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第四章 持統の思い(二)

      * * * * *


 ――扉が開いて、持統の想念は唐突に断ち切られた。やがて女官に案内されて、大伴御行が部屋に姿を見せた。大伴氏の氏上であり、また言うまでもなく、対馬での金の採掘と精錬事業の責任者に任じられている重臣は、持統の前に歩を運び、深々と一礼した。


 大伴氏は二百年余もの昔、雄略帝の御世から朝廷の中枢に勢力を張って来た名家である。その長老にふさわしく、老いが目立って来たとはいえ、御行の背には、辺りを払うような威風が未だにみなぎっていた。


「対馬の件にて」


 かしらを上げて御行は言った。先日、宮では初春の拝賀の儀が行われたが、その際御行のもとへ対馬の嶋司より使者があったとの話を、持統は耳にしていた。今日御行を呼んだのは勿論、対馬からの報告を聞くためである。しかし持統の期待に反し、御行によれば使者の持って来たのは、金の精錬については鋭意進めているというだけで、要は単なる機嫌伺と言ってもいいような他愛のないものに過ぎなかった。


「それだけですか。もう少し具体的な話があるかと思うたが」


「残念ながら。しかし、飛鳥より遣わした鍛戸が向こうに到着したのが昨年の五月あたりと聞いておりまする。そうして今回の使者が島を発って来たのが十一月、つごう半年の報告となると、対馬守とてもまださほどには申すべきこともなかろうかと」


「確かにそうではあろうが」


 持統はため息まじりに首を振った。腰かけていた椅子の肘かけの上を、指先が気ぜわしく動いた。


「大納言、わたくしは」


 ややあって、持統は少し改まった声調で、再び口を開いた。


「現在進めさせている律令、この発布と、金献上の儀とを、共々に行いたいと考えている」


「律令発布の儀と献上の儀とを」


 御行は、さすがに少々驚いた。進めさせているといっても、編纂の作業はまだ編者の選定にかかったばかりである。金の方もまた、精錬がどの程度進んでおり今後どの位の日数がかかるものか、全く見当がついていない段階で、それはあまりに先走り過ぎた計画ではあるまいか。御行は諌めかけたが、持統の目は冷静で、そして真剣であった。


「律令と金とは一体のものである」


 御行の当惑は既に置き去りにして、持統は言葉を継いだ。


「大叔父、天万豊日尊あめよろずとよひのすめらみこと(孝徳帝のこと)から五十年に渡り、皇家はこの国を唐のような成熟した体制にすべく、心血を注いで参った。今回の律令作成は、その集大成と言っても良い。言わばこれをもって国造りの事業は完成を見るのです。これより以後は、富や武の力ではなく、理知と、真の律令が国の全てを動かして行くのです。

 ――けれどそのためには、今編纂する律令はただの紙の束であっては困る。国のあまねく民の心に律令の威が染み透り、民は帝にひれ伏すようにそれを重んじ、敬う、そのようでなければならぬ」


「そのために金が必要なのでございまするな」


 律令と金を共々に、という持統の思惑を御行はようやく把握した。


 割拠する有力豪族が相食む時代から、皇家の武力統治へ、そして律令による政へと、この国は苦闘しつつ長い道のりをたどって来た。その歩みを決して後戻りさせてはならない。そのためには、文武の下に発布されることになる新たな律令は、先の近江令や飛鳥浄御原令の、単なる改訂という位置づけであってはならなかった。律令国家の完成を象徴するにふさわしい、今までとは全く異なった特別な権威を伴って民の前に現れなければならなかった。


 銀が貢献された時のことを御行ははっきりと覚えていた。太上天皇も無論、覚えているはずである。壬申の乱の革命で先帝天智の残した近江朝廷を倒し、天武は王として飛鳥に凱旋した。しかし流血で権力を得た側の常として、天武朝の人々は、自らが葬り去った者の亡霊と、血が引き寄せる不吉の影とにおびえねばならなかった。そんな天武朝にとって、銀の発見という吉事は、まさに神の差し伸べた救いの御手であった。不吉の予兆は消え、いわば神仏の後ろ楯によって、天武は平穏の内に世を治めることが出来た。


 そうして今、対馬で金が発見されたとの噂は、大和のみならず、遠く東の国々をも駆け巡っていると聞く。それは飢きんや干ばつの災いが続く中にあって、人々が金の上に神の恩寵を見ているためであろう。金が都に運ばれ献上される。そしてそのまばゆい輝きの下に発布された律令は、帝でも朝廷でもなく、神のもたらしたものとして、人々の心身に染み透るのではあるまいか――。


 持統が律令編纂という大事業に乗り出したのは、文武政権下で政が軌道に乗ったのを見届けたためである。が、真に持統の背を押したのは、何よりも金の発見であったのかもしれない。その報を聞いた時、この老女帝の胸の内にはたちどころにして一つの青写真が出来上がっていたのかもしれなかった。


「律令は二年をかけず完成させるようにと、忍壁(おさかべ)不比等(ふひと)には申し渡してある。これは何としても間に合わせるつもりです。律令発布の儀は来年の夏か秋には執り行いたい。それに合わせ献上の儀も、来年の内には行いたいのです」


 眉を持ち上げ隆とした声でそう言うと、持統はふっと息をついた。椅子からゆったりと立ち上がり御行に背を向け、窓の方へと歩み寄った。未だ空に残る夕映えの色が、半分開いた窓から流れ込んでいた。残光の中に踏み込んだ持統の横顔が、血濡れのように赤々と照った。


