第五章 椎根にて(一)
下県西岸の椎根という地へ、五瀬は赴くことになった。椎根には国麻呂の従兄弟にあたる、対馬県広兄の屋敷があり、五瀬は鍍金の仕事のために招かれたのだった。
先だってのこと、五瀬は国麻呂に呼ばれ、鍍金をほどこすには手間がかかるものかと尋ねられた。
「いや、面倒なことは何もございませぬ」
五瀬は明快に返答した。必要なものは金と水銀だけである。それに幸い、五瀬は自分の道具はひとまとめにして対馬へたずさえて来ているため、道具の類も皆そろっている。
「実はお主に鍍金を頼みたいという者がおってな。わしの従兄弟なのだが」
その広兄の屋敷では今年の夏、亡父の法要が執り行われるのだという。広兄はかねてより、都から遣わされた金鍛冶が国麻呂のもとに逗留していることを耳にしており、供養のため家伝の金仏に金をほどこしてもらえまいかと、国麻呂に打診して来たのだった。
「手間がかからぬというのであれば、工房の方を少々休んで出かけてもらいたいのだが」
本来ならばその仏像を鶏知に運べばよいのであるが、台座にしっかりと据えつけてあるためにどうにも動かせない。そこで鍍金師の方でこちらに出向いて欲しいというのが、広兄の申し出であった。
「あの、その金仏というのは大きいものでございますか」
台座に固定してあるというところが少々気にかかり、五瀬は訊いてみた。見上げるような仏像を一人で鍍金するのはさすがに無理である。しかし
「いやいや、懸念には及ばぬ」
国麻呂は察して手を振った。費用との折り合いもあり、鍍金は頭部だけで良いと言った。その頭部はおおよそ大人の手のひら程とのことで、そうであれば行き帰りの行程を含めても半月程度で済むであろう。材料が届きしだい出向くことにして、五瀬は快諾した。
幾日も経たぬうちに、金と水銀が屋敷に届けられた。新羅の交易船から買うものとばかり思っていた五瀬は、あまりの速さに驚いたのであったが、
「大宰府から取り寄せたのだ」
国麻呂はさらりと言った。
「唐や新羅から来た品々は、まずこの対馬を経、次に筑紫の大宰府を経て都へ送られるが、品の皆が皆、都へ着くわけではないということだ。こちらも入り江をただで使わせるわけには行かぬゆえな」
と、国麻呂は意味ありげに忍び笑った。
以前鶏知の入り江に新羅船が入り、船長が郡衙を訪れたことがあったが、あれはそういうことであったかと五瀬は合点した。そして大宰府は、遠の朝廷と称される、朝廷の最も重要な出先機関である。その長官への貢物はかなりのものになるであろう。それこそ銭さえ出せば金銀玉の類はすぐに出せるくらいに、大宰府の倉は富んでいるのかもしれなかった。
ともかくも、仕度を整え五瀬は三船を伴って椎根へと出立した。椎根への経路は、新羅の山を見に出かけた時とほぼ同じである。船で浅茅浦を渡り外海へ出る。そこから海岸線に沿って三里(十km)も南下して行くと、佐須川という、下県の中央にそびえる矢立山を源流とする川の河口に出る。この河口付近にわずかに開けた平坦地に、広兄の村があるのだった。
ついでに言うとこの佐須川を中流まで上ると樫根という地があり、対馬銀山はここに営まれている。また金の採掘が進められているのも、この付近であった。
船が、船着き場を離れて潮を漕ぎ出した。船人は四人。五瀬と三船、加えて国麻呂の家人と兵士が一人ずつ同行した。家人は分かるとして問題は兵士の方である。万が一の護衛であろうが、しかし時折、油断ない視線が五瀬の背に鋭く刺さるのである。いぶかるうち、これは、自分や三船が逃亡した場合を考えての同行でもあるらしいと、五瀬は思い当たった。武器に身を固めた者に見張りを命じた国麻呂の心中に想像を向けることはあえてしなかったものの、当然のことながら愉快な心持ちではなかった。背に当たる視線は殊更に無視して、五瀬は首を伸ばして彼方を見やった。
「もう、見えぬな」
隣の三船に言った。任那のことである。
「うむ、海の水がぬるんでしまうとかすんで見えぬらしいからなあ」
二月も半ばにさしかかっていた。老漁夫の小舟で渡った時には石のように張りつめていた冷たい海も、一日ごとに暖かさを増してゆく陽光に温められ、水平線の上にはうっすらと陽炎の如き透明のもやが、ゆらゆらと遠景を遮っていた。
