夜会の十二時
「姫君、キャスリーン。お待ちください」
王子の声が背後から聞こえる。
でも十二時を告げる鐘は鳴り始めてしまった。
一刻も早く、この場を立ち去らなくては。
キャスは後ろを振り返った。
金髪の美しい王子が、キャスを追ってきている。
お願い、追わないで!
キャスは前を向いて、少し本気で走り始めた。
さっき、お別れのご挨拶したじゃない。
そこで綺麗に終わりなさいよ。
しつっこいわね。
キャスはスカートの上の方を少し持ち上げた。
ガラスの靴はヒールが高くて走りにくい。それでもキャスは足が速いので、次第に王子を引き離していった。
庭園のコニファーやアーチの間をもう少し曲がり込めば、完全に振り切れそう。
そう思ったとき、王子が叫んだ。
「あの姫君を捕まえてくれ」
えっ、それあり?
普通愛しい人との追いかけっこに衛兵呼ぶ?
この王子、気が合わないわ。
キャスはスカートをもう少し持ち上げ、一層速度を上げた。
衛兵が次第に集まってくる。前方から六名が迫ってくる。
こっちは駄目ね。
キャスはとっさに右に進路を変えた。庭園のこのあたりは、刈り込まれたコニファーが幾何学模様に並べられ、迷路のようになっている。
コニファーの通路を抜けると、開けた場所に出た。中央に噴水があり、水がふんだんに流れている。
噴水の中央に立つ女神が掲げる銀盤から、水が噴き上がっている。
月の光が水に反射し、キラキラと光る。
一瞬目を奪われた。
その時噴水の反対側から声がした。
「こちらにいらっしゃいましたか。よかった」
王子が噴水の広場に飛び出してきた。膝に手をついて一息ついている。
しまった。迷路のような道を進むうちに、少し戻ってしまっていたらしい。
嬉しそうにキャスの方に向かってくる王子を置き去りに、キャスは門の方向へ続く通路に駆け込んだ。
まずいわ。
鐘は何回鳴ったの?
早くここを出るか、隠れるかしなければ。
前方に人影が現れた。通路を出た先に、衛兵が三名いる。
こっちもなの!
「失礼します、姫君。王子がお呼びになっております。しばらくお待ちいただけないでしょうか」
隊長らしき人物が近付いてきて、丁寧に腰を折って告げる。
「申し訳ありませんが、急いでおります。王子にも、そうお伝えしました」
キャスは息を整えてからそう答え、そのまま走り出した。鐘はもう六回以上鳴っていたはず。
「あっ、お待ちください、姫君。王子のご命令です。このままお通しするわけにはいかないのです」
衛兵たちはバラバラと後を追って来る。
その後ろに王子が追いついてきたようだ。
「姫、待ってください。おい、絶対に行かせるな」
その王子の言葉で、衛兵たちの本気度が変わった。
「姫君、止まってください」
声の調子も少し硬い。
なんだか、不穏だ。
キャスは本気の全速で走り始めた。
スカートは邪魔にならないところまで持ち上げている。
隊長が「お前はあっちに周り込め」と指示しているのが聞こえて来る。
本気で止める気のようだ。
大階段にたどり着き、そこを一気に駆け下りる。
後ろから追ってくる衛兵たちは、どうやら人数が増えたようだ。掛け合う声が数人レベルではなくなっている。
ここで捕まったら本気でまずい。そう思ったら、つまずいて片方の靴が脱げてしまった。
靴はだいぶ後方に転がっている。
もう靴を取りに戻る暇はない。
キャスはもう片方のガラスの靴を脱いで手に持ち、スカートを思いっきり持ち上げて走った。
やはり裸足の方がずっと速く走れる。
キャスは足の速さには自信があった。
「速い! まずいぞ」
隊長の声が聞こえる。
追いつけるもんかい、と心の中で舌を出した。前方に乗って来た馬車が見える。
キャスを見て、御者が馬を動かし始めた。
その瞬間、ピーッと鋭く笛が鳴った。
前方の門の方から、数人の兵がこちらに向かってくる。
キャスは咄嗟にアーチの柱に飛びつき、大きく脚を振って、植え込みの向こう側へ飛び込んだ。
「あっちの通路に移ったぞ。追え、逃がすな」
「さっきまで、『姫様、お待ちを』とか言っていたくせに、何だよ」
毒づきながら、体を低くして塀に近づいていく。
しばらく進むと、塀によじ登れそうな木を見つけ、キャスはそこに向かって走り始めた。
ガサッと音がして、衛兵が二名、こっちに来るのが見えた。
全速力で木に向かい、幹に飛びつく。
必死でよじ登っていたら、ドレスのスカートを引っ張られた。
木から引きずり下ろされそうになり、キャスはガラスの靴のヒールで、衛兵を殴った。
そして頭を庇った相手を、思いっきり蹴落した。
木から落ちた兵は下にいたもう一人を巻き込み、二人とも地面に転がっている。
キャスはガラスの靴を胸元に突っ込み、木の枝から塀に飛び移って城の外に飛び降りた。
慌てて立ち上がると、馬車が王宮の門を抜けて、キャスの方に走ってきているのが見えた。
その扉を開け、中に飛び込む。
「急いで!」と声を掛けると、速度を上げて馬車は走り出した。
王宮の鐘の音が、次第に遠のいていく。
そして、何回目かの鐘が鳴り終わった時、馬車の内装の輪郭がぼやけ始めた。
慌てて何かに掴まろうとしたけれど、手ごたえがどんどん薄くなり、少しずつ体が沈んでいった。
そして、全てが消えた時、キャスは地面に座り込んでいた。
ドレスはいつもの洗いざらしたシャツとズボンとエプロンに戻っている。
十二時になって、魔法が解けたらしい。
キャスは頭を振ってため息を吐いた。それから立ち上がり、金色の髪を帽子のなかにしまう。
歩き出そうとして何かが足に当たった。
足元を見るとガラスの靴が転がっている。それと一緒に、胸を膨らませるために詰め込んだぼろ布も落ちていた。
ぼろ布を草むらに蹴り込み、ガラスの靴を拾ってエプロンのポケットに突っ込んだ。
まだ武器は手放せない。
早くこの場を離れようと、キャスは走り初めた。
しばらく行くと、馬の蹄の音が響いてきた。キャスはすぐにくるっと振り向き、城の方へ向かって普通に歩き始めた。
ドドドッという音が少し緩み、一騎がこっちに寄ってくる。
「おい、そこのぼうず。ドレス姿の姫君を見かけなかったか?」
さっきの隊長だ。
キャスは帽子を目深に被り、低めの声を出してぶっきらぼうに答えた。
「いいえ、見かけていません」
「お前はどっちから来た?」
キャスは城と反対側を指さした。
「じゃあ反対方向だったか? まずいな」
そう言うと、隊長は兵たちを反転させ、走り去っていった。
それをしばらく見送り、戻って来ないのを確認してから、キャスは反対方向に歩き始めた。
分かれ道の前で一度立ち止まると、街に続く右の道と、家に向かう左の道を交互に見て首筋を掻いた。
「飲みに行きたいけど、さすがに疲れたな」
そう呟くと、左の道を歩き始めた。




