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歌ってる最中に信じられないほど頭が痛くなって、ついでに呂律も回らなくなって、演奏中止のボタンに手を伸ばしたところまでは覚えていた。
「――あたし、ほんとに疲れてたんだな」
ちょっと本気でびっくりした、とカラオケ屋の天井を眺めながら、七瀬沙季はつぶやく。
毎日通い詰めている場所だけれど、この角度から物を眺めるのは、はじめてだった。
「……ビビるわ」
床に倒れていた。
突然気が遠くなって、それで、気が付いたら仰向けで、横になっていた。
「いま、何時だろ」
ものすごい時間が経ってたらやばい。学校とか、バイトとか。そう思って、沙季は起き上がって、
「こんちわ」
「おわっ!」
自分を覗きこんでくる、小さな女の子と目が合った。
「えっ、わっ、びっくりしたあ!」
飛び上がって、わざわざ自分の状況を大きな声で口に出すことで、ちょっとだけ混乱を収めようとする。
ひとりで入っていたはずだった。いつもどおりのヒトカラのはずだった。それがなんで、ふたりになっているんだろう。
顔をまじまじ見てみたけれど、知らない女の子だった。たれ目たれ眉、小さな口に小さな鼻。ほにゃけた顔立ちで、やたらにたぬきに似ている。小学生くらいの女の子。沙季はそこそこ背が高いから、胸のあたりに向こうの頭がある。
気持ち、膝と腰を曲げながら、どっから入ってきたんだ、と聞こうとして、いや外の廊下からあたしがぶっ倒れてるのが見えて中に入ってきてくれたのかも、いいちびっこじゃん、なんて思ったりして、
「七瀬沙季さん」
「へ」
意表を突かれた。
もう一度女の子の顔をじっくり見た。
やっぱり知らない。
「あなたは若い身空でありながら、脳卒中という病により、突然お亡くなりになられてしまいました」
「は? え?」
「平均的な種族寿命よりもはるかに短い生であったことは否めませんが、あなたが歩んだ道程の輝きは、その短さによって霞むようなものではありません。あなたの素晴らしき生を、不肖このルウが、死神を代表して称え申し上げます」
ばさばさ、とその女の子――ルウが、手に持った『わくわく! 魂送り体験学習!』を挟んで、拍手をする。
「さて、納得いかぬこと、また『物質界』に遺した未練もさまざまあることと存じますが、身の世も心の世も巡り回るものでございます。どうぞ今後の世の安寧を思い、わたくしの拙い水先案内にご同行いただければ幸いでございます――、って」
そこまで言うと、ルウはじっと、沙季を見つめて、
「これに書いてあるの」
「え、うん」
「例だって。慣れてきたらアレンジしてもいいんだよ」
「う、うん。そっか……」
なんだこのちびたぬきは。
沙季はじとっとした目で、ルウを見る。
ちびっこだった。どう見ても。
自分の弟と同じくらいの年のくらいだろう。にしては口にしてきた言葉のIQが高すぎる。自分でやれと言われても考えつかないし、小学生だったらちゃんとそれらしく読めるだけですごい。
しかもその言っている内容ときたら。脳卒中? お亡くなり? 短い生? ずいぶん不謹慎な取り合わせだ。というか人にこれを言うのはふつうに失礼だ。でもひょっとすると学校でそういう悪ふざけが流行っていて、意味も知らないのに言っているだけかもしれないし、そういえば自分が小学生だったころにもそういうものがあった気がする。ええと、あれはなんだっけ。確か合唱コンクールの課題曲のめちゃくちゃな替え歌をしていて――、
自分自身と目が合った。
「――――は?」
目線を、ちょっと下げただけだった。
あれはなんだったっけ、とぐるぐる視線を動かしていて、その途中でたまたま下をむいただけだった。
なのに、そこにいた。
豪快に白目をむいて、床にぶったおれている自分が、そこにいた。
すごく死体に似ている。
というか、
「マ、」
「沙季ちゃん」
茫然としたところに、被せるように声。
ルウは下から覗きこむようにして、じっと沙季の瞳を見つめている。
「生き返りたい?」
☆
「――つまりは、こういうことだな?」
カラオケボックスでは、ずっとデモムービーが流れている。ビジュアル系の五人組が、実家で飼っている犬の話をしていて、その裏で浮気した恋人を刺殺して自分も死ぬ、という歌詞の歌が聞こえている。
隣り合わせに座って、沙季は腕組みしながら言う。
「あたしは死んだ」
「うん」
「で、おチビちゃん……」
「ルウ」
「ルウ、……ちゃん、は、」
「ちゃん、なくていいよ。わたし年下だもん」
「ルウは、死神で、あたしのお迎えに来たと」
こっくりルウは頷いた。それを見て、沙季は自分の口元を手で抑えて、
「……マジかー……」
大きく溜息。
