2
——サンクティア王国、某領。
その領主館の裏手では、仕事の合間を縫って集まった下働きの男たちが、楽しげに噂話へ花を咲かせていた。
「聞いたか? 今度の季節祭、酒場の主人がとっておきの酒を振る舞うって話だぜ」
「いいねえ。たまにはカミさんも連れて行ってやろうかな」
「——お、ヨハン! お前も来るだろう?」
と、石畳の廊下を一人の青年が足早に通り過ぎ、下男の一人が声をかけた。
暗い青色の髪。華奢な銀縁眼鏡をかけたその青年は、かけられた声に僅かに振り返った。
「——断る。その日は礼拝があるだろう」
喉元まで留められた濃紺の上衣。書類を抱えた細身のその青年の名は、ヨハン・リヒター。この領主館の実務を担当する、下級文官である。
淡々とした声。表情ひとつ変えない彼に、男たちは呆れたように笑って言う。
「礼拝? そんなもん朝に済ませるだろ」
「せっかくの祭りだぞ?」
「夜の祈りを欠かすわけにはいかないだろう。そもそも、祝祭日だからこそ礼を尽くすべきだ」
そんな彼らに、ヨハンは眼鏡の奥の瞳を細め言葉を続けた。
取り付く島もない返答に、男たちは顔を見合わせ、肩をすくめる。
「相変わらず堅物だなあ」
「真面目と言ったら聞こえはいいが、それじゃあ嫁の一人ももらえねえぞ」
「神様と結婚する気なんじゃないか?」
「はは、違いない」
揶揄い混じりの笑い声に、ヨハンは冷たく視線だけでいなすと、再び歩き出した。まだ仕事が残っている、こんなところで道草を食っている時間などなかった。
彼は、周りが噂する通り、実直で敬虔な青年なのであった。
ヨハン・リヒターは、文官の父と館仕えのメイドであった母のもとに生まれた。
その生まれのため、平民ではあったが幼い頃から文字と計算を学び、自然と上流階級の文化や規律へ触れて生きてきた。真面目で忠誠心の厚い両親の元、彼もまた、法や規律を尊重し信仰心のが篤い青年へと育った。
とりわけ、神の言葉を民に伝え導く神殿の教えは、彼の人生の規範であった。
『汝、人を愛せよ。祈りは報いとなりて還らん』——善き行いは巡り巡って己へ返ると、そう説いたこの教えは特に、実直なヨハンの在り方の基準となっていた。今日一日を誠実に生きる、その積み重ねこそが祈りだと、ヨハンは心から信じていた。
契約書の一文も疎かにせず、どんな雑務にも手を抜かない。日々職務を全うし、安息の日があれば終日神に祈りを捧げることで費やした。
それが、ヨハンの信じる誠実さであった。
*
「ああ、ヨハン。ここにいたのか」
執務室で税務処理を行っていたヨハンへ、不意に声がかかる。顔を上げると、そこには柔和な顔立ちの男が立っていた。
男の名は、フリッツ・ノイマン。この領地における領主代行を務める人物である。
「フリッツさん。どうされたんですか?」
「ああ。今度の宴席に余興として旅芸人を呼ぶと、その話はしていただろう?」
「ええ」
フリッツの言葉に、ヨハンは軽く相槌を打った。
たしかに、近々この館では大規模な宴が予定されていた。季節祭に合わせて催されるそれは、多くの貴族や富裕層を招いた大規模なものだ。
「その一座が到着したようなんだ。滞在許可の申請と、宿泊部屋への案内を頼めるか?」
「承知しました」
新たに舞い込んだ仕事に、ヨハンは頷いた。客人への滞在許可や規則の確認を行うのも、下級文官である彼の仕事だ。必要な資料を手に取り、彼は静かに席を立つ。
執務室を後にするヨハンに対して、フリッツは人の良さそうな、だけどどこか弱腰な笑みを浮かべ、「助かるよ」と言葉をかけた。
王都近郊の保養地として知られるこの土地には、社交シーズンともなれば多くの貴族や富裕層が訪れる。そして、この地を管理領として与えられている第七王子ヴァレリーは、ことあるごとに宴席を開きたがる男だった。
季節ごと、宗教記念日や王家関連行事……何かに理由をつけては人を集め、宴を開く。そしてその主催を担い様々な雑務をこなすのは、ほとんどの場合この領主館で働く者たちであった。領主であるヴァレリーは滅多に領地に姿を見せず、実務は家令兼領主代行のフリッツが取り仕切っているからだ。
