Flat_Last Night.
「神経、接続完了。神経伝達、異常無し」
チェッカーは、オールクリアを示していた。有機電脳は正常に稼働しており、あらゆる生体反応も特に問題は起きなかった────光輪は、ほっと胸を撫で下ろす。暗い室内、モニターの灯りで映し出された顔には、随分と濃い疲労の色が滲んでいた。
ここは“Mechanical Innovation Society 『Advance』”、通称“MISA”。光輪の勤め先である『ドール』研究所だった。
『ドール』とは、全体の約八割が植物性有機素材で構成された生体機械のことを指す。骨組みも特殊加工された土に還り易い形状記憶合金で、電脳から神経、皮膚や筋肉、果ては内臓まで再生利用可能な機械生命体、それが『ドール』だ。
“Advance”が『ドール』開発を先陣切って仕切っている場所の団体名だが、登録正式名称は“Mechanical”で始まる英文すべて。こうして長いのと“Advance”だけでは『ドール』研究所の『Advance』かわかりにくいため、頭文字を捩って『MISA』と略称で呼ばれることが通常となっている。
研究所は七つ在り、全部が略称に因んでミサ曲の構成から名前を拝借している。
実は本来“ミサ”のスペルは英語で『MASS』、ラテン語でも『MISSA』であるため、『S』が一つ足らないことになる。当初略称はともかく、これはどうだろうと軽く議論になったそうだ。だがスペイン語では『MISA』となり、じゃあそれならと、そのまま起用された。
「英語名の略称で、スペイン語にこじ付けとはこれ如何に」
と、言ったのは誰だっただろうか。もっとも、今や国境や国籍を越えて様々な人種の入り交じる世界で、言語が入り乱れても関係無いかもしれない。
あるいは、二十世紀の半ば、ミサをラテン語以外の言語に訳して執り行うことをバチカンが解禁したとき、南米大陸で生まれたミサ、『ミサ・クリオージャ』に由来を求めたのか。時代に新たな一石を投じるつもりで?
光輪がいるのはその『MISA』の第二研究所『栄光頌』であった。
研究所は各々七通り役割と研究内容が異なるらしく、第一研究所の『求憐誦』は非常勤職員の有識者、または補助職員が『ドール』に関する大衆の認識、世論の情報解析を行い、第三研究所『信経』は『ドール』に対人間社会の注ぎ込むべき知識や道徳観念を、第四研究所『三聖頌』は『ドール』の人格構成を研究している。
第二研究所は主力研究職員が配属された『ドール』開発の要、[器]を設計研究する場所……言わば『ドール』の誕生の場であった。
光輪───翅白光輪は『ドール』研究所全体でも群を抜いて優秀な、『マインドプログラマー』である。
『マインドプログラマー』は、主に生体と繋いだ義肢や養肢のトラブルが無いようにプログラミングを行う者のことだ。似たような職業に『プログラムコンディショナー』が存在するけれど、ただエラーを起こさぬようバグを取り除き調整する『プログラムコンディショナー』とは違い、何も無いゼロからレシピエントに合わせプログラムを編むのが『マインドプログラマー』だった。
「終わったかー?」
光輪がシートに沈むのと同時に出入り口の扉が開いた。現れたのは、光輪と同じく白衣を纏った長身痩躯の男だった。
「支倉か」
名札には『支倉』と言う文字の上に平仮名で、挟むみたいに下に英字でルビが振られている。意地でも“はせくら”と読ませまいとしているようだ。呼ばれた男、支倉は一度手を上げ応じると、一つに束ねた長い髪を揺らし備え付けの珈琲マシンへ向かった。戻って来た支倉の手にはカップが二つ。
「お疲れ、光輪」
片方のカップを、シートに腰掛ける光輪へ渡す。無駄に見目の良い支倉は、女なら即座に落とされそうな甘い笑みを浮かべている。光輪に同性を相手にする嗜好が無いので何ら感慨は浮かばなかった。ただ、珈琲を注いでくれたことだけは感謝した。
「……で?」
「ん?」
「問題は起きなかったか」
モニターを覗き込み、支倉が尋ねる。疑問符が無いところから、すでに支倉の中でも答えは得ているのだろう。光輪も「見ての通り」と短く返した。
