第八章 覚悟の鮮血
Ⅷ 覚悟の鮮血
ナポレオンの副官ルイに案内され、フランソワとマリーは幕舎を後にした。
冷たい夜風の中、まずは肩に銃創を負った護衛のソンエイを探すことにした。
ルイによれば、彼は治療用のテントにいるはずだった。
しかし、幕内を探してもその姿は見つからない。
「ソンエイはどこにいる?」
苛立ちを隠さぬ声でルイが看護兵に問いただす。
看護兵は面倒くさそうに肩をすくめた。
「……あの東洋人ですか。民間の外国人でしょう? 兵士でもない奴に治療する必要はありません。外へ追い出しました」
その一言に、ルイの顔色が変わった。
「何だと! 彼はフランソワ嬢の護衛だ。直ちに探して来い!」
怒りを押し殺しながら命じると、ルイは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。私も捜索に加わります。ここでお待ちください」
そう言って彼は駆け出して行った。
残されたフランソワとマリーは互いにうなずき、テントを後にした。
外はすでに夜。焚き火の明かりの下、兵士たちが酒瓶を片手にたむろしている。
戦場の緊張から解放された彼らは、鬱屈を発散するかのように大声で笑い、酔いに任せて肩を組み合っていた。
その横を通り過ぎようとしたとき、酔った兵士の一人が立ち上がり、フランソワに声をかけてきた。
「おい、お嬢ちゃん。俺たちと飲もうじゃねえか!」
周囲の兵士たちも囃し立てる。
卑猥な言葉が飛び交い、いやらしい視線が突き刺さる。
「無礼者!」
マリーが前に出て、兵士の足を蹴り飛ばした。
「この方に軽々しく声をかけるんじゃない! こちらのお嬢さまは……」
フランソワが身分を隠していることを思い出し、言葉を飲み込む。だが続けた。
「お前たちのような下卑た連中が口を聞けるお方じゃないんだ!」
兵士たちの笑い声が一層大きくなる。
「へえ、お高くとまっちゃって……」
一人がフランソワの手を乱暴に掴み、抱き寄せようとした。
「やめろ!」
マリーが止めに入るが、逆に蹴り飛ばされ、地面に叩きつけられて気を失ってしまった。
「マリー!」
叫んで駆け寄ろうとしたフランソワを、兵士が後ろから抱きしめる。
「いいじゃねえか。お楽しみといこうぜ!」
酔いで赤らんだ顔を近づけ、唇を奪おうとする。
瞬間、フランソワの額が鋭く跳ね上がった。
「ぐわっ!」
頭突きを食らった兵士がよろめき、怒声をあげる。
周りの兵士たちは面白がってはやし立てる。
だが次の瞬間、彼らの笑いは驚愕に変わった。
フランソワは、彼女目掛けて殴りかかった兵士の拳をひらりとかわし、その腕を掴んで体をひねった。
空気投げ!
ソンエイに叩き込まれた中国武術の基本。
兵士の体は軽々と宙を舞い、地面に叩きつけられて気絶した。
「な、なんだと!?」
「女のくせに……!」
色めき立った兵士たちが一斉に襲いかかってくる。
フランソワの脳裏に、ソンエイの声が甦る。
『力に力で対抗するな。流れを受け流し、敵の力をそのまま返すのだ』
兵士の拳が飛んできた。フランソワは半歩下がり、掌で相手の肘を弾いた。
勢いを失った腕を掴み、腰を落として回転、投げ飛ばす。
別の兵士が背後から抱きついてきた。
フランソワは足を絡め、重心を崩す。体をひねって肘打ちを鳩尾に叩き込みこんだ。
相手は吐き気に、うめき声を上げて崩れ落ちる。
中国武術の真髄は「柔」である。
押せば引き、引けば押す。相手の力を利用し、最小限の動きで最大の効果を発揮する。
兵士たちは次々と倒れていった。
令嬢の華奢な体からは想像できぬ動き、まるで水流が岩を穿つように滑らかで、しかも鋭かった。
そのうえ、まったく息が切れていない。
その型は、彼女の美貌と相まって、芸術的とさえ言えた。
だが、背後から鈍い衝撃。
「っ――!」
銃尻で殴られ、フランソワは視界を暗転させた。
……気づけば、地面を引きずられている。
兵士たちが彼女を押さえつけ、地面に寝かせた。
両手両足を数人がかりで押さえつける。
「よくもやってくれたな」
先ほどの兵士が涎を垂らしながら笑う。
ベルトを外し、腰を下ろしかけ……
「やめろっ!」
フランソワは必死に抵抗するが、多勢に無勢。