また、その余興として、楽団など外部の者を招くこともヴァレリーは好んだ。それらを実務面で補うのも、ヨハンの仕事であった。
そして今回、ヴァレリーが余興に望んだのは、異国の旅芸人一座の演芸だった。
貴族の集まる場に芸人など——とヨハンは考えるが、貴族だからこそ、異国の芸人が物珍しく、見慣れた自国の楽団や劇団より興味が引かれるのかもしれない。どちらにしろ、自分は自分の仕事をするだけだ。
そうしてヨハンは、すでに到着したという一座を迎えるため、正門に向かった。
領主館の正門前には、すでに旅芸人たちが集まっていた。古びた荷馬車。色鮮やかな布。見慣れぬ楽器。館に招かれる楽団とは違う、雑多で自由な空気がそこにはあった。
ヨハンは軽く息を整え、一座へ向かって口を開く。
「——長旅でお疲れのところ恐縮だが、まずは歓迎を。私はヨハン・リヒター。この領主館で文官を務めている。君たちの滞在中は、何かあれば私に申し出てほしい」
どこか固いが、礼を尽くした言い回し。ヨハンは一座に向かってそう挨拶の言葉を述べると、敬愛のしるしにと右手を差し出した。
この手を握り返され、挨拶のひとつも返ってくるのだろうと考えていると、
「おう、兄ちゃんが俺たちの世話してくれんのか! よろしくな!」
「ひゃあ〜、立派なお屋敷だねえ。本当に泊まっていいのかい!?」
「おい、それより厠はどこだ!? もう限界なんだが!」
一座の者たちは一斉に騒がしく声を上げた。
口々に飛んでくる言葉に、ヨハンは思わず口元を引きつらせる。差し出した右手が浮いたままひくりと震えた。
騒がしく遠慮のない態度。それは、ヨハンが今まで相対したことのない人種であった。
(余興と言って、楽団の者たちは迎えたことはあるが……)
ヨハンは内心で頭を抱える。
貴族たちに招かれ慣れている楽団なら、このように礼儀の欠いた態度は決してとらない。
態度だけではない。芸のためだろうか、彼らの纏う衣装もまた、ヨハンには馴染みのないものだった。
派手な色彩、異国めいた刺繍、奇抜な布地——どれもヨハンには見慣れぬものばかりで、どうにも落ち着かない。
(いけない、どんな見た目でも客人は客人。主人の招いた芸人に、失礼があってはならない)
ヨハンは内心で自らを戒める。そうして気を取り直し、口を開いた。
「そ、それでは、滞在中に使用してもらう部屋へ案内する。ついてきてくれ」
と、館へ入ろうと踵を返す。
その時だった。
「ああ、ちょっと待ってくれるか?」
一座の男が手を挙げる。
「実はまだ一人、来てなくてな。全員揃うまで待っててくれるか?」
「え?」
「久々の都会だから街を見たいって、ここに着くなり飛び出しちまったんだよ」
男の言葉に、面食らう。
仕事を放り出して、街に繰り出した?
ヨハンには考えられない行動だった。まして今回の主催は王族、下手をしたらどんな不興を買うかわからないのに——
ぎょっとして固まるヨハン。その背後から、明るい女の声が飛び込んできた。
「——ごめんごめん! 待たせたかい?」
振り返る。
「おい遅いぞ」「どこ行ってたんだよ」「それより厠に」そんな雑然とした声を掻き分けて、一人の女性がヨハンの元へ駆けてくる。
まるで舞うように軽々と、地面の上を跳ねるその女性——その姿を見て、ヨハンは思わず目を見開いた。
「いやあ、あんまりに綺麗な街だから、つい見て回りたくなって。……おや。あんたが私たちの世話役かい?」
褐色の肌。この国では珍しい黒髪に、夜明けの陽のような美しい金色の瞳。豊かな身体を薄手の衣装が包み、そのたびに柔らかな布が風に揺れる。
女は人懐こく笑うと、ヨハンへ右手を差し出した。
「よろしく。私はこの一座の踊り子——サロメアだ」
——それが、文官ヨハン・リヒターと踊り子サロメア。
本来なら決して交わることのないはずだった二人の、最初の出会いだった。




