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箱庭の主 ~俺だけが異能に目覚めたので、小さな世界を育てていたら国家機密になりました~  作者: にゅん


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俺だけの小さな世界

 八樹伊織、二十二歳。大学を卒業して会社員になってから、まだ一年も経っていない。仕事にもようやく慣れてきたが、毎朝決まった時間に起きて会社へ向かい、夜になれば疲れて帰宅する生活を楽しいと思えるほど、社会人生活に馴染んでもいなかった。


 だからといって、特別な不満があるわけでもない。給料は高くないが一人暮らしなら困らず、職場の人間関係も悪くなかった。休日になれば昼近くまで眠り、適当に外食をして、ゲームをしたり動画を見たりしながら過ごす。


 そんな、どこにでもいる二十二歳だった。


 少なくとも、その日の夜までは。


 六月の終わり、仕事を終えた伊織は、駅前のコンビニで弁当と缶ビールを買ってから自宅のアパートへ戻った。梅雨らしい雨が朝から続いていたせいで、玄関へ入った時にはスーツの肩が少し濡れている。


「明日も雨かよ。洗濯物が溜まるんだけどな」


 誰に聞かせるわけでもなく呟きながら、伊織は濡れた靴を脱いだ。ワンルームの部屋へ入り、ネクタイを外して冷蔵庫へ弁当と缶ビールを放り込むと、そのまま浴室へ向かう。


 十分ほどシャワーを浴び、部屋着へ着替えて戻ってきたところで、ようやく人心地がついた。


 弁当を電子レンジへ入れ、温まるまでの間に缶ビールを開ける。仕事終わりに飲む最初の一口だけは、社会人になって良かったと思える瞬間だった。


「……うま」


 椅子へ座った伊織は、スマートフォンを眺めながら弁当を食べ始めた。特別な予定もない平日の夜であり、このまま適当な時間まで動画でも見て、明日に備えて眠るつもりだった。


 ところが弁当を半分ほど食べたところで、視界の中央に見慣れないものが現れた。


 最初はスマートフォンの画面に何か表示されたのだと思った。しかし顔を上げても、それは消えなかった。


「……は?」


 伊織の目の前に、半透明の板のようなものが浮かんでいた。淡い光を帯びた長方形の画面には、日本語で文章が表示されている。


 目を擦ってからもう一度確認したが、当然ながら消えてはいない。むしろ文字は先ほどよりはっきり見えるようになっていた。


 そこには、《異能の発現条件を満たしました。固有異能《箱庭》を構築します》と書かれていた。


「異能……?」


 聞き覚えのある言葉ではある。漫画や小説なら珍しくもないが、少なくとも現実世界で超能力者が発見されたなどという話を、伊織は一度も聞いたことがなかった。


 テレビのニュースでも、学校の授業でも、異能などというものが実在すると習った覚えはない。


 当然、自分にそんな力があると思ったこともなかった。


 しかし目の前に浮かんでいる画面は、目を閉じても消えなかった。試しに顔を横へ向けてみると、画面そのものが視界へ追従してくる。


「疲れてるのか……? いや、酒はまだ一本目だぞ」


 伊織は缶ビールを机へ置き、両手で頬を叩いた。それでも表示は残ったままで、数秒後には新しい文章へ切り替わった。


 今度は、《初期管理者を登録します。八樹伊織を《箱庭》の主として登録しますか?》という確認文が表示され、その下には《はい》と《いいえ》の二つの選択肢が並んでいた。


「俺の名前まで知ってるのかよ……」


 気味が悪い。しかし同時に、好奇心もあった。


 危険なものなら触らない方がいい。それくらいは伊織にも分かっているが、目の前に突然現れた超常現象を完全に無視して眠れるほど神経が太くもなかった。


 それに、《箱庭》という名前からは、それほど危険な印象を受けない。


「……押すだけなら、大丈夫だよな?」


 自分でも根拠のない判断だと思いながら、伊織は《はい》へ意識を向けた。指で触れたわけではなかったが、考えた瞬間に選択肢が淡く光る。


 直後、表示されていた文章が切り替わった。


 《管理者登録を完了しました。固有異能《箱庭》が使用可能になりました》という文章に続いて、《箱庭へ移動しますか?》という新しい確認画面が表示される。


「いやいや、待て待て」


 伊織はすぐには選ばなかった。


 登録するだけならともかく、《移動》となれば話が違う。どこへ移動するのかも分からない状態で飛び込むほど、伊織は冒険好きではなかった。


 そこで画面を閉じられないか考えてみる。


 すると驚くほど簡単に表示が消えた。


「……消せるんだ」


 もう一度《箱庭》と頭の中で念じると、今度はすぐに画面が現れた。どうやら自分の意思で表示と非表示を切り替えられるらしい。


 伊織は弁当を食べることも忘れ、何度か表示を出したり消したりしてみた。


 十回ほど試しても失敗しない。


 少なくとも幻覚にしては、妙に規則正しかった。


 再び表示を開くと、今度は先ほどまでなかった項目が増えていた。《箱庭》《管理》《購入》《収納》《領域情報》という五つの項目があり、伊織が最初に選んだのは《領域情報》だった。