この年で死ぬのか。この年で脳卒中とか、本当になるものなのか。
そんな言葉はうそである、と否定したい気持ちも、もちろんあった。でも、目の前で白目をむいて轢かれたカエルみたいに横たわっている自分の死体を見れば、受け入れるしかない。
自分は死んだのだ。
「やりたいこと、まだたくさんあったんだけどなあ……」
数え上げればキリがない。ふつうの高校生だから、ふつうに色々やりたいことがあった。
でも、仕方がない。沙季は、そうとも思う。
だって、病気なのだし。この若さで、という悲しみは当然あるけれど、しょうがないことでもある。病気になる時期というのは選べないし、治るかどうか、そもそも治療を受けられるかどうかだって、運次第なのだ。
運が悪かった、で自分の人生をまとめたくはないけれど。
運が悪かった、としか言いようのないことだってあると、わかってもいる。
「そんな沙季ちゃんに朗報なんだけど」
「ん?」
ぐい、とルウが身体を寄せてくる。
死神らしいけれど、沙季の目にはそうは見えない。自分が死んだという話は受け入れられたけれど、ルウが死神という部分だけはいまだにちょっと疑っている。いや、死神を騙る悪い生き物……生き物?なんじゃないかとかそういうのじゃない。
ただ、死神なんて仰々しい名前の存在には見えない。小学生にしか見えない。いきなり年上をちゃん付けで呼んでくるあたり、特にはっきり小学校時代の記憶をよみがえらせてくる。
「ここだけの話、生き返る方法っていうのがあるんですよ」
「……へえ」
それもあって、めちゃくちゃ淡白な返事になった。
ルウはそれに驚いたように、
「え? 興味ないの?」
「いや、あるっちゃあるけどさ……。生き返れるなら生き返りたいけど、でも、そんなうまい話ないだろ」
「なんで?」
「え?」
「なんでそう思うの?」
「え……。だって、そんなにうまくいくことってないだろ。死んだけど生き返れますって、そんなこと簡単にできたら世の中の死んだ人みんな生き返ってきてるだろうし。それにほら、うまい話には裏があるっていうだろ」
「かわいそう……。沙季ちゃん、ひどい目にあったからもう信じる心をなくしちゃったんだね……」
「…………」
嫌味で言ってんだったらどついたろかこのガキ、と思ったけれど、別に悪気があるわけでもなさそうだったので、グッとこらえた。
たぶん意図せず失礼なことを口にしてしまうタイプなんだろう。年下を相手に怒鳴り散らかす趣味があるわけでもないし、ここは寛大な心で接してやろうじゃないか。沙季は構え直して、
「でもね、理由もなくひどいことがあるんだったら、理由もなくいいことがあってもいいんだよ。というわけで、かわいそうな沙季ちゃんをわたしが助けにきました。えらい」
ルウは胸を張って、一拍。
「……えらいと思ったら褒めていいんだよ?」
「え、あ、うん」
謎の催促を受けて、えらいえらい、と頭をなでる。ルウはまんざらでもなさそうに目を細める。沙季は思う。自分がこの年くらいのころって、こんなんだったっけ。弟とも比べてみる。いやこんなんではない。これじゃ小学生というより、かしこい動物だ。
でも、結構かわいげがあったから、まあいいか、とも思った。
「でね、生き返り方なんだけど」
ひとしきりなでまわされて満足したのか、ルウは続きを話し出す。
「生き物っていうのはね、みっつのものでできてるんだよ。『体』と、『魂』と、それから『たまひも』」
「たまひも?」
「霊紐って書いて、『たまひも』。『体』と『魂』って、それぞれ別のものでしょ?」
でしょ、と言われても。
知らんけど、と返しそうになって、そこで沙季の視界に自分の死体が映る。自分自身のいまの姿を見てみれば、なるほど、とうなずける。確かに『体』はそこで死んでいる一方で、こうして話している自分はきっと『魂』で、それぞれ別のものらしい。
「『体』と『魂』がくっついてひとつの生き物になるんだけど、元々が別の物同士だったら、ふつうにしてたらくっつかない。で、必要になるのが『たまひも』」
「はあ」
こっちは、とりあえずうなずいてはみたものの、まるで納得できていない。いや、もちろん理屈としてはわかるけれど。要は『魂』を『体』にぐるぐる巻きつけるためのものなのだろう。でも、『たまひも』なんて言葉聞いたこともないし、『体』とか『魂』とかに比べれば、受け入れるハードルがちょっと高い。
なんて思っていたら、ルウがぴょん、と椅子から下りて、沙季の『体』の前に屈み込んだ。
「よいしょ」
胸のあたりに、ひょいっと。
手を差し込んだ。
うわっ、と声を上げる間もない。ルウはそのまま、手首までずっぷりと沙季の『体』に埋めてしまって、二、三回手首を返したかと思うと、ずるずると、何かを手に持って、引きずりだした。