「プロトタイプAの神経回路に、操作上はコンマ以下も遅れは無かった」
「が、ここ数日なぜか外部刺激だけに対して、急に反応が薄くなった、と……何だろうねぇ。数年単位ならわかるんだけど」
ぴっぴっぴ、と支倉が片手でパネルを操作した。操作するたびに、モニターの項目や数値、グラフが変わる。最終的に、観察映像に切り替わった。
モニターには、ひとりの少女が映し出された。
一瞬、光輪の眉間が寄った。
“プロトタイプA”────『緋衝』。
彼女は『ドール』研究所発足最初の個体であり、最初の完全組み立て体だった。
「まぁ、組み立てられてからそれなりに時間経ったしな。単なる経年劣化に拍車が、とかじゃないのー?」
緋衝は現今、特殊な液体培地の満たされた水槽の中にいた。水槽には縦横無尽に管が走り、緋衝へと繋がっている。集音マイクも正常に稼働していたのだけど、緋衝が微動だにしないため拾われるのはたまに機械が出すものだけだ。
「『ドール』に使われる有機素材は皮膚を含めて、すべて自己修復機能の付いた合成素材だよ? 耐久力テストでも何ら欠陥は見られなかった」
「細胞や部分だけのテストと神経繋いだあとの総合テスト、組み立て後、起動後の状態じゃ状況が違い過ぎてあんまり参考にならんだろー。ましてや『ドール』は自然と環境に対応して行くからな」
支倉の科白に光輪は「うーん……」と唸り頬杖を突いてモニターを睨んでいた。
「……。お前あれから何日帰ってないの?」
不意に支倉が問う。無意識に目の下の隈を撫でていた光輪は、肩を竦め笑う。笑みには諦念が滲んでいた。支倉は眉を寄せる。
「帰ってやれよ。今の内だぞ? 上が量産型生産計画に踏み切ったら、またしばらく帰れなくなるんだから。一息入れて来いって」
支倉の提言に光輪は先程と同じように、しかし先程とは異なる感じに「何て言うかさ、」苦笑を浮かべていた。
「何よ」
「ちょーっと……帰りづらいって言うかさ」
くるりと座るシートを回転させモニターに背を向けると、光輪は深く座り直し背凭れに身を沈め足を組んだ。
「何で? 圭ちゃんと喧嘩でもしたんか?」
支倉も光輪に倣いモニターへ背を向け、コンソールに軽く寄り掛かった。
圭、とは光輪の娘の名だ。度の過ぎた親莫迦の光輪は、その実結構厳しい面も持っていた。他人にも自身にさえ戒めを忘れない光輪は、娘のことを尊重することはしても、過ちまで看過する程甘くは無い。妻で母親の奏己が教育に向かないせいも在り、地頭の良く繊細で過敏過ぎる娘は周りから学んでいるけれど、充分ではないと多忙な合間を縫って光輪が娘の教育を行っていた。ぶつかることも、圭の成長に比例してしばしば在った。
そんなときの避難先が支倉だったりするのだけど、現在とある事情から圭とは距離を置いている。
光輪は忙しなく視線を漂わせ、首を左右交互に倒し、口をもごもごさせている。どうやら、単に仲違いをしたのでは無いらしい。支倉が訝しげに見ていると、やがて光輪は溜め息を吐いた。
「雅彦くんがさー、最近ウチに頻繁に来るんだよね」
雅彦は、以前『MISA』に在籍していた『ドール』開発責任者、『崎河仁』の息子だった。崎河はロシアミックスのフランス出身者で、帰化前の名前はジャン・リヴィエール。確か離婚した妻はドイツの血が入ったダブルで、政治家も輩出している音楽一族の出だった。雅彦は四分の一だけ、日本の血を引いていることになる。支倉も崎河のことはよく知っている。関わる時間だけで言えば『マインドプログラマー』の光輪より[器]製作専門の支倉のほうが多い。
けれども支倉は光輪に比べ息子の雅彦とは面識が余り無く、崎河は少し前病に臥せ退職していた。しばし療養していたが、ほんの数箇月前、帰らぬ人となった。
「ほーん? 何だかんだあの冷めたガキんちょも、親を亡くしてさみしいんじゃないのー?」