上着を乱暴にはぎ取られ、下着姿にされてしまう。
悔しさに震える。
絶望の中……フランソワに覆いかぶさっていた兵士の体が、突然硬直した。
「ぐあっ!」
悲鳴と共にフランソワの上に崩れ落ちる。
彼女は慌てて兵士の体を退かした。
何が起こったのか理解できず、フランソワは目を見開く。
そこには、血に染まった肩を押さえながらも毅然と立つ男、ソンエイがいた。
ソンエイの動きは鋭かった。
肩に銃創を負っているはずなのに、その武術は寸分衰えていない。
兵士が突進してきた瞬間、掌底が顎を撃ち抜く。
別の兵士が剣を抜けば、身を沈めて足を払う。
その全てが洗練された一撃必殺の連続だった。
数人の兵士が束になっても、ソンエイの敵ではなかった。
彼の体は舞うように、だが一撃ごとに確実に相手を沈めていく。
フランソワは呆然と見つめた。自分が学んできた武術の源流、その圧倒的な完成形が、目の前にあった。
気がつけば、5人の兵士が地面に倒れていた。
だが、銃声が夜空を裂いた。
振り返ると、銃口を天に向けたルイが立っていた。
「やめろ!」
兵士たちがソンエイに飛びかかり、彼を押さえつける。
縄が取り出され、不埒な中国人を逮捕したと叫ぶ声。
「違う! ソンエイは悪くない! 私を助けてくれたんだ!」
フランソワの叫びに、ルイの目が見開かれた。
彼の視線が、乱れた上着のフランソワと、呻き倒れる兵士たちに注がれる。
全てを悟った瞬間、怒りが彼の全身を震わせた。
「……許せん」
ルイは声を絞り出した。
「この不届き者どもを処罰する! ナポレオン閣下の御前まで連れて行け!」
兵士たちの顔から血の気が引いた。
夜風が凍りついたように静まり返る中、ルイの怒号だけが響き渡った。
……
「銃殺?」
その一言が夜の空気を震わせた。
篝火が燃えさかる刑場の広場、ひりつくような緊張の中で、ルイの声だけが鋭く響いた。
彼がナポレオンに進言した処罰は、ただの鞭打ちでも、追放でもない。
銃殺刑であった。
フランソワに対して不埒な行為を働こうとした兵士たち。実際には未遂に終わり、逆に制裁を受けて倒れた哀れな連中だったが。
しかし、ルイは一切の情けを拒み、冷酷な断罪を求めていた。
「令嬢に不埒な行為をしようとしただけなのに……」
そう呟いたのは、傍らで震える兵士たち自身だった。
だが彼らの声は風に流され、篝火の爆ぜる音にかき消されていく。
ナポレオンは眉間に深い皺を寄せた。小柄な身体に似合わぬ存在感が闇の中で光を放つ。
彼の表情は言葉を発しなくても雄弁に語っていた。
『そこまでしなくてもよいのではないか』
兵士たちの必死の懇願。「助けてください!」という泣き声にも、ルイは一歩も退かない。
「銃殺でなければなりません。そうでなければ軍の規律が乱れます」
鋭い言葉が夜を切り裂いた。
「追放ではいけないかね?」
ナポレオンはお腹に片手を入れ、静かに問い返した。
「いけません。追放すれば彼らは必ず吹聴します。令嬢が閣下の幕舎にいたことも、すべて広まってしまう。そうなれば我々に不利です。許せば、また同じことが繰り返されます。厳罰をもって示さねば、軍全体が揺らぎます」
一歩も退かぬルイの姿勢。
彼の背後にあるものは、単なる規律への執着ではなく、戦場という極限で軍を束ねるための冷徹な論理だった。
やがて、ナポレオンは静かに目を伏せ、短くうなずいた。
これにより、兵士5人の銃殺が決まった。
それは哀れみでもあった。長く死の恐怖に苛まれるよりも、速やかに幕を閉じる方が救いになる。
銃殺はその夜のうちに執行された。
場所は戦場の片隅に設けられた刑場。地面は固く、篝火の影が揺れ、焦げた煙が漂う。
夜風が冷たく、兵士たちの息は白く霧散した。
フランソワはマリー、そしてソンエイと共にそこに立ち会った。
ルイは「その必要はありません」と進言したが、ナポレオンは首を縦に振らなかった。
「見せるべきだ」
その一言が、彼女をここに立たせた理由だった。
「抱えー筒!」
号令が響く。
縛られ目隠しをされた兵士たちが、篝火の光に浮かび上がった。
震える身体からは嗚咽と祈りの言葉が漏れ出している。
「神よ……」
「母上……」
「助けて……」
5人5様の声が夜に混じり合う。
フランソワの胸は波打つように激しく動揺していた。
