第九章 トキをワタル
Ⅸ ~トキをワタル~
ハッと我に返った。
俺の手には、半分ほど食べかけた炙ったサンドイッチが握られていた。野菜と卵焼きが挟んである。
気がつけば、咀嚼していたのだ。まるで夢遊病者みたいに。
そういえば、廊下に置いてあったトレイを持ち上げたことは覚えている。
そこから先、俺は妄想に耽り――いや、妄想なんて軽いものじゃなかった。
俺は「フランソワ」に成りきっていた。ナポレオン軍が駐屯する幕舎で、際どい体験をしていたのだ。
未だに心臓がバクバクと高鳴っている。
銃殺された兵士の軍服を着る場面を思い出すと、胃がひっくり返りそうになり、吐き気すらこみ上げてきた。
銃声、血の匂い、恐怖。
それを垣間見てしまったあの感覚が、ヒリヒリと俺の中に残っている。
俺は、フランソワとしてそこに居た。
リアルな夢を見ているようで、まさに彼女として体験しているのに、どこかで冷静に傍から見ている自分もいる。
まるで、夢だと知りながら夢を見ているような、あの妙な二重構造の意識。
だからこそ、俺は分かってしまう。あれから先、フランソワがどうなるのかを。
ナポレオンの幕舎から逃げようとしなかったのも、その結末を知っているからだ。
俺はオレンジジュースのコップを手に取って、一口、喉を潤した。
『おお! 俺はオレンジジュースを飲んでいる』
そんな風に自覚してしまった。
逆説的に言えば、俺が作った仮想キャラ「フランソワ」が実体を持って、21世紀初頭の現実を生きている俺を俯瞰して眺めている気すらするのだ。
「しっかりしろ!」
俺は頭を振った。
このままじゃ、妄想に取り込まれてしまう。
既に片足は踏み込んでいるけれど、このままいけば、完全に戻れなくなってしまう気がする。それは恐怖に近い感情だ。
フランソワとして生きたい――そんな願望は確かにある。
だが、それは「現実に戻れる保証」があるからこそ抱ける贅沢な夢なのだ。その保証が消えるなんて、考えるだけで身の毛がよだつ。
どうすればいいのか?
答えは分かっている。
いや、分かっているのに、さっきから実行できずにいる。
部屋を出て、1階に降りるんだ。
今日は日曜日。リビングには父がいる。母がいる。きっと寛いでいるはずだ。
そこで父に訊くのだ。祖母――父の母、恵子の実家のことを。そして恵子の姉、魔女と呼ばれていた充子のことを。
祖母の実家。名前は忘れたけれど、羽咋市、田舎にある大きな屋敷だった。代々庄屋を務めていたと聞いている。
あの屋敷には謎が多かった。特に奥の間。なぜか、滝が流れ落ちている部屋があったのだ。
どうしてあんなものが……?
その謎が、今の俺とフランソワを繋いでいるような気がしてならない。
フランス革命の時代。高級貴族の令嬢として生きてきた少女が、ナポレオン軍に参加し、男装の兵士となり、戦場に赴く――。
確かにそれは俺が妄想で作り上げたキャラの物語だ。
だが、そこに没頭し、成り切ってしまうのは、祖母の実家の謎が影響しているように思えるのだ。
なぜかそう思う。
俺はオレンジジュースを飲み干し、トレイにコツンと音を立ててコップを下ろした。
普段なら、食べ終えたトレイをそのまま廊下に出しておく。母が片付けてくれるのだ。
でも今日は違う。下まで持って行こう、と決意した。
それだけのことなのに、憂鬱になり、気力を削がれてしまう。
だが、今回は何としてもしなければならない。
昨日の夜、俺は決意していた。『今日、祖母の実家まで行こう。見てこよう』と。
だが分かっている。半年も引きこもっている自分には、それは無理なことだ。できないのだ。
それでも謎を解かねばならない。
だからせめて、下へ降りて父に聞こう。
俺はトレイを抱えて廊下に出た。
鼻を突く匂い。少し黴臭いような匂いだ。汗臭い自室との違いで気づいたのかもしれない。
九月の下旬。ようやく暑さが引き、廊下はひんやりしていた。
『こんなに冷たいのか』
意外な発見に胸がざわつく。
階段に向かって歩き出す。