数度顔を会わせたくらいしか印象が無い支倉は、都度、雅彦に抱いたイメージを思い浮かべた。見事な上っ面で受け流している雅彦は、そう言うタマには到底見えない。けども人は見掛けに拠らないとも言う。こう言う中で気に懸ける光輪を頼るのは、至極普通ではないだろうか。支倉の発言に光輪は「そうなんだよね、そうなんだけど」、と何やら茶を濁す。光輪にしては随分曖昧な態度をするもので、支倉はとうとう業を煮やし突っ込んだ。
「何なんだよ! 普段はこっちが嫌んなるくらい小気味良く喋るくせに、何をぐだぐだしてんだよ! はっきり言え!」
「……そー言うとこは本当、奏己さんそっくりだよねー、柳は」
平時支倉を名字呼びの光輪は、たまに思い出したみたいに支倉を下の名前で呼んだ。支倉は光輪の言葉に、はっ、と笑いを洩らし「血は繋がってませんが、遠縁なものでー」カップに口を付けた。
「二人を見てるとつくづく、人は環境が作るなって思うよ」
光輪も感心したように零し、珈琲を飲む。
「……で?」
「うん?」
「何がお前を煮え切らない有り様にしてるの」
改めて淡々と訊けば、今度こそ観念した風に光輪は話し出した。
「雅彦くんが来るの。これは良いんだよ。僕が誘ったんだから」
「昔のお前だったら絶対しないけど、結婚てマジで人を変えるのなー」
愛は偉大ね。茶々を入れる支倉に多少むっとするも、腰を折らず光輪は続ける。
「昔の僕はともかく。まぁ、来るのは良いんだよ。“おいで”って言ったのは僕なんだから」
「そーねー。奏己ちゃんも突然の来訪を気にするよーな人間じゃないしね」
本人が唐突に突撃噛ますもんね、と支倉がふっ、と遠い目をすると、光輪も頷いた。異論は無かった。
「そうなんだよ……そうなんだよねー」
「じゃあ、どうしてこんな濁してんの」
光輪へ目線を注ぎ、核心に迫る支倉に光輪は一旦黙り込み空を見据え、たっぷりどっぷり間を空けたあと、白状した。
「どうもね……雅彦くん、圭に気が在るっぽいんだよねぇ……」
「ぇ、」
光輪の科白に、支倉が半音上がった、鼻濁音に近い声を出した。言ってから支倉へ固定された光輪の目には、双眸を引ん剥いた支倉の間抜け面がしっかり映った。
次にたっぷりどっぷり沈黙したのは支倉だった。
「……マジ?」
支倉の疑問符へ光輪は一つ首肯すると。
「マジ」
「勘違いでは無く?」
「うん」
「……。へぇー……」
支倉は口を二回程度開け閉めして、結局何も言わずちょっとだけ唇を尖らせた。
「まぁさぁ? 変な男に引っ掛かるよりは、幼少期から知ってる雅彦くんのほうが、断然マシなんだけどね」
「それでも“マシ”なんかい」
呆れたように一言を挟んだ支倉へ光輪は即行「当ったり前でしょっ?」と勢い良く反論した。親莫迦が発症したらしい。うわ、面倒臭、と心中呟くも時すでに遅し。
「どんな親だって、娘を取られたくは無いはずだよ? でもいつかは恋人が出来る訳で。……どこの何とも知れない害虫は嫌じゃないか」
「娘の恋人を害虫呼ばわり……」
「全員をそう呼ぶ気は無いけど。変なヤツはこの時代にだっているじゃない。そんなヤツは御免だし」
「じゃあ雅彦で良いんじゃないの? 何が駄目なの? 女癖?」
生前、茶化して「ウチの雅彦は恋多き愛の探求者なんだ」と崎河が笑っていたのが脳裏を過った。成程。息子の所業をあっけらかんと笑い飛ばす辺り、さすが出身のお国柄、奔放なだけは在る。とは言え、崎河自身は離婚した妻をずっと一途に想い続けていたが。
「いや……このご時世、いろんな人と付き合うこと自体はそこまで言う気も無いんだけど」
「あら、寛容なことでー? お前だったら雅彦相手にも“圭と付き合うなら小指一本詰めてみろ”ぐらいは言うかと思ったわぁ」
「圭と付き合うとき、圭だけに絞ってくれるなら良いよ。圭だけ大事にしてくれるならね」
「……そう言うのが心配だから、付き合わせないモンなんじゃないの」
支倉が怪訝そうに眉を寄せているけれど、光輪は飄々と「やー、それで言ったら支倉なんかNGじゃ済まないじゃない?」と言い放った。ぐっ、と喉を詰まらせ支倉は抗弁する。
「おま、お前には言われたくないんですけどっ? 奏己ちゃんと出会うまで、お前、プライベートも家に帰ったこと在るのかよ!」