「大納言、そなたが来る前、わたくしは大津のことを思い出していた」


 低く、持統は言った。あの時持統の片腕として自らも陰謀に手を染めた御行は、は、と、無機的な返答を返した。


「世を治めるためには、やむを得ぬことであった」


 有間皇子の助命を嘆願する持統をなだめて天武が言ったのと、全く同じ言葉を、彼女は口にした。


「あれがいては、朝廷の内に必ずや、乱を引き寄せたであろう。致し方なかったのだ」


「太上天皇、しかしその代わり、あの時をもって、この国は動乱の時代を乗り越えたものと、大納言は信じております」


 持統の口を遮るように、御行は力強く明言した。


 大津を手にかけた持統の心の内を、推しはかる術はない。しかし何といっても、大津は父母を同じくした姉が産んだ、天武の皇子なのである。血の結びつきを語るならば、現在彼女が溺愛している文武よりも、縁は濃いのだった。朝廷から禍根が除かれたとて、晴れやかな心持ちで今日まで過ごして来たはずはなかった。


 ただ持統は、大津の謀殺も、その後妃の山辺皇女が大津の後を追って自害して果てた痛ましい出来事も、全てはこの国を長きに渡る安寧に導くための、避けられぬ犠牲であったのだと、自身に言い聞かせて来た。その思いを、御行はあえて持統に代わり語った。


「もはや帝も、その御子らも、刃を手に争う必要はございますまい。かつてのように皇家が自ら血を流す時は過ぎました。皇子が流された血が、世を万世の平安に導くための最後の(にえ)でございます。律令完成の暁には必ずや、刃ではなく律をもって動く国となりまする。太上天皇のお望みどおりに」


「分かっている」


 持統は静かに頷いた。


「国が成熟するためには血の犠牲が要りようなのだ。それは古今の歴史が教えている。酒はこうじで熟し、国は刃と血とで熟する。致し方なかった。けれど、大津の血も、誰の血も、わたくしは無駄にはせぬ」


 窓の外に落陽を見送りながら、持統は言った。まなざしは、淡い夢に遊ぶような穏やかな光をたたえている。しかしそうした静やかさは、この女帝が弓づるを引き絞るような固い意志を抱いた時の横顔であることを、御行は知っていた。


「対馬のこと、承知致しました」


 そう言った御行の声には、深いいたわりがこもっていた。


「近々私自ら使者を遣わしまする。太上天皇が律令制定に如何に強い思いを傾けておられるか、大納言はよく存じておりまする。なにとぞ御案じ召さりまするな。金は、何事があろうとも来年の内に献上させましょう」


 御行は持統の賢明さを熟知していた。政治的判断の鋭さ、物事の洞察の深さには崇敬の念すら抱いていた。がしかし、彼女の聡明さ、そして意志の強さに触れる程、御行は何故かそこに、刃の前に裸身を晒そうとするような危うさを、感じずにはいられなかった。実際には持統の方がわずかに年上であるにも拘らず、御行が持統を見る目には、兄が妹に向けるような、父親が娘に向けるような、そんな慰撫の情がいつも交じっている。男の(さが)であるかもしれなかった。


      * * * * *


 足元の石だたみから立ち昇る温みが、冬の終わりを伝えて来る。


 忍壁(おさかべ)皇子は宮の廊下を、撰令所へと足早に向かっていた。頬と精悍な顎を黒々と覆う美髯が目を引く人である。目元はのみを打ったように彫りが深く、黒い目を実際以上にまなざし鋭く見せていた。体つきは、丈こそないもののがっしりと引き締まり、歩むに合わせ、朽葉色の袍が、たくましい肩に柔らかくまといつく様に、粗野ではない男臭さが漂った。


 廊下を渡りきり、彼は「撰令所」と大きく墨書きされた板のかかる部屋の前へ出た。と、手をかけると同時に扉が内側から勢い良く引かれ、若い官人が急ぎ足で出て来た。書類の束や書物を両手一杯に抱え、急ぎ足であるのはそれらを落とさぬようにするためでもあるらしい。扉を閉めようとして初めて、彼は入り口の脇に立っている人に気がついた。


「あ、こ、これは御無礼仕りました」


 穏やかとは言い難い忍壁の気性を知っている彼は、青くなって身をかがめた。忍壁はうるさそうに手を振ってとどめ、構わぬから行くようにと目で示した。官人が行き過ぎるのと入れ替わりに、忍壁は部屋に入った。


 広い部屋の中には今しがたすれ違ったような下級官人が幾人も、忙しげに動き回っていた。運んで来た書物を整理している者がある。内容を確認しているのか顔を寄せ合って話し込んでいる者がある。かと思えば不要になったものをひとまとめにして運び出そうとしている者がある。


 この撰令所は、律令の条文作成や編纂といった一連の作業を行う役所である。現在は編纂者の人選が行われている最中であった。


 忍壁は持統より、この律令事業の総裁に任じられていた。彼は天武帝の第四皇子である。四年前、第一皇子であった高市皇子が没し、そのためまだ壮年にさしかかったばかりの年令にもかかわらず、天武の皇子たちの中では現在彼は最も年長である。自然と、皇家を代表し、また中心となって家を取りまとめる立場を担わされていた。皇家におけるこうした立ち位置に加え、かつて天武の命で諸古事の編纂にたずさわったという経歴も彼にはある。これらを鑑みての任命であった。

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