 知らない場所へ移動する前に、せめて情報くらい確認しておきたい。


 表示された内容によれば、現在の箱庭は《初期領域》という状態らしい。面積はそれほど広くなく、環境として存在するのは草地と小さな水源だけだった。


 さらに管理者以外の人間は、現在の状態では箱庭へ侵入できないと書かれている。


「本当に箱庭なんだな」


 次に《管理》を開いてみると、そこには現在の状態が表示された。


 管理者は八樹伊織で、箱庭は正常に稼働しているらしい。そして管理に使用できるPtとして、最初から1,000 Ptが与えられていた。


「ポイントまであるのか」


 Ptの用途を確認すると、箱庭内部へ植物や生物を導入したり、管理設備を設置したりするために使用するらしい。


 さらに箱庭内部で生命を育て、生態系を成立させることで、新しいPtを獲得できると説明されていた。


 伊織は少しだけ興味を引かれ、《購入》を開いた。


 そこには現実世界でも見慣れた植物や動物が並んでいた。ただし何でも購入できるわけではなく、現在利用できるものは初期環境でも飼育や栽培が可能な種類へ限定されているようだった。


 植物なら野菜や穀物の種があり、動物なら鶏やウサギなど比較的小さな生き物が中心になっている。道具についても農作業用の簡単な物なら購入できるらしい。


「ゲームみたいだな……」


 そう思った瞬間、伊織の警戒心が少しだけ薄れた。


 もちろん、本当にゲームだと思ったわけではない。だが何をする場所なのか全く分からなかった数分前と違い、少なくとも箱庭を育てるための能力らしいことは理解できた。


 問題は、本当に中へ入れるのかということだった。


 伊織は時計を見る。


 午後九時を少し過ぎたところだった。


 明日も仕事がある。


「……十分だけ見て戻るか」


 自分でも好奇心に負けていることは分かっていた。


 念のためスマートフォンをポケットへ入れ、財布と部屋の鍵も持つ。靴を履くべきか迷ったが、《移動》がどのようなものか分からないため、結局スニーカーまで履いた。


 玄関前に立った状態で、もう一度《箱庭》を表示する。


 そこには《箱庭へ移動》という項目があった。


 伊織は数秒だけ迷った後、それを選択した。


 身体が引っ張られる感覚も、目が回るような感覚もなかった。ただ一瞬だけ視界が白く染まり、次に目を開いた時には、伊織はアパートの玄関ではない場所に立っていた。


「……マジか」


 目の前には草原が広がっていた。


 広大な草原というほどではない。少し先まで歩けば端へ到達できそうな、小さな土地だった。


 足元には柔らかな草が生えており、少し離れた場所からは水の流れる音が聞こえる。


 空を見上げると青空が広がっている。しかし不思議なことに太陽らしいものは見当たらず、それでも周囲は昼間のように明るかった。


 風もある。


 草の匂いもする。


 しゃがんで地面へ触れてみれば、土の感触まで本物だった。


「異空間……ってことか?」


 伊織はスマートフォンを取り出した。


 当然ながら電波は圏外だった。


 しかし時計やカメラは普通に動く。


 試しに目の前の草原を撮影すると、写真も問題なく保存された。


 伊織はそのまま水音のする方向へ歩いた。


 数十メートル進んだ場所には、小さな泉があった。透明度は高く、底まで見えるほど澄んでいる。


 画面から《領域情報》を確認すると、この水は箱庭内部で自然に供給されている淡水であり、現在の管理者に対して有害な成分は検出されていないらしい。


「飲めるってことか。でも今日はやめとこう」


 能力の説明を完全に信用するほど、伊織は素直ではなかった。


 今度は箱庭の端まで歩いてみる。


 そこには白い霧のようなものが広がっていた。手を伸ばすと柔らかな壁へ触れたような感覚があり、それ以上先へ進むことはできない。


 現在はここまでが自分の領域らしい。


 伊織は中央付近まで戻ると、改めて周囲を見渡した。


 草と泉しかない。


 家もない。


 畑もない。


 動物もいない。


 しかし、この場所が本当に自分だけの空間なのだとすれば、使い道はいくらでもありそうだった。


 畑を作ることもできる。


 動物を飼うこともできる。


 Ptを増やせば、今より広い場所へ育てられる可能性もある。


「秘密基地としては、最高じゃないか?」


 伊織は思わず笑った。


 世界を変えたいわけではない。


 金持ちになりたいという大それた夢も、今のところ持っていない。


 ただ、自分しか入れない場所を突然与えられた二十二歳の青年としては、少しくらい楽しんでも罰は当たらないと思った。


 今日は見るだけのつもりだったため、何も購入せずに帰ることにした。


 《帰還》を選ぶと、再び視界が一瞬だけ白く染まる。


 次の瞬間には、自宅の玄関へ戻っていた。


 時計を見る。


 箱庭へ入ってから、およそ二十分が経っている。


 現実世界でも、ほぼ同じだけ時間が進んでいた。


「夢じゃないよな……」


 スニーカーを脱いだ伊織は部屋へ戻り、すっかり冷めてしまった弁当を見た。


 その横には飲みかけの缶ビールが置かれている。


 何も変わっていない。


 しかし伊織自身には、世界で自分だけが知っている場所が一つ増えていた。


 その夜、伊織はノートを一冊取り出した。


 最初のページに今日の日付を書き、《箱庭について》と記してから、確認できたことを文章にまとめていく。最初の領域には草地と泉があり、自分だけが出入りでき、1,000 Ptを使って植物や動物を導入できるらしい。


 まだ分からないことの方が圧倒的に多かった。


 それでも明日になったら、最初に小さな畑を作ってみようと思った。


 野菜が本当に育つのか。


 育てた生命からPtが得られるという説明が、どこまで正しいのか。


 まずは、それを確かめる。


 この時の伊織にとって、《箱庭》はまだ少し変わった秘密基地でしかなかった。


 やがてそこから生まれた資源を日本政府が国家機密として扱い、世界中の研究者が存在すら知らない物質を巡って国家が動き、さらに遠い未来には二つの世界を繋ぐことになるなど、知るはずもなかった。

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