表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/20

最終話 希望のかけら

 大雨が降り続いた数日を経て、ようやく空が晴れ渡ったころ、王都は遅い春を迎えつつあった。音を立てて芽吹く木々や咲き始めた花々は、冬の名残を払うように鮮やかな色を帯びている。しかし、その華やかさに反して、王宮にはどこか寂しい空気が満ちていた。

 公爵家の娘が旅立ってから、すでに数週間が過ぎている。舞踏会での暗殺未遂と、それを機に暴かれた陰謀によって、王太子が多くの混乱と痛みを背負ってしまったことを、誰もが知っていた。王太子レオンハルトが公式の場で謝罪をしたその瞬間は大きな波紋を呼んだが、今となってはその衝撃も薄れ、人々は日々の暮らしに戻りつつある。しかし、王宮での空気はまだ重く、あの夜の記憶が深く刻みつけられていた。


 王の執務室では、宰相や側近たちが押し寄せる書類に目を通し、王都の復興や領地の整備など、山積みの課題に忙殺されている。少し前まではリシャールがその中心にいたが、今は彼がいない。暗殺計画が失敗に終わり、その悪行が暴かれて拘束されたことで、彼が担っていた宮廷業務にもほころびが生じていた。王太子は、その処理を引き継ぎながら、王家の名誉と安定を取り戻すべく奮闘している。


 だが、王太子の心中は決して穏やかではなかった。

 レオンハルトは今、王宮の中庭で一人、石畳の回廊を歩いている。珍しく従者も連れず、足取りは重い。陽光を受けて輝く噴水の水音が耳に届くが、その涼やかさを感じ取る余裕はない。何度も同じところを行き来しながら、低くため息をつくばかりだった。

 彼がこんなふうに物思いに沈むようになったのは、暗殺未遂事件が決着してからだった。あるいは、あの夜を契機に、公爵家の娘――ルシアが姿を消してしまったことが大きいのかもしれない。謝罪を行ったものの、彼女の心はあまりに深く傷ついていて、すぐに許されるはずもなかった。それどころか、ルシアは王都を離れる道を選び、彼のもとを去っていった。


 レオンハルトの胸に残るのは、耐えがたいほどの自責の念だった。

 昔のように笑い合うことはできないのか。彼女が守ろうとしてきた誇りや夢を、どうして自分は踏みにじってしまったのか。どれだけ悔やんでも、過去を変えることはできない。事件後の混乱の中で、彼は多くの公務をこなさなくてはならず、休む間もない。しかし、それは苦しむ心を紛らわせるには不十分だった。夜に一人になると、記憶の断片が彼を容赦なく責め立てるのだ。


「殿下、そろそろ控え室へお戻りください。近衛騎士団の方との打ち合わせのお時間です」

 気配を感じて振り返ると、忠実な侍従が頭を下げている。レオンハルトは微かに頷いて、「わかった」とだけ答えた。周囲を取り囲むように配置された衛兵たちの視線を感じながらも、彼はなおも足を動かそうとしない。まるで、ここに留まっていたら、彼女が戻ってきてくれるのではないかと、儚い期待を捨てきれないかのようだった。


 そのころ、王都の街では、暗殺未遂後の混乱が徐々に収束しつつあった。公爵家は、ルシアの無実が完全に明らかになったことで、名誉を取り戻している最中だ。兄エドガーは屋敷に残り、一族の財産や領地の管理を立て直すために日夜奔走していた。陰謀が暴かれた今、貴族社会でも公爵家へ協力を申し出る者が増えつつある。

 その合間、エドガーは時折、妹の部屋に立ち寄っては静かな寂寞を覚えていた。そこには、まだルシアの書物や小物がそっくり残されている。整理しようにも、彼女がいつか戻る気があるのなら、そのままがいいだろうと考え、手がつけられないまま。使用人たちも「いつお嬢様が帰ってきてもすぐに生活できるように」と口にしており、皆がほんの僅かな光を信じている状態だった。