普通のことだ。嫌悪感もない。ごく当たり前の行動に思えた。
階段上から下を覗くと、テレビの音が聞こえてきた。母の声も混じる。父に何かを話しかけているようだ。
俺の気分はすっと落ち込む。
家族の団らん。その絵を想像してしまったからだ。俺にとってそれは温かさではなく、むしろ重荷だ。
だが俺は足を止めなかった。トレイを持ったまま、階段を降り始めた。
一階の廊下は暖かかった。二階のひんやりとした感覚がない。
リビングのガラス戸を開けると、テレビの音が洪水のように押し寄せ、頭が痛くなった。
「テレビ……消して」
思わず口にした俺の言葉に、父が振り返った。驚いた顔。
昼食の用意をしていた母もキッチンから顔を出し、俺を見て驚く。
しかし即座に母は父に言った。
「テレビ、消して」
「わかった」
父がリモコンを手に取り、テレビは静かになった。
リビングに静寂が満ちる。
俺は無言で母にトレイを渡した。
母は「ああ」と言ってそれを受け取る。
ぎこちなく、ロボットのようにソファの端に腰を下ろした。斜め向かいには父。
「おお、ワタルか……」
父が言ったきり、口を閉ざした。
母が取り繕うように声をかけてくる。
「どう、美味しかった?」
「ああ」
俺は短く答えた。
「父さん」
俺は言った。
「おお、なんだ」
父が驚いたように答える。
「おばあちゃんの家……」
言葉を探し、少し間を置いた。
「おばあちゃんの家……?」
父が聞き返す。
「何て家だった?」
「ああ……名前、家というかおばあちゃんの旧姓だな……ウメド、というんだ」
「ウメド?」
「そう。梅の木の梅に渡ると書いてウメド、と呼ぶんだ」
「それって、後からそういう名前にしたってこと?」
「いや、大昔から……江戸時代でも庄屋だったんだから、ウメドと名乗っていたんだ」
「ああ、庄屋なら名字帯刀が許されたからだね」
「そうだよ」
父は少し誇らしげに笑った。
「何でウメドなんだろうね……」
「そうだね……」
父と俺は考え込む。
すると母が、得意げに口を挟んだ。
「あれじゃない? 鶯が有名で、ウメドなんじゃない」
「え? ウグイス?」
父が目を丸くする。
「だって、鶯は梅の木を渡るでしょう?」
「……なるほど」
俺は相槌を打つ。
だが父は腕を組み、少し考えてから口を開いた。
「実はな……俺が子供のころ、おばあちゃん――俺の母から聞いた話だが……真面目に聞いていなかったから、あんまり覚えていないんだが……ウメドっていうのはな、大昔はウミドって言ったらしいんだ」
「ウミド?」
俺は繰り返す。
「そう。梅じゃなくて海だったらしい。海を渡るでウミドだって。だけど、いつの間にか梅に変わったって話だったな」
俺は息を呑んだ。
海を渡る――ウミド。
それはまるで、時代も世界も越えて、誰かが旅立っていくような響きを持っていた。
フランソワ。
そして俺、航。
全ては「海渡」の名に導かれているのではないか。そう思えて仕方がなかった。
海を渡る……。
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
いや、正確には“海”ではない。俺はいま、時間を渡っているのかもしれない。
だって、フランソワの物語――俺が頭の中で紡いだ虚構にすぎないはずの彼女の世界は、なぜか時を超えて俺に訴えかけてくるからだ。
そう思った瞬間、目の前がくらりと揺れて、めまいを覚えた。
「海を渡るって……海を渡ってきたってこと?」
母の声が、遠い夢の中から響いてきた。
現実へと引き戻された俺は、思わず父の顔を見つめる。
「え? 海を渡ってきた?」
母の言葉を繰り返す。
あまりに直接的すぎるその解釈に、俺の心臓は高鳴った。鼓動が早鐘のように響く。
そして、口から思わず言葉が漏れる。
「俺の先祖が?」
胸の奥から込み上げる動揺は隠しようがなかった。
まさか、俺の血に流れる何かが、海を渡ってきたのか?
だが、すぐに理性が制止をかける。
19世紀初め?
