか知らないが、浦里の女たちが醸すこの酒はやたらに強い。腹の底に火になって沁み渡り、五瀬は思わず長息を吐いた。
雪麻呂は工房に集められた男たちの中で、最も年若の少年だった。まだ細い体つきや、子供子供した表情などから、十二か十三くらいと思われるのだが、雪麻呂自身は五瀬に、来年十七になるのだと言い張っていた。この雪麻呂が、何が気に入ったのか五瀬になついているのだった。しばしば小屋を訪れては都の話をねだったり、こうして酒を差し入れたりしてくれていた。
「一緒に来れば良いのに。どうせ皆すぐに酔っぱらってしまうし、誰か文句を言っても気にすることはないよ」
顎を上げゆっくりと酒を干す五瀬を眺めながら雪麻呂が言った。
「何、気にはせぬよ。だがせっかくの酒だ。おれなぞがわざわざ顔を出して興をそいでは悪かろう。――美味かった。さあ、もう皆のところへ戻れ」
「うん」
と頷いて、しかし雪麻呂はなかなか動こうとしなかった。手の中で椀をもてあそんでいたが、
「五瀬、祭りのことだけれど」
少し上目づかいに言った。
来月、厳原のおちこちの浦里では祭祀が行われることになっていた。海の神を降ろし一年の豊漁を祈る大事な祭祀なのである。そのため少し前から職工たちは、祭祀のある一日だけでも、各々の村に戻りたいと、工房を総轄している武官にかけ合っていた。五瀬はいわば部外者であるためこの件にはかかわっていなかったが、結局、職工が順繰りに村に帰られては工房が動かないという理由で申し出が退けられたことは、耳にしていた。
「村に戻れることになったのか」
雪麻呂は渋い顔で首を振った。職工の中で最年長の追海という青年が皆の代表になって、村に戻る代わりにここで祭祀を行いたいと武官に頼み込んでいるのだが、どうも旗色が悪いのだという。そうかもしれんな、と五瀬はつぶやいた。しかし、工房で海の神を祭ることに、武官が何か具体的な懸念を抱いているというのではない。五瀬にも覚えがあるが、工房のように大勢の人間を集め管理する役人とは、とにかく軽微な面倒でも嫌うのである。役人とはそういうものだと言って、五瀬は雪麻呂を慰めた。
「それで、五瀬に頼みたいのだけれど」
と、この人懐こい少年にしては遠慮がちな伏目で言った。
「祭りのこと、五瀬から役人に頼んで欲しいのだけれど。奴ら、五瀬の言うことなら聞くだろう?」
「ふむ」
五瀬は少し苦笑した。雪麻呂の頭には酒の差し入れの一件があるのに違いなかった。酒を作って送っているのは浦里の女たちであるが、しかしもともと、職工たちを慰撫するために時折酒を差し入れることを武官に提案したのは、五瀬だったのである。とはいえ、五瀬の言が容れられたのは、何も武官と懇意であるためではない。飛鳥の工房では、仲間たちと共に不満を通しに役人とかけ合ったことが幾度かある。その経験がものを言ったに過ぎなかった。
「分かった。口説けるかは分からんが、行ってみよう。だが雪麻呂、このことは皆に黙っておれ」
「どうして」
「おれがかけ合ったと知れたら追海の面目がつぶれるであろうが」
「そうか」
雪麻呂は神妙な顔つきで頷いた。が、すぐにいたずら盛りの子犬のような顔に戻り、また都の話を聞きたいから、後で小屋に行ってもいいかと、袖を引っぱってねだった。
「構わないよ」
手を伸ばして少年の頭を手荒く撫でてやると、子供扱いを嫌って雪麻呂は後ろに飛びずさった。鼻の辺りに照れたような笑みをちらりと残して、雪麻呂は闇の中へ駆け去って行った。
このように五瀬に親しみを向けてくれるのは、しかし職工の中では雪麻呂唯一人だった。他の男たちの五瀬に向ける視線は、おしなべて冷ややかだった。中にはあからさまに、嫌悪や憎悪の感情を含んだ目すらもあった。しかしそれは無理もないことだと、五瀬は思っていた。
男たちは皆、突如としてそれまで営んでいた暮らしから引き離され、全く理不尽にこのような孤村に連れて来られた。慣れぬ仕事を強いられ、家族ともいつ会えるか分からない。彼らの、国衙の役人に対する憤懣は大きかった。役人の命で工房を監督し、役人と同じく余所者である五瀬は、職工たちの目にはどうしても役人の側の人間である。親しみを抱けぬのは道理であった。
しかし職工たちに対して冷ややかな態度を通しているのは、五瀬もまた同じであった。錬金の技術こそ、手を取るようにして丁寧に教え込んだものの、五瀬はそれ以上の親密さを極力避けた。雪麻呂だけは、子供と思えば邪険にもしづらく、またなついて来る様が可愛くもあって、ねだられるままに小屋に入れて話を聞かせてやったりしたが、その他の者とは、雑談に加わることもなければ、小屋を訪うこともなかった。酒の席に顔を出すこともなかった。皆の名は知っていたが、それは互いに呼び交わすのを耳にして覚えただけのことであって、こちらから尋ねたことは一度もなかった。
東人が秘密の漏洩を如何に恐れているか、五瀬はよく知っていた。事情を何も知らぬ村人を遠ざけ、職工に、村に来た防人と口をきくことを禁じる程、東人は神経質になっている。その東人の耳に、五瀬が職工たちと親密に接しているという話がもし入れば、それが東人の中でどのような猜疑を産み、どのような恐れに変容するかは、容易に想像がつく。五瀬はそれを危惧したのだった。