びしぃっと人差し指を突き付ける支倉を横目で眺めつつ、光輪は突き付けられた指を握ると、反対方向へ曲げようとした。
「痛い痛い痛い痛い痛いあーっ! おやめください! お客様! あーっ! お客様!」
「誰、お客様って……。痛いの? 良かったねー。ちゃんと間違い無く神経が繋がってる証拠だよー」
光輪はにこやかに、いっそ爽やかに言ってのけると、支倉の指を放した。光輪の笑顔に若干涙目で引きながら、支倉は抗議した。
「お前ね……幾らコレが義手だからって、神経接続してたらショック死くらい在るんだぞ!」
まじまじと己の指を診る支倉。滑らかな動作で違和感の欠けらも無い指、手、そして腕は、精巧に出来た義手だった。
支倉は遺伝性ではない先天性の欠損症により、両腕は二の腕の真ん中ら辺から、両足は膝より少し上から、それぞれ無かった。
孤児でもあった支倉へ無償で義肢を与えてくれたのは、後に義父となる義肢装具士だ。
この父の存在が支倉の道を決め、学ぶ期間に光輪と知り合い、その知識と技術が『ドール』開発に携わる切っ掛けになった、訳だけど。
この義肢が、たいせつなものを遠ざける要因になるなんて支倉は考えもしなかった。
「義手にロケットパンチ付けようとしたヤツが、言う科白にじゃないよね」
「……男の子の夢じゃん、それは」
「莫迦なんじゃないの? プログラム組むほうの身にもなってよ。だいたい何の役に立つの、ロケットパンチ」
学生までは義父が造ってくれた義肢も今では自分で造っており、外注だったプログラムの組み立てはマインドプログラマーたる光輪が行っていた。
光輪の暴言に支倉がしゅんとし項垂れていると、光輪が「……で、話戻すけど」支倉を見上げた。少々口を窄め不機嫌を露わにしつつ「戻すんだ」突っ込むことは忘れない。
「そ、戻すんだけどね。……圭がね、どうかなって思うんだ」
「あー。まぁ、圭ちゃん、苦手そうだもんな、あの手のは」
じりじり後退する圭と躙り寄る雅彦を想像して、支倉は珈琲を飲む。
「や、じゃなくてさぁ。
圭、付き合ってる人、いるだろうからさ。年上の」
支倉は含んだ珈琲を、思い切り噴きそうになった。寸でで飲み込んだはものの、喉に閊え咳き込む。
「あーあー。ちょっと大丈夫? 機械に掛けないでよ」
光輪が差し出すハンカチを受け取って口を押さえる支倉だが、覆った口元はヒク付いた。まさか、いや、そんな、と脳内をぐるぐる回るけれど、唇を通して外に出ることは無かった。
「ここまで驚くこと? 圭は未成年だけど、僕らが承認したら結婚だって出来るんだよー?」
少子化対策の一環も含めて、十六歳から婚姻が認められていた。合意のもと、結婚を前提であれば婚前交渉も、この強姦が死罪で堕胎罪が復活した世の中でも法律に引っ掛かることは無かった。“合意のもと”ならば。
「……害虫は嫌なんじゃなかったか」
ハンカチの下、搾り出すように支倉が問うと、光輪は空へ焦点を固定したまま返した。
「圭が良いなら良いんだよ。しあわせならそれで良いの。可愛いからって無菌室にいつまで入れとくの。僕も奏己さんも、何れいなくなるのに」
多少転ばなきゃ起き上がれないよ、人間はそうでしょ? 言い終えた光輪は珈琲を飲み干しカップを近くのローテーブルへ置くと、再びくるっとシートを回してモニターに向かった。
「まー、近ごろの様子からして別れたみたいだけどね」
「……」
ハンカチを外し、とっくに珈琲の無くなったカップの底を支倉は見詰めていた。光輪がパネルをタッチしたりコンソールを叩いたりしながら「やっぱりおかしいなー」とぼやく中、じっと物思いに耽っていた。
「なぁ、「────あのさ、」
重たい唇を開いた支倉を光輪が遮った。支倉が光輪を見ても、光輪は支倉を見なかった。
「お前は良いの?」
何が、と支倉が尋ねるより先に光輪が重ねて訊いた。
「お前は良いの? 小さいとき、圭は“支倉さんと結婚して家族になる”って言ってたよ?」
「────」
「親の僕が言うのも何だけど、あの子はそうそう簡単に初心を忘れたりしないと思うんだよねぇ。……で、
お前は良いの?」