いや、ありえない。だって、江戸時代、少なくとも18世紀には海渡家は羽咋に存在していたのだ。矛盾している。
「海を渡るで言うならば……」
父がゆっくりと口を開いた。
その声音に、俺は真剣な眼差しを向ける。
「母の実家、梅渡家のある羽咋の隣に、宝達志水町という町があるけれど、その町には、モーゼの墓があるんだよ」
「ええええええ!」
俺はソファーを蹴飛ばす勢いで立ち上がり、素っ頓狂な声を上げていた。
「モーゼ! あの十戒の!」
「ああ。もっとも、本物かどうかはわからんが……」
俺の驚きが意外だったのか、父は口ごもって答える。
「というか……作られたものだろうけれど。モーゼパークという公園――それは山なんだけどね、その中腹にモーゼの墓が作られている」
父の説明に、俺の頭の中は大混乱だった。
「行ったことあるの?」
俺が身を乗り出すと、母があっさりと答えた。
「ええ、行きましたよ」
「はあ? 母さんが!」
驚きすぎて声が裏返る。
母は楽しそうに「オホホ」と笑った。
「父さんと一緒にね。父さんに連れられて行ったんだけど、なかなかたどり着けなかったよね」
「そう」
父が短くうなずく。
「たどり着けないというのは?」
俺の問いに、母は少し神秘的な表情を浮かべて答えた。
「あれよ、呼ばれないと行けない、というやつ」
「そうなんだ……」
俺の胸に妙なざわめきが広がる。
呼ばれないと行けない墓――それは物語の設定のように聞こえるが、現実にそんな経験をした母がいるのだ。
「というか……墓の場所は公園の地図にも載っているし、道には案内板もある。ただ、山道からちょっと外れたところにあるんだ」
父は理路整然と解説する。
「そう、1時間くらいうろうろしてたよね」
「30分だろう」
「とにかく、わかりにくい場所にあったの」
母と父の言葉が交錯する。
俺の頭には、山の中で道に迷い、導かれるように墓へたどり着く二人の姿が浮かんでいた。
「墓はどうなっているの?」
興味を抑えきれず、俺は問いかける。
「まあ、大したものはない。狭い場所だし、石が積んであって、卒塔婆が何本か刺してあったね」
「卒塔婆……?」
時代劇かと突っ込みを入れたかったが、日本式の墓場の映像が頭に浮かび、妙な違和感を覚える。
モーゼと仏教が、どうして結びつくんだ?
「そう。戒名まで書いてあるんだから」
「そうなんだ……」
母の言葉を聞きながら、俺はユダヤ教と仏教が融合した奇妙なイメージを思い描く。
それは違和感であると同時に、なぜか斬新で魅力的に感じられた。
「その墓のある場所から、海が見えるんだよ」
「海?」
父の言葉に俺は目を見開いた。
「そう。山の中で木々に囲まれているんだが、西側が少し切り開かれていて、そこから下に海が見えたんだ」
その情景を頭の中で描く。
木漏れ日の中、遠くに輝く海。
父は遠いものを懐かしむように続けた。
「まるで、懐かしんでいるように海が見えるんだ」
その一言に胸を打たれる。
海を渡って日本へ来た人が、最後にそこから海を見たのだろうか。
母がそっと呟いた。
「海を渡って日本まで来たんだね」
「祖先と関係しているの?」
俺は食い下がるように尋ねた。
父は首を横に振る。
「それはわからない」
けれど、と母が言葉を継ぐ。
「航も知っていると思うけど……おばあちゃんのお姉さん」
「ああ、魔女と呼ばれた人だよね」
「そう。顔が日本人離れしていたからね」
記憶が甦る。
俺が5歳のときに会った、祖母の姉、充子。
10歳のとき、梅渡家を訪れた際にも少しだけ顔を合わせた。
その印象はいまも鮮烈に残っている。
深いフードに隠れた瞳は見えなかったが、鼻が異様に高く、先が下に垂れていた。まるで絵本に描かれた魔女のように。
「だいたい、目だって、茶色というより緑色に近かったからね」
父が付け加える。
その姿は、僕の中で一層幻想的に膨らんでいく。
「おばあちゃんは純日本風だったけどね」
母が言い、父に向かって笑みを浮かべた。
「あなたにそっくり」
「平たい顔族だってか」
父は自嘲気味に笑った。
その笑いがなぜか遠く聞こえた。
俺の心はすでに、海を渡る者たちの物語と、自分の血に潜む謎へと深く沈み込んでいたからだ。
フランソワの虚構と、モーゼの墓の実在。
そして、魔女と呼ばれた充子。
これらは本当に無関係なのか?
俺は答えを探すように窓の外を見つめた。
そこには海はない。けれど、確かに俺の内側には、見知らぬ海が広がっていた。
第十章 ラ・ルーブ・ブランシュ・レジョン に続く