村に入り、五瀬は家人の男に案内されて広兄の屋敷を訪れた。
「こちらの勝手な申し出にもかかわらず、よう参ってくれた」
と出迎えた対馬県広兄は、国麻呂とはまるで正反対の人物だった。年は国麻呂より二才上ということで、年格好は似ている。そしてよく見れば声や話し方、顔立ちも似ているのだが、国麻呂の顔が肉づき豊かで全体に丸みが目につくのに比べ、広兄は鼻も顎も岩を割ったようで鋭さばかりが印象に残った。
「やはり、農夫と漁夫の違いではないか」
あとになって、三船は国麻呂と広兄の違いをそう分析した。広々と水田が開ける鶏知に対し、椎根では主に漁労で暮らしを立てている。もみを蒔き、土や稲を辛抱強くあやしながらその成長を待つのと、船で潮を分け波に挑んで獲物を得るのとでは、風貌にも差異が現れるだろうと三船は言った。
「ところで、後ろに這いつくばっておるつるばみは何だ」
その広兄は、五瀬の背後に平伏している三船の姿に目を止め、不快そうに眉を上げた。
「この者は、我の弟子の如きものでございます」
と、五瀬は説明した。
「弟子。奴婢がか」
「対馬に参ってからはずっとこの者を片腕として参りましたゆえ、我を除けば、島で金に最も通じておるのはこの者にございます。共に仕事することを許していただければ」
「ふん」
広兄は鼻筋にしわを浮かせた。しばらくそうしていたが、仏像に触れさせぬならばという条件で、ようやく許した。
金仏は、敷地の一隅に設けられた御堂に安置されていた。頭に宝冠をいただいた、釈迦如来の坐像である。像は大きな蓮華の上に座り、その蓮華が更に大きな台座に据えられている。台座には一面、繊細な唐草紋が彫り込まれ、細工の見事さに五瀬が思わず感嘆の息を洩らすと、
「高句麗の金銅仏(※)であるらしい」
広兄が言った。
「以前屋敷に逗留した旅僧が申しておった。古いものらしいが、しかし何故に海を渡って我が屋敷に伝えられることになったかは知らぬ」
広兄は手を伸べうやうやしく如来の頬に触れてみせた。顔は面長で、髪はいわゆる螺髪ではなく線彫りである。法衣をまとった体が痩せこけるばかりに細身であるのも、飛鳥で見て来た仏と確かに異なっていた。
夜、遠方からの客人を珍しがって、村の男たちが小さな酒宴を開いてくれた。鶏知の人々のおおらかさにも戸惑ったが、いきなり現れた異邦人とすぐに酒肴を囲む村人のあけっぴろげな人となりには、五瀬は内心驚くばかりだった。故郷忍海の村々は、よそ者に対してもっと閉鎖的であった。五瀬は柄にもなくあれこれと思考を巡らせ、国が置かれた条件の違いが、人となりに出るのかも知れぬと思ったりした。
対馬は周囲を外海に囲まれ、実際に大陸からの交易船の中継地にもなっている。以前船着き場で目にしたように、船でやって来た唐人と村人が交わり、物品を商う光景は、ここでは何の珍しさもないものであろう。ひるがえって、山々に囲まれた盆地に住まう大和の民は、近隣の二、三の村の者と接するのが関の山であった。本当は、大和は様々な国の品や人が最も集まっている土地なのだが、そうしたものに触れることが出来るのは一部の天上人だけであり、民のほとんどは、海の向こうどころか他国のことすら思い描いたことはないのではないか。
「時に鍛戸殿、お主は館様のところの仏様を直すために、わざわざ都から来たのかね」
村人の一人が訊いた。
「いや、この鍍金の仕事は別口だ。おれはもともと、この島で出た金を錬るよう命ぜられて、それで来たんだよ」
「ああ、左様か。そういえば都から人が来ておると聞いたな。――村を流れておる川を見たか。金はあの上流で掘っておるよ」
「聞いた。樫根という所に、銀山と金掘り場があるのだろう」
五瀬の発言がきっかけとなって、男たちの間にしばらく鉱山の話が続いた。主な労働力は防人たちだが、働き手は近くの村々からも徴集される。仕事は金銀の採掘で、金は川に入って底の砂をさらい、銀は岩板に走る鉱脈をのみで削って集める。また銀の場合は精錬作業も加わる。どの仕事も、一日やっていると自分の体なのか分からない程にくたくたに疲れきってしまう。あれはつらい作業であったと、樫根で働いたことのある者は皆口々にこぼした。