 セシリアに関しては、王太子との疑似的な婚約が正式に解消され、彼女は静かに宮廷を去った。周囲からはさまざまな噂が立ったが、多くの貴族は、彼女が陰謀に巻き込まれ、利用されてしまったのだと理解している。彼女自身も、事件の後、深い後悔を抱えながら姿を消したらしい。今はどこか地方の領地で隠れるように過ごしていると聞くが、詳細を知る者はほとんどいない。

 時折エドガーの耳に入るのは、彼女が新たな一歩を踏み出すために休養を取っているという話だ。事の真偽はわからないが、あの涙ながらの懺悔を見ていると、彼女もまた、再起を図っているのだろうと想像する。傷つけ合った事実は消えないが、彼女自身も被害者だったのだと、今は多くの人が認め始めていた。


 そうした中、レオンハルトが変わらず思い詰めている様子は、王宮の者たちの間でも心配事の一つになっている。宰相や大臣たちは、「これ以上殿下が落ち込んでいては国政に差し障る」と口々に言う。しかし、レオンハルトは何とか仕事をこなしているものの、かつての快活な笑顔は見せなくなった。

 ある日、ふとしたきっかけでレオンハルトが公爵家を訪ねたのは、事件からさらに数週間が過ぎたころのことだった。公務で近隣の伯爵家との調整に赴いた帰り道、思い立ったように馬車を降り、公爵家の門を叩いたのだ。出迎えたのは、兄エドガー。あの暗殺未遂以降、二人は何度か顔を合わせる機会があったものの、和やかな会話を交わすような間柄ではない。それでもエドガーは主人として、丁重に王太子を迎え入れた。


「殿下、いかがなされましたか。お忙しい中、わざわざ……」

「済まない。少し、ルシアの部屋を見せてもらえないだろうか」

 その申し出に、エドガーは一瞬迷いの表情を浮かべる。しかし、レオンハルトの真剣な顔を見て、結局は断るわけにもいかず、「どうぞ」とだけ答えた。そうして二人は廊下を歩き、あの静かな部屋へ向かう。使用人たちが不安げに見守る中、レオンハルトは扉の前で息を整えるように目を閉じる。


 ドアを開けると、そこはまるで時間が止まったかのように、ルシアが過ごしていた日々のままだった。窓際には愛用の小机、棚には魔除けの飾りや、かつて王太子とのやり取りに使った書簡の一部が整然と収まっている。エドガーが目配せをして、一歩引き下がると、レオンハルトはゆっくりと部屋を見渡した。


「……ここで、あの頃のルシアは笑っていたんだな」

 呟く声は掠れていた。視線を奥へ向けると、一つの小箱が目に留まる。飾り気のない木製の箱で、上にはルシアのイニシャルが控えめに刻まれている。レオンハルトがそれを手に取ろうとすると、エドガーが小さく頷いて「見てかまわない」と示した。


 箱を開けると、幼い筆跡で書かれた手紙の断片や、昔王宮の庭で拾った小さな石、王太子の紋章を描いた古い切れ端などが収められていた。どれも大した価値のないものかもしれないが、きっとルシアにとっては大切な記憶の品だったのだろう。

 レオンハルトの瞳が静かに濡れ始める。手紙には幼稚な言葉で「殿下と一緒にもっと学びたい」「立派な女性になって支えたい」と書かれている。あの頃、自分はこの子供じみた誓いをあたりまえに受け止め、そしていつか叶うと信じていたのに。彼は唇を噛み、箱の蓋をそっと閉じる。


「エドガー……すまない。これ以上ここにいても、俺はどうにもならないな。……ありがとう、見せてくれて」

 エドガーはやるせない表情で、それでも王太子に頭を下げる。

「殿下がどう思うかは自由です。ですが、妹は戻りません。もっとも、いつか戻る可能性がないわけではない。もしお前が……いや、殿下が本気で償いたいと願うのなら、時間をかけるしかないでしょう」

「……ああ。わかっている」


 そう言いながら、レオンハルトの胸には痛みが増すばかりだった。どこか遠くで、もう交わらないかもしれない道。あの小箱の中の思い出が、過去の確かさを突きつけてくるほど、今の空虚さに耐えがたい。