光輪は、一向に支倉を見なかった。手と目は迷い無くモニターとパネル、コンソール上を動いていた。
「……何で、」
「圭もだけど。お前もバレてないと考えてるところが凄いよ」
やっぱり反応伝達は正常値だなー、などと仕事をする傍らで、会話を進めている。支倉が完全に口を閉ざした辺りで「ねぇ、支倉」光輪が声を掛ける。
「『ドール』ってさ、ウイルスに罹患すること在る?」
ごく自然に仕事の話へシフトした。光輪の中で、優先順位が変わったのだろう。
光輪にしても、職場で気懸かりが在るのにいつまでもプライベートのことに懸かり切りになっている訳には行かなかった。
そもそも圭が誰を選ぼうと、圭の問題だった。余程、コレは危険だと感じた相手でない限り、あれこれ、うるさくすべきではない。
家族大好き、親莫迦の自覚は自他共に在るけども、子供はひとりの人間で、所有物では無いのだと言うのが、光輪の考えだ。
だので、『ドール』に原因不明の不調が在り、専門家二人が顔を付き合わせている現状、目下優先すべきはこちらであった。光輪の切り替えに戸惑いつつ、支倉もモニターへ向き直りあらゆるデータに目を通す。先程はさらりとだったけれども、今回はじっくり。
「ウイルスねぇ。有り得ない、と言うのが見解かな。『ドール』は電脳から神経、構成している細胞に至るまで特別で、特殊仕様なんだ。普通の電子ウイルスじゃあ罹ることはまず、無い」
生体機械とされる『ドール』は、機械と冠してその実、機械とは規格が異なる。
いわゆる、再生医療の粋を集めたのが『ドール』だった。電脳のネットワークは人間の脳波に近く、インターネットなど通信規格に直接繋ぐことは叶わない。
「マザーコンピュータの電脳と仕様はいっしょだからね。ハッキングは出来ない」
『マインドプログラマー』の光輪には、釈迦に説法で今更声に出すことでも無く、こんなことは百も承知だった。
「そ。新規格、人間の擬似脳波を搭載した電脳。ライフラインなんかはみーんなこの規格で整備された」
支倉が説いて電脳図を出す。緋衝の脳波は至って正常だった。
「記憶をデータ化し、外部抽出して記録出来るようになった現代の恩恵……な訳なんだけど」
本当に、穴が無いと言えるだろうか、と光輪は提言する。
「こうやって繋がれた機械自体がウイルスに羅る可能性」
「セキュリティが騒ぐし、ここを突破出来るヤツはぶっちゃけ国防級の腕前ってことになるぞ」
お前が一番わかってんだろ、と支倉は光輪に投げ掛ける。光輪は『マインドプログラマー』だが、普通のプログラマーでも在った。確かに、施設の機器は最高難度の防壁を幾つも実装し、セキュリティレベルは高い。
「だいたい、機械に不具合が起きたってさ。生命維持装置や記憶記録媒体ならまだしも、俺たちだって直に生身へ影響が出たりしないだろ?」
「……だよね。じゃあ、原始的な問題は?」
「原始的って何よ」
「……」
「光輪?」
「……。植物に感染するウイルスや動物、ヒトが感染するウイルス、あるいは細菌の、突然変異の可能性は?」
光輪が真剣な眼差しで支倉へ質す。支倉は数瞬黙したが、すぐに否定した。
「いやいやいや。ここの防疫システムはセキュリティ並に高いのよ? 必ず滅菌される俺らは外のものを持ち込みなんか出来ないし、無い無い無い」
「そうかな……」
「そうでしょー! 第一、そう言ったことが有り得た場合、検疫を摺り抜けたってことになるから、人為的、故意ってことになるんだよ?」
慌てる支倉に、光輪が無感動な目を向ける。程無くして「そっか」と頷いた。
「そうだよ……未知のウイルスが出たにしたって、見逃すなんて無いよ。これでも一応、ここに集められた人間は最高レベルの医療関係者なんだぞ」
「そーだねー……けど、だとすると……」
支倉の意見に、再度「外部影響じゃないなら、内部なんだよなぁ……」上の空でうんうん首を縦に振る光輪。支倉ははーっと深い息を吐くと後ろ頭を掻いた。
「わかった。お前が一つ一つ手作業で神経細胞を調べ始める前に、環境中の微生物検査の申請しとく。培養液も含めて」