あ、それか。
「『たまひも』?」
「『たまひも』」
聞けばうなずく。白金色に輝く、ひとり用の縄跳びみたいな太さのひも。
ボロボロになって、途中でちぎれていた。
「この『たまひも』はダメになっちゃったからもう使えないんだけど、新しい『たまひも』を持ってきて、『体』と『魂』をもう一回くっつければいいんだよ。そうしたら、沙季ちゃんまた生き返れるよ」
はあ、と新情報に頭をぐるぐる回しながら沙季は、
「どっからその『たまひも』って持ってくんの?」
「『心霊界』。わたしたちがいつも住んでるところから。『よすがの塔』っていうところがあって、そこに『たまひも』がたくさんあるはずだから、そこから取ってくるの」
「どうやってそこまで行くんだよ?」
「いっしょに行こうよ。わたし、さっき先生がやってるの見てたから、自分でも『心霊界』と『物質界』のゲート、開けられるようになったもん」
「――先生?」
ぶわっ、と不安が押し寄せてきた。
「うん、アーミラ先生」
「――おまえ、もしかしてアレ? 死神の見習いとか、そういうやつ?」
「うん」
「一人前じゃない?」
「でも、大人より頭いいってよく言われるよ」
「その一人前の死神ってのは、なんで来てないんだ?」
「おいてきたから」
「…………なんで?」
だって、とルウは胸を張って言う。
「言ったら、止められるもん。みんなこんなことしちゃダメだって言うもん」
「――よし、わかった。それはやめよう」
えっ、とルウは驚いて、
「なんで?」
「あのな。おまえは見た目どおりのちびっこだからまだわからないかもしれないけど、ものごとにはルールってものがあるの。そんで、そのルールっていうのはいろんな人が、いちばんよくものごとが回るように考えたものなの。そういうの、考えなしに破ったらまずいんだよ。おまえだって、いや死神のことはよく知らないけどさ、たぶんすっごい怒られるし、あたしだってそれ、バレたらどうなるかわかんないだろ。だからそれはやめよう。あたしはここでふつうに待、」
「なんで?」
もう一度。
今度は、喋っている途中の沙季が、思わず言葉を止めてしまうような重さで、ルウは言った。
「ルールがまちがってることなんて、たくさんあるよ。まちがってるルールだったら破ったっていいじゃん。むしろ、破らない方がまちがってるよ」
「いや、あのさ。そういうの、おまえが子どもだから、それがどう正しいのかわかんないだけで、」
「どこが正しいの? 沙季ちゃん死んじゃったんだよ?」
とっさに、何も言い返せなかった。
「自分が死んじゃうようなルールが正しいです、って言われて、それで納得できるの? そんなのおかしいよ。沙季ちゃんがひどい目に遭うのがルールのせいなら、ルールがおかしいって、そう思わないの?」
「……いや、おまえ、あたしの何を知ってんだよ」
「べつに、なにも知らないけど」
一瞬、言われたことの意味がよくわからなかった。
「――は?」
「だって、きょうのしおりに書いてあるの、名前とかそのくらいだもん」
ほら、とルウは『わくわく! 魂送り体験学習!』の六十六ページを開いて、沙季に見せてきた。
顔写真。名前。年齢。それだけ。
それだけしか書いていない。
文字も数字も沙季には読めなかったけれど、それくらいのことはわかった。
ものすごく疑問に思った。
「……おまえ、あたしがものすごい悪いやつだったらとか考えなかったのか? 連続猟奇殺人犯とかでさ、生き返らせたらそのせいで百人とか二百人とか、そのくらいの人たちが死ぬかもとか、そういう警戒ないわけ? こんだけの情報で」
「そんなわけないじゃん」
ルウは平気で言う。
「だって、学校の体験学習でまわる人なんだもん。そんな危ない人なわけないよ。たぶん、ものすごくいい人。わたしたちがぞろぞろついてきても、絶対怒んないだろうなーって思われてるような人に決まってるよ」
「――――」
絶句して。
そのあと、笑いが洩れた。
理由はまあ、いろいろあった。
突然死んだこととか。
突然死神とかいうのが現れたこととか。
それがどう見てもちびっこだったこととか。
しかも体験学習の一環として自分が組み込まれていたこととか。
組み込まれていても怒らなそう、なんて死神から思われているらしいこととか。
実際、目の前でちびっこが好き放題言っていても、まるで怒りが湧かないこととか。
「あのね、沙季ちゃん」
それを一言にまとめるとすると、
「いい人なんだから、ルール破って、生き返ったっていいんだよ」
「――ああ、うん。確かにそうかもな」
ばからしくなったから。
「んじゃ、試しに生き返ってみるわ」
もうどうにでもなれと、そう思ったから。
だから、投げやりに笑えた。