 レオンハルトは部屋を出ると、少しだけ口を開いた。


「ルシアのこと、頼む。俺にはもう……何もできない。でも、彼女が帰ってきたいと願う日がもし訪れるなら、その時は……教えてくれ」

 エドガーは無言でうなずく。それがどこか悲しげな、しかし決意を込めた返事だった。部屋の扉を静かに閉めると、使用人たちが沈黙のまま礼をする。レオンハルトは表向きは王太子の威厳を保ちながらも、心の中では今にも泣き出しそうな思いを抱え、屋敷を後にした。


 旅立っていったルシアは、王都から離れた小さな街道沿いを馬車で移動し、途中で宿をとりながらさらに遠くへ向かった。名も知らぬ村や町をいくつも回り、まずは自身の気持ちを癒やすために、ゆっくりとした旅程を組んでいる。

 道中で出会う人々は、どこか温かく、彼女にとって何よりの慰めだった。誰も公爵家の話をせず、王太子との婚約破棄など知らない。ルシアは「ああ、ここには私の過去を何も知らない人がいるんだ」と思うと、ほっと胸をなで下ろすような安堵を覚えた。まだ完全には気持ちが解放されないが、それでも少しずつ前を向く足掛かりになっている。


 馬車を降りて宿屋に泊まる夜、ルシアは部屋で小さな鞄を開き、そこに入れてきた数通の手紙やメモを再び眺める。公爵家を出るときに最小限の荷物にまとめたが、その中には兄エドガーやマリエから贈られたお守り、そして昔レオンハルトから贈られた小さな花の押し花までも入っていた。

 捨てられなかった。あの人を憎む気持ちと、かつての夢を捨てられない気持ちが、心の中で入り混じっているから。彼を責めても、彼を想っても、どちらもまだ自身の痛みを刺激する。それでも、いつかこの痛みを超えられる日が来るのかもしれないと、半ば奇跡にすがるように信じたかった。


(まだ痛む心を抱えたままだけど、それでも私は生きていく。私が選んだ道だから)


 部屋の灯を落とし、窓辺に寄る。外には薄暗い夜の闇が広がり、数えるほどの星が瞬いている。王都で見上げるよりも、ずっと広く感じられる空だった。遠く離れた場所で、エドガーやマリエはどうしているだろう。王太子は……今、何を思っているのだろうか。

 考え出すと切りがない。だから、今はそっと瞳を閉じる。息を深く吸い、いつかこの傷が癒えたとき、もう一度自分が帰りたいと思える場所があるはずだと、自分自身に言い聞かせる。


「きっと、まだ終わりじゃない。きっといつか――」


 言葉にならない想いを胸に、彼女は覚悟を決める。まだ全部を許すには遠い道のりがあるし、レオンハルトとの関係も修復不能かもしれない。それでも、歩みを止めたくはない。あの人と誓い合った王国の未来を、形を変えてでも見守りたいと心のどこかで願っているのだから。

 夜風がカーテンを揺らし、かすかな香りを運んでくる。外の世界は広い。王都や王宮だけが世界のすべてではないし、まだ訪れていない場所や出会っていない人々がたくさんいる。ルシアはその新たな世界で、生き方を探すのだろう。彼女はかすかに頬を緩めると、泣きやむことのできた自分に少し安堵を覚える。


 こうして物語は終わりを迎える。だが、ルシアとレオンハルトの未完の想いは、時間の流れの中でどう変わっていくのか、まだわからない。二人が再び巡り合う未来があるのかもしれないし、互いに別々の道を歩んで二度と交わらないかもしれない。

 それでも、彼らが過ごした日々や、紡いできた絆は決して偽りではなかった。深く傷つきながらもなお、心の奥底に大切な記憶を抱えている限り、完全に途絶えてしまうことはないはず――そんな一縷の希望が、旅立ちの夜空に仄かに光を灯す。

 そしてルシアは、馬車の窓から見える小さな星々に視線を上げ、ほんの少し微笑んだ。喪失の痛みを抱えながらも、生きていく決意を新たにする。どこまでも続く道の向こうで、彼女が再び笑顔を取り戻す日がくるかもしれない。その終わりのない予感を抱いて、物語は静かに幕を下ろしていく。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