男たちの話に頷いていると、足音が近づいて酒宴の輪に新しい顔がまじった。五瀬より少し年かさに見えるその男は、船を直すのに少々手間を取ったと、周りに言い訳した。隣に座っていた男が目でそちらを指した。
「奴だよ。金を見つけた者だ」
「ではあれが、家部宮道か」
飛鳥を発つ直前、五瀬は典鋳司の役人からその名を聞いたことがあったのである。ほう、という感嘆の声が酒座に漂った。
「都の役人にまで名が聞こえておるぞ。大したものだな」
「そりゃ、聞こえるだろう。何と言うても金だ」
皆は口々に感心した。家部宮道はいちいち返事せずに皆が褒めそやすのを得意げな顔つきで聞き流していた。宮道、と一人が呼び、五瀬を指した。
「宮道。この方は、都から参った鍛戸殿じゃ。お主が見つけた金を錬りに参ったそうじゃから、お主、金を見つけた時のことを語って聞かせよ」
「ほう、わざわざ都から。いいとも、語ってやろう」
宮道は珍しげに五瀬を眺めたが、盃を取って唇を湿し、すぐに語り始めた。皆にせがまれてよほど語り慣れているのか、話によどみがない。
「金を見つけたのは、わしが樫根の銀山に行っておった時じゃ。あれは暑い日で、わしは冷たい水で汗を流したくなって、川へ下りたのだ。しかし、何か妙な勘が働いたとでも言おうか、それとも神仏が導いてくれたものか、ふうっと、いつもは全く行かぬ下手の方まで行ってみようという気になった――」
「ちょっと待て。わしが聞いた時は、仕事を抜けたのが役人に見つからぬよう、下の方へ足を伸ばしたとお主は言うたぞ」
「おいおい黙れ。邪魔せずに語らせよ」
神仏に導かれたのか、役人の目を盗んだのかはさておき、ともかくも家部宮道の話はこのようであった。
冷たい川流に身を浸して汗を洗い、水から上がった宮道は、ふと視線を落とした足の甲に、何か光る粒がへばりついていることに気がついた。つまみ上げてみたところ、今までに見たこともない、黄金色に輝く砂粒であった。宮道は肝がつぶれるばかりに驚き、しかし驚きながらも彼はもう一度川に入って底を探ってみた。
ただ彼はこの時、自分が金を見つけたとは思わなかった。銀山が開けて以来、椎根から樫根の一帯はしばしば、銀石を狙って盗賊が出没するようになっていた。そうした盗人連中が、財宝の類を川底に沈めて行ったものと思ったのである。
底の砂に両手を沈めてさらうと、黄金色の粒は幾つも上がって来た。砂をすくい上げては金粒を選り分け、四半刻も続けるうち、金粒は手のひらに三十ばかりも集まった。彼はそれをしっかりと握りしめ、無我夢中で役人のもとへ報告に走った。その後の騒ぎは、五瀬が飛鳥で見て来たとおりである。
「金を掘りあてたおかげで、わしは褒美に銀山の仕事を許された。だが、まことはもっと大きい褒美も貰えたはずであった。と言うのは、始めに川から掘り出した中に、これ程の、わしのこぶし程のものがあったのよ」
「おい宮道よ、かさ上げするのもいい加減にせい。指の先と言うとったはずだぞ」
さっきの男が横から口を出した。
「分かった、分かった。こぶしというのはさすがに嘘じゃ」
宮道は決まり悪そうに笑って言を撤回した。
「すまぬ。まことを言えば、わしの小指の爪くらいじゃ。しかし水から上がった時に足がもつれてな、倒れたはずみに石の下でばらばらにつぶれてしもうた。あのまま持って行っておればと、今でも悔しゅうてならぬ」
「小指の。いや、それとてたいしたものだ」
五瀬は驚き、感心した。しかしふと、心の隅に何かが引っかかった。何かは五瀬にも判然としない。それこそ砂粒のような、微小な違和感である。歯に挟まったものを舌先で触るようにして、心の中を密かに手さぐっていると
「何だ。わしには親指の先と言うたぞ。ずい分違うではないか」
誰かが笑いまじりに文句を言った。
「わしにもそう言うた」
「わしなど足の親指と聞いたぞ」
「宮道、お主の話は語るたびに大きゅうなるな」
皆が一斉に野次った。宮道は、やかましい、と、目をむいて怒鳴った。
「せっかくはるばる都から参った客人だぞ。そのまま語ったのではもてなしにならぬではないか」
乱暴な屁理屈に、座は笑いに包まれた。皆と一緒に笑ううち、五瀬の胸のつかえは夜の中に溶け、心から忘れ去られた。
※銅製鍍金の仏像