「……え、いや、いないんならやっても仕方ないじゃない?」
「万一ってことも在るし、検査結果出るまでなら、お前も掛かり切りにならないでしょ」
暗に、その隈が濃くなる前に休めと苦言を呈していた。
「え、や、細胞の変異も疑ってるから、休む気無いんだけど……」
「阿呆か! 何まで調べるんだよ、軸索やら樹状突起まで調べるとか、お前はやり兼ねないから言ってんの! 神経細胞を手作業で調べるとかただの莫迦だからなっ?」
初起動時、緋衝の挙動に遅延が在ったため、いろいろな検査が行われた。結果は単純な意識回路の伝達誤差で、人間で言う寝起きに近い状態だと判明したのだけれど、このときも光輪はソーマ、シナプスからニューロンの働きまで診ていたのだ。大部分を機械に処理させてはいたけれども。
と言った前科の在る光輪なので、支倉も強ち誤った予想だとは思えない。仕事となると、ワーカホリックなんて評価が可愛いくらいの光輪に、支倉は頭が痛かった。
「微生物検査申請しとくから、結果出るまでお前は仮眠しろ。明日、俺いないけど奏己ちゃん来るんだよな?」
明日、奇しくも支倉はシフトの関係で休みになっていた。緋衝の不具合は気になるところだが、量産型汎用機の生産が決まったら、今以上に多忙になるからだろう。元来医療機関は忙殺がデフォルトと言っても過言ではない。休みが取れるなど奇跡に近かった。
「うん。着替えとか持って来てくれるから。入場申請、やっと通ってね」
「そかそか。よし、ならきちんと仮眠しろよー。んな顔色見せたら、卒倒するか激怒するぞ」
「だよねー……わかった。アラート設定して仮眠する」
光輪も己の血色の悪さは把握しているらしく、さすがに最愛の妻に見せるのはマズいと判断したみたいだ。観念して、緋衝の異常を検知した際のアラート設定に入った。それを認めると、支倉もカップを片付け退出の準備に掛かる。珈琲マシンは備え付けなのだけど流しは各階の給湯室のみで、管理の問題上使用済み食器の回収は給湯室へ持って行かなければならなかった。
光輪から借りたハンカチは、洗って返そうとズボンのポケットに仕舞う。
「あ。そうだ、支倉」
「何よ」
「明日、圭は来ないんだけど。予定無かったらどっか連れて行ってあげてくれない? あの子、放って置くと籠もっちゃうからさ」
ギクリと固まり危うくカップを落とし掛ける支倉へ、光輪は朗らかな笑顔を向ける。平常時も色白な肌は忙しさに因る不摂生で紙のように白かったが、不安を誘う色合いに、負けない明るさを湛えた面差しだった。
「えー、あー、あー……予定が合えば?」
扉を開け、部屋を後にしようと出入り口を潜った吃る支倉の背に、光輪は手を振りながら。
「期待してるよ。雅彦くんよりは、ね」
「────」
支倉が振り返ったときには、自動ドアゆえ、扉は閉まっていた。
「……」
そのまま給湯室へ行き、カップを洗って滅菌ケースへ入れた。
「────……っ……ぁー……」
次の刹那、シンクの前に座り込んでいた。白衣の裾が床に着いてしまっていたけれど、どうせ退勤時、クリーニングボックスへ放るので問題無い。
「……。……どーしろってんだよー……」
顔を押さえ呻く。
コレは、自白するのも時間の問題かもしれない。
圭と交際したことを、別れたことを、────傷付けたことを。
「……。ま、いつかは懺悔しなきゃだし」
自ら遠ざけたくせに、求めている情動が在ることも。折り合いを付けねばならなかった。
幸い、明日は一日休みが在る。
整理するには丁度良い。支倉は立ち上がる。
明後日、光輪と話し合おう。ついでにハンカチを返して。支倉はそう結論を出した。
明後日が来ないことを、知らずに。
光輪のいなくなった室内で、モニターに映し出された緋衝が、目を覚ます。
緋衝は違和を感じていた。自身の体に。
どこがどうと言うことも無いのだが。
どこか、が、おかしかった。
そうして、ある数値が、変化を見せた。
だけれども、このアラートが鳴らないギリギリの異常事態に気付く者は、いなかった。
気が付いたのは、全部が終わった、あと。
【 了 】







