第2話 辺境の風は思ったより温かい
馬車に揺られて三日。窓の外の景色は、整備された街道から草深い一本道に変わっていた。
乗客は途中の町で一人また一人と降り、最後に残ったのは私だけだった。御者が振り返り、怪訝な顔をする。
「お嬢さん、本当にグリュンフェルトまで行くのかい。あそこは何もないよ」
「何もない、というのは具体的にどういう意味ですか」
「そのまんまさ。宿屋が一軒、食堂が一軒、あとは農家と牧場。魔法局の出張所もない」
魔法局がないなら、なおさらいい。
馬車が停まったのは、石畳すらない土の広場だった。小さな町というより、大きな集落という方が正確だ。
石と木を組み合わせた家々が緩やかな丘陵に点在している。空が広い。
王都では建物に切り取られていた空が、ここではどこまでも続いている。
荷物を抱えて馬車を降りる。風が吹いた。乾いた草と、どこかから漂う焼きたてのパンの匂い。
(……温かい風だ)
王都の風はいつも石壁に跳ね返って冷たかった。ここの風は、まっすぐ肌に届く。
まず宿を探す。御者が言っていた一軒の宿屋はすぐに見つかった。「月と鋤」という看板が掲げられた二階建ての木造建築。
扉を開けると、恰幅のいい女主人が出迎えた。
「あら、珍しい。旅の方?」
「しばらく滞在したいのですが、長期で部屋は空いていますか」
「空いてるも何も、うちは年中空いてるわよ。好きな部屋を選んでいいわ」
案内された二階の部屋は質素だが清潔だった。窓からは丘陵の向こうに森が見える。
荷を解いてから、町を歩くことにした。食堂を見つけておきたかったし、何より、この町の魔法陣の状態が気になっていた。
どんな小さな町にも、最低限の防衛陣は設置されている。魔獣の侵入を防ぐ結界——それは王国法で定められた義務だ。
ところが御者は「魔法局の出張所もない」と言った。なら、誰が防衛陣を維持管理しているのだろう。
町の外縁を歩いて回る。三十分ほどで、それは見つかった。
丘の上に設置された防衛陣の基盤石。苔に覆われ、刻まれた陣の線は半分以上が風化して消えかけている。
(……これは、ひどい)
起動テストをする必要すらなかった。見ただけでわかる。
この陣は機能していない。おそらく数年は放置されている。
つまりこの町は、魔獣に対して無防備だ。
「触らないでくれ」
背後から声がかけられた。振り返ると、長身の青年が立っている。
黒い髪に灰色の目。日焼けした肌。
服装は実用的で飾り気がない。
「この陣、あんたが壊したのか」
「壊してません。見ていただけです。というか、この陣はとっくに壊れていますよ」
青年の目が細まった。
「……わかるのか」
「私は魔法陣師です。見ればわかります」
沈黙。風が草を揺らす音だけが聞こえる。
「……ニクラス。この町の領主代行をしている」
領主代行。つまり正式な領主ではない。それ以上の説明はなく、ニクラスは防衛陣の基盤石に目を向けた。
「修復できるか」
「できます。ただし、時間と材料が必要です」
「材料は用意する。報酬は——」
「住む場所と、定時に仕事を終えられる環境をください」
ニクラスが怪訝な顔をした。当然だろう。報酬として「定時退社」を要求する魔法陣師など聞いたことがないはずだ。
「……好きにしろ」
それだけ言って、彼は踵を返した。無愛想にもほどがある。
けれど、嘘がない。言葉に余計なものが混ざっていない。
宮廷では、誰もがもっともらしい笑顔の裏に計算を隠していた。ニクラスの素っ気なさは、むしろ心地よかった。
◇
翌日から、防衛陣の修復作業を始めた。
まず基盤石の表面を清掃する。苔を除去し、風化した線を丁寧に記録していく。元の設計を読み取らなければ、修復はできない。
魔法陣の修復には、建築でいう「既存図面の復元」に似た工程がある。現地に残る痕跡から元の設計意図を読み解き、現状に合わせて再設計する。考古学に近い地道な作業だ。
線を一本一本なぞりながら、私は小さな違和感に気づいた。
この防衛陣の設計——どこかで見た覚えがある。
宮廷時代の手帳を開く。過去に検証した陣の記録を遡る。
三年前。王都近郊の要塞で修復を担当した防壁陣の設計図。
似ている。線の配置、結節点の間隔、魔力の流路設計。基本構造が同じだ。
それ自体は不思議ではない。王国の防衛陣は宮廷魔法局が標準設計図を配布しているから、地方の陣も似た構造になる。
だが——この辺境の陣には、標準設計図にはない追加の線が刻まれていた。
一見すると装飾のように見える繊細な曲線。しかし魔法陣に無意味な線は存在しない。すべての線には機能がある。
(……この追加線は、何のための設計だろう)
手帳に書き写す。解読は後回しにして、まずは基本構造の修復に取りかかった。
昼過ぎ。食堂で遅い昼食をとっていると、宿の女主人ハンナが隣のテーブルに座った。
「魔法陣のお仕事、大変でしょう。うちの宿に長く泊まってくれるなら、食事代はおまけするわよ」
「ありがとうございます。……あの、一つ聞いてもいいですか」
「何かしら」
「この町の防衛陣、なぜあんなに長く放置されていたんですか。魔法局に修復を依頼しなかったんですか」
ハンナの表情が曇った。
「……依頼はしたのよ。三年前に。でもね、宮廷魔法局は『予算がない』の一点張り。辺境の小さな町なんて、後回しにされるの。前の領主様が存命の頃は、ご自分で魔法局に掛け合ってくださったんだけど」
「前の領主は?」
「去年、お亡くなりになったわ。ニクラス様はその甥御さん。急に領主代行を引き受けることになって、大変だと思うわ。まだお若いのに」
前領主の死。放置された防衛陣。
宮廷魔法局の無関心。点と点が、まだ繋がらない線を描いている。
食堂を出て、作業に戻った。日が傾き始めている。
西日の中で基盤石を見つめ直したとき、ふと気づいた。午前中には見えなかった線が、夕方の光の角度で浮かび上がっている。
意図的に隠された線だ。特定の光の角度でしか見えない特殊なインクで描かれている。宮廷魔法局で使われる機密用のインク。
(……なぜ辺境の防衛陣に、宮廷の機密インクが使われているの)
震える手で、手帳にその線を書き写した。
隠された線の端には、小さな署名が刻まれていた。
読み取れた文字は二文字。「G」と「R」。
意味はまだわからない。けれど確かなことが一つある。この防衛陣には、公式の設計図には記されていない秘密が埋め込まれている。
定時だ、と自分に言い聞かせた。道具を片づけ、宿に戻る。
夕暮れの道を歩きながら、胸の内で問いが渦を巻いている。
——私が追放されたのは、本当にただの「技術的過失」だったのだろうか。