彼らは許されざる行為をしようとした。だが、その命を奪うのは正しいのか。
心は揺れる。
「これが戦場での現実……」
彼女は自らに言い聞かせた。ここは戦場。甘さは許されない。
号令が下る。
「撃て!」
轟音が夜を切り裂き、硝煙が漂った。
兵士たちの身体が一斉に崩れ落ち、血が土を濡らす。
マリーは思わず顔を背けた。だが口は勝手に呟く。
「あんな奴ら、死んで当然だわ……」
ソンエイは目を閉じ、無言で祈る。
フランソワは瞳を大きく見開き、眼前の光景を刻みつけた。
血と硝煙、命が終わる音。
これが戦場の掟。覚悟がなければ踏み込めぬ世界。
「申し訳ございませんでした」
ルイが彼女に向かって深々と頭を下げてきた。
だがフランソワには、その謝罪が何に向けられたものなのか分からなかった。
その時だった。ナポレオンが彼女に近づいてきた。
篝火が照らす彼の両眼は、猛禽のごとく鋭く光を放つ。
小柄な体躯とは裏腹に、彼の纏う威厳は圧倒的で、近づく者を怯ませる。
「服を脱げ」
静かだが逆らえぬ命令。
「こ、ここでですか?」
ルイが慌てて訊き返す。
「そうだ。服を脱げ」
再び命じられる。
ソンエイが一歩前に出ようとしたが、フランソワが手を上げて制した。
マリーは怯えて泣きそうな顔をしている。
フランソワは片手て襟を握りしめていたが、
「……わかりました」
と毅然と答え、上着とパンツを脱いだ。
彼女は下着姿になったが、ナポレオンの前に堂々と立っている。
白い肌が篝火に照らされ、形の良い肢体を炙り出している。
生まれてこの方、男の前に肌をさらすことなどなかった。
しかし今、この瞬間、彼女の中では羞恥よりも決意が勝っていた。
マリーは涙をこぼし、ソンエイは目を閉じて俯いた。
ルイは声を震わせて抗議をした。
「これも脱がせるおつもりですか?」
フランソワの下着を差し、怒りを押し殺した声で問う。
フランソワはこぶしを握り、歯を食いしばった。
ナポレオンの答えは短く、だが重かった。
「いや、脱がなくてよい。その代わり……銃殺された兵士の中から、あなたの身体に合う軍服を選び、着ろ」
衝撃が走る。マリーが息を呑み、ルイが思わず叫ぶ。
「な、なんてことを命じるのですか!」
だが、ナポレオンは一歩も引かない。フランソワを正面から見据えた。
「あなたはこれから貴族の令嬢ではなく、一兵卒として生きねばならない。それが嫌なら、すぐに去れ」
それを聞き、マリーは慌ててフランソワの腕を引いた。
「行きましょう! こんなの、耐えられません!」
だがフランソワは動かない。じっとナポレオンを見つめ返している。
ナポレオンの言葉は続く。
「今のままでは兵士たちに動揺が広まる。彼らはあなたを憎むだろう。軍の秩序は崩壊する。だから、男の兵士として戦え」
ナポレオンの声は夜気を震わせた。
「銃殺された彼らは、あなたの命の代わりに死んだのだ。その覚悟を背負うなら、彼らの軍服を纏え」
フランソワは歯を食いしばり、大きくうなずいた。
篝火に照らされた切なくもなる美しさに、周りの者はため息を漏らした。
彼女は血に染まった兵士たちの亡骸へと歩み寄った。一人ひとりを見つめ、祈りの言葉を口にする。
そして、静かに選んだ。
「この人にします」
マリーは泣きながら、聖母マリアの名を呟き、軍服を脱がせた。
銃弾が穿った穴の周りは赤黒い血で濡れている。
「さあ、これを……着てください。私がお手伝いします!」
マリーは大声で叫び、ナポレオンに聞かせるようにフランソワに言った。
血と硝煙の匂いが染み付いた軍服を纏い、フランソワはナポレオンの前に立った。
「……よろしい」
ナポレオンは一つきうなず、きびすを返して闇に消えていった。
ルイはこわばった表情でフランソワに向き直った。
「ご案内します」
彼の声音には怯えが滲んでいた。
ナポレオンがフランソワに語った言葉は、同時にルイにも向けられていたのだ。
その意味を悟ったからこそ、彼は震えていた。
フランソワ、マリー、ソンエイは、ルイの後を追って刑場を後にした。今夜からは、他の兵士たちと寝食を共にするのだ。
篝火に照らされていた三人の影が、闇夜に消えていった。
第九章 トキをワタル